福音書の語る福音
2023年01月03日(木)
神のさばきと憐み
2023年01月06日(木)
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2023年01月06日(木)

完全なる明け渡し

編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第七章の記事です。

ゲイリー・トーマスは、彼の著書「Seeking the Face of God」の中でこのように述べています。「クリスチャン信仰が健康であるかどうかは、私たちの幸福、成功、また身体的健康によっては測れません。ましてや、この一年で何人の人を主に導いたかによって定義されるものでもありません。クリスチャン信仰の健康は、究極的には、私たちがいかに心から降伏の旗(flag of surrender)を振っているかによって定義されます」 すなわち、私たちの霊的健康を測る主な方法は、私たちが神にどれだけ明け渡している(surrendered)かを判断することなのです。健康的で実りあるクリスチャン生活を送ろうとするなかで私たちが最も困難に感じることの多くは、神に完全に明け渡そうとしないことに起因しているのではないでしょうか。教会は、キリストに明け渡そうとする姿勢にほとんど成長が見られない人で溢れています。だからこそ、私たちの教会の多くは霊的に不健康な状態なのです。不健康な教会は自己中心的になります。神に選ばれたあらゆる国の人々の救いと聖化におけるキリストの栄光より、自分たちの会堂の大きさや予算のことばかり気にするのです。

私はアメリカ人です。正確には、アフリカ系アメリカ人です。私は、明け渡しという概念に難しさを感じています。アメリカ人は容易に明け渡しません。明け渡しは、弱いことを意味するからです。負けを認める、もうお手上げだ、というイメージではないでしょうか。神に明け渡すことは、栄光の主であるイエス・キリストを知った人にとってさえ、難しい課題なのです。

まず、主が求めておられると私が信じる明け渡しのかたちについて、そしてその明け渡しに至るまでの道について、考えてみましょう。このテーマについて考えるうえで助けになったのは、ローマ人への手紙12章1-2節です。神は、私たちのからだを生きたささげ物として献げなさいと召しておられます。ここで、使徒が私たちのからだを神に「献げよ」と言っているのは、クリスチャンは誰もが祭司であるということを指しています。信仰者である祭司です。これは新しい概念ではありません。出エジプト記19章6節では、古い契約に属する人々を「祭司の王国」と呼んでいます。新しい契約を明らかにする著者たちはこれを取り上げ、教会を「王である祭司」と呼んでいます(一ペテロ2:9)。神の御前に立つ祭司として、私たちはささげ物を持ってこなければなりません。贖いのためのささげ物ではなく、贖いへの応答としてのささげ物です。私たちは何を献げますか? 私たちに献げられる唯一のものは、私たち自身です。神の求められる明け渡しは、私たちのからだを神に明け渡すことです。私たちの命とそれに属するすべては、神に自由に用いられるべきです。パウロは、私たちの手足を「義の道具」として神に献げよと語っています(ローマ6:12-19)。もはや、私たちは神に反逆するために自分の足、腕、耳、そして心を用いてはならないのです。キリストによって義とされたのですから、私たちは自分自身のからだのすべての部分を神に明け渡します。それは、私たちが神の目にかなうことをするようになるためです。パウロはローマ人への手紙12章でこの明け渡しについて総括的に語っていますが、それは完全なる明け渡しであり、該当しない部分は一つもないことを表しています。私たちの生活のいかなる側面も、イエス・キリストを通して献げられる神への献身から外れてはならないのです。

パウロは、わたしたちのささげ物が聖なる生きたものであると言います。忘れてはいけません。神は、死んだささげ物は求めておられません。神は生きたささげ物を求めておられます。神は、ご自身の民が世のものを追いかけるのではなく、喜んで神に明け渡し、神のうちに喜びを見出すことを願っておられます。当然、私たちの神である主は聖なるお方ですから、神に献げるささげ物は、純粋で他の誰の手にも渡っていない、聖なるものでなければなりません。神の民がへりくだって、聖なるささげ物として自らを献げるとき、教会は「霊的な礼拝」[訳注:spiritual worship (ESV). 新改訳聖書第三版はこの英語に対応する]を経験するとパウロは言います。私たちは礼拝のなんと細かい部分について争っているのでしょうか。讃美歌を好まないという人もいれば、現代的なワーシップソングを好まない人もいます。楽器を用いることを好まない人もいます。誰もが、自分の考えこそが他の人の考えよりも聖書的だと思っています。しかし、私たちがキリストへの喜びの明け渡しにおいて成長しない限り、真に神を礼拝することはできません。生きておられる神に、死んだささげ物や私たちの聖なるからだ以外のものを献げるのは、まさしく堕落した礼拝です。私たちは神のものだと言いながら、私たちの人生は独りよがりで欲深く、敵意や人種差別や情欲やねたみに塗れているのです。では、どうすれば私たちの生活と証しの中で神の力を体験することができるのでしょうか? 答えは、神に日々明け渡すことです。「わが主よみまえに みなささぐ(I Surrender All)」と賛美し、神がその御力によって私たちを変えてくださると信じることです。

この明け渡しに至るまでの道もまた、私たちの問題の一部分です。私たちの心はこの世のことでいっぱいです。もっともっと欲しいと求め続け、少しでは満足できず、借金をします。アメリカン・ドリームを叶えようとして、結婚生活を犠牲にします。子どもたちに教理を教え込み、汚れを寄せつけないよう育て上げたのにも関わらず、大学にいって異教徒のように振舞うのは、果たして驚くべきことでしょうか? 彼らは、キリストへの完全なる明け渡しや、そのように礼拝する共同体の中で働かれる神の力を、体験せず、目撃せずにきたのです。

私たちはなぜ神に完全に明け渡すべきなのでしょうか? 私たちの天の父なる神は、キリストにあって、私たちにこれ以上ないほどの憐みを豊かに注いでくださいました。憐みとは、哀れな者に与えられる神の慈悲です。それを受けるに値しない者に与えられるという点で、恵みと似ています。キリストなしの私たちが何であるか、あなたは本当に理解していますか? 神の民は、私たちの完全な堕落が明らかにされるよう神に求めなければなりません。それは、私たちの罪と、私たちの文化の罪を嘆き悲しむようになるためです。それが、幸いへの道なのです(マタイ5:4)。私たちが聖なる神からいかに離れていて、霊的に貧しい者であるかを理解するとき、キリストによる義認、聖化、選び、栄化における神の憐みは、今までにないほど明らかになります。神の偉大なる憐みにへりくだる人々や教会は、日々キリストに人生を委ねる姿勢において、より成長することができます。私たちの礼拝は神中心となり、豊かな神の愛の力によって心が新たにされるでしょう。そして、神の驚くべき恵みによって、そのような教会は、地域に住むあらゆる国の人々を弟子とすることができるのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ケビン・スミス
ケビン・スミス
ケビン・スミス牧師は、フロリダ州カトラーベイにあるPinelands Presbyterian Churchの主任牧師である。