ヨハネの福音書の証言
2022年12月30日(木)
完全なる明け渡し
2023年01月04日(木)
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福音書の語る福音

編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第六章の記事です。

すぐに答えてください。福音書とは何ですか? 時間切れです。あなたはこのように答えましたか? 「福音書はイエス・キリストの伝記である」 福音書を単なる伝記として読む場合、言うならば、それは基本的にことわざの言うところの「木を見て森を見ない」ようなものです。福音書には、より良い読み方、聴き方があります。確かに福音書は伝記です。しかし同時に、福音書はイエス・キリストの生涯を神学的に解釈したものであり、イスラエルの王の到来と全地上に神の王国がもたらされることを宣言するためのものなのです。

このように読むと、預言者たちの約束が成就したことを告げ知らせる福音を、福音書の中から読み取ることができます。預言者たちの約束の一つは、イスラエルに王が与えられるというものでした。主はアブラハムに約束し(創世17:6)、ユダに約束し(創世49:10)、ダビデに約束し(二サム7:12-13)、ソロモンの歌(詩篇72)やゼカリヤの預言(ゼカリヤ9:9)を通して神の民たちに約束されました。この王が来られるとき、王はすべての国民のための平和の王国の到来を告げます(イザヤ2:2-4; 9:1-7)。私たちはこの王とその王国の到来を、福音書の物語を通して色鮮やかに見ることができるのです。

王とその王国の到来は、私たちの主の誕生物語に描かれています。イエスの系図では、イエスは「ダビデの子」(マタイ1:1)と表現されています。アブラハムからダビデまでの14世代は偉大な王とイスラエルの王国に向かって進み(1:2-6)、ダビデからバビロンまでの14世代はその輝かしい王の王国から遠ざかっていきます(1:7-11)。イエスの到来により、バビロンからイエスまでの14世代はダビデの王権と王国の回復までの時代です(1:12-16)。この幼子の真の姿は「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」を「礼拝するために」(2:2)旅をする「東の方から」きた「博士たち」(2:1)によって明かされます。

ヨハネはこの王の到来を告げ、「天の御国が近づいた」と説きました(3:2)。これに対し、主ご自身は、会堂での説教の中で「天の御国が近づいた」と自ら宣言されています(4:17)。イエスはご自身の宣教を通して「御国の福音」を宣べ伝えられました(4:23; 9:35; ルカ16:16)。これは、福音の主題が御国であることを意味しています。私たちの主は、「天の御国の奥義」を弟子たちに伝えるために、たとえ話を用いて語られました(マタイ13:11; 13:19, 24, 31, 33, 38, 41-45, 47, 52も参照)。イエスは王であることを利用して、パリサイ人たちを混乱させ、彼らに尋ねました。「『あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。』彼らはイエスに言った。『ダビデの子です』」(22:42)。すると、イエスは詩篇110篇から「ダビデは御霊によってキリストを主と呼び、『主は、私の主に言われた』」(マタイ22:43-44a)と指摘されます。そして「ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう」(22:45)、とイエスは見事な結論をつきつけ、パリサイ人は言葉を失ってしまうのです。

受難の物語でさえも、伝記の悲しい結末などではなく、すべて王とその王国について語っています。大祭司カヤパがイエスに尋問したときもそうでした。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか」(26:63)と聞かれ、イエスはこう答えられます。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」(26:64)。しかし、この王はまず人々のあざけりを受けることになります。「そして…(彼らは)緋色のマントを着せた。それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、からかった」(27:28-29)。イエスの頭上には「これはユダヤ人の王イエスである」という張り紙まであったのです(27:37)。しかし、ヨハネの福音書が明らかにしているように、私たちの主は謙卑を通して高挙されました。「わたしが地上からあげられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」(ヨハネ12:32)。

もちろん、私たちの主の復活は、主の王権と王国(御国)の福音を証明する最大の出来事です。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」(マタイ28:18)。これは、ヤコブがエルサレムの議会で言ったように、復活は倒れたダビデの仮庵の再建を意味したからでした(使徒15:13-18; アモス9:11-12も参照)。預言者たちが預言したとおり、王が来られ、王国が再建されたのです。

このように福音書を読むことで、私たちは何が得られるでしょうか? 第一に、すでに来られた王の王国が目前に近づいていることを受けて、私たちは緊急性をもって福音書を読むようになるはずです。マルコの福音書の「すぐに」という特徴的な言葉は、福音書を読むときにそのメッセージに正面から向き合わさせる力を感じさせます(1:12, 18, 21, 23, 29, 42)。第二に、福音書は単なる伝記ではないため「昔々、はるか彼方で」起こったことであるかのように読むものではありません。私たちは信仰によってこれらの物語に参加するべきなのです。「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:30-31)。第三に、説教者たちが福音書を教えるときは、歴史的遺物として語ったり、はたまた成功するクリスチャン生活の原則や、受難週礼拝のうわべを飾るものとして用いたりしてはいけません。むしろ、王がこの世に建て上げられた永遠の王国の開始を宣言する緊急の告知として説教すべきです。牧師は福音書を新しい律法にしてしまうのではなく、福音書から福音を語らなければなりません。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ダニエル・R・ハイド
ダニエル・R・ハイド
ダニエル・R・ハイド牧師(アムステルダム自由大学博士課程)は、カリフォルニア州オーシャンサイドにあるOceanside United Reformed Churchの牧師を務めている。『God in Our Midst』『Welcome to a Reformed Church』など多数の著書がある。