不安がもたらす影響 
2022年08月10日(木)
不安とともに信仰に生きる
2022年08月16日(木)
不安がもたらす影響 
2022年08月10日(木)
不安とともに信仰に生きる
2022年08月16日(木)

不安に対する解決策

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第五章の記事です。

私たちは数々の科学的発展を遂げた世界に住んでいます。快適な生活のために、電子レンジや食洗機、携帯電話やAIアシスタントのSiriに至るまで、様々なものを指先で使いこなして生きています。しかし、これらのように、より楽でシンプルな生活を提供してくれるはずのものに囲まれながら、人生はなおも抗えないほど複雑です。多くの人はストレスを抱え、困惑し、不安でいっぱいです。カウンセリングセンターはカフェの数ほどに増えました。教会でもカウンセリングを必要とする人があまりに多く、彼らを適切にケアするための人員や資金が足りていないことは、ほとんどの牧師が認めるところでしょう。私たちは不安に満ちた世界に住んでいます。しかし、私たちはクリスチャンとして、聖書に目を向けることで不安に対する神の解決策を知ることができます。それは、キリストとキリストにある希望に焦点を当てることです。ここでは、私たちを励ます主な箇所として、ローマ人への手紙8章18-30節を取り上げます。

私たちが直面する試練や困難は、多くの点で新しいものではありません。不安も含め、「日の下には新しいものは一つもない」のです(伝道者1:9)。一世紀の教会も、多くの点で極めて困難な状況にありました。当時の政治権力はキリスト教に対して全く好意的ではありませんでした。皇帝ネロは教会を激しく軽蔑したことで悪名高い人物です。キリスト教徒の財産を取り上げ、彼らを拷問するなど、ネロの迫害は徹底的なものでした。ネロがキリスト教徒を燃やしてたいまつにし、異教徒たちをもてなした下劣な「園遊会」はあまりにも有名です。ローマに住んでいたキリスト教徒は、毎日死と隣合わせで生き、私たちが経験したことのないような社会的隔絶を経験しました。ストレスに対する自然な反応が不安であるとすれば、ローマの教会には不安になる理由がたくさんあったのです。

パウロは迫害されている教会を慰め、励まし、抑圧された中でも恵みを体現することができるようにと、ローマ人への手紙を記しました。ローマの教会は、当然ながら困惑していました。彼らは王の王、主の主であるイエスに自らを委ねていたのです。しかし、イエスに対する忠誠のもたらしたものは、地上での平和と安穏とはほど遠いものでした。多くの面で、彼らの社会的地位や物質的な豊かさは、イエスとイエスの教会のために生きる前の方が良い状態にあったことでしょう。今や彼らは、自分の故郷に住みながら、よそ者であり外国人です。彼らは教会に対するサタンの悪意の全てを目の当たりにしてきました。ネロはもはや、教会に暴力と破壊をもたらすサタンの操り人形に他なりません。キリスト教徒は、蛇さながらに牙をむくネロによる痛みを経験し、不安と絶望に支配される誘惑にかられました。一体どこに、イエスとその御国があったのでしょうか。彼らの望んでいた平和は、どこにあったのでしょうか。彼らの家は、仕事は、家族はどうなるのでしょうか。

現代と一世紀のローマとの間にわずかでも類似点を見出さない限り、この光景を思い浮かべるのは困難です。私たちは、当時の教会のような迫害をそのままの形で経験することはないでしょう。しかし、悪の脅威から守られているわけでもありません。キリストにあるものとして生きることは犠牲を伴うことを、私たちは知っています。社会的な反発や疎外感もあります。私たちが背負う十字架の裂片は、救い主の十字架の重さに比べれば軽いとはいえ、十分痛みを伴うものであることを知っています。また、不安や絶望に陥る誘惑も知っています。私たちの周りの世界では嵐が吹き荒れ、教会の中の多くが自らの証を妥協し、真理のために立つことを拒む姿を見ています。狼が群れを囲み、羊は沈黙しています。

このような牧会的状況に、パウロは心強い励ましの言葉を語りました。ローマのキリスト教徒が必要としていたのは、高尚な決まり文句でも、「今が最高の人生だ」という空虚な約束でもありません。必要としていたのは、彼らの不安に満ちた目が、この世のものと、この世の偽りの神々から逸らされること、そしてその目がキリストに向けられ、キリストに属する者に与えられる天国の確かな希望に向けられることでした。ローマ人への手紙8章18-30節でパウロが述べているのは、まさにこのことです。パウロはまず、信仰者が通る試練や苦難は、この悪い時代の宿命であることを教会に教えています。これらの苦難は天地創造の直後、神が創造された非常に良いものが、罪の結果、すぐさま虚無と失望に服したときに始まりました。アダムが神に対して罪を犯した瞬間から、不吉な暗い雲がすべての被造物に影を落とし始めたのです。人間だけでなく、被造物自体が、罪の侵入によって損なわれてしまいました。被造物は、呪いが解かれ、罪の痕跡がついに取り除かれる日、死が過去のものとなり、人生が美しく、純潔で、平和なものになる日を待ち望むようになったのです。ローマ人への手紙8章にあるパウロの言葉によると、被造物は、終わりの日である新しい創造を待ち望んでいます。それは、すべてのものが決定的に地上が天上と同じように美しく平和になる日です。

残念なことに、ほとんどのクリスチャンは終末論について、(もし考えているとしても)過度にセンセーショナルな考えを持っています。終末の直前には具体的に何が起こるのか、反キリストは果たして誰なのか、教会の秘密の携挙があるのかどうかなどの疑問ばかりに執着します。これらの問題は、聖書における終末論の真の関心ごとから明らかに目を逸らすものです。真の関心ごととはすなわち「すでに到来しているが、いまだ完成されていない」キリストの御国です。イエスはすでに御国の王であり、キリストの御国はキリストの生涯、死、そしてよみがえりによって到来しています。パウロによれば、御霊は、キリストにあって私に与えられたものに対する保証(手付け金)です。神の国の初穂はすでにありますが、その御国が完全に実るのはまだ先の事なのです。

しかし、このキリストの御国の「すでに、いまだ」という緊張関係こそが、私たちにとって多くの問題を生み出しているのです。私たちは「いまだ」のもの — 地上における天国 — が今与えられることを期待し、忍耐と堅忍に生きることを強いられると、しばしば心配し思い煩います。栄光の冠が今与えられることを求め、代わりに神が私たちに苦難の十字架を負わせるときには、いとも簡単に信仰の道筋から外れてしまいます。マルチン・ルターが述べたように、私たちは十字架の神学より、栄光の神学に励むことにあまりに多くの時間を費やしてきました。これは、一世紀特有の問題ではありません。現代の便利な生活は、何ごともほんの一瞬で、即座に結果が出て当然だという考えを私たちに植え付けました。そのため、キリストの御国の「すでに」と終末論的完成の「いまだ」の間で、忍耐強く生きるのを学ぶことは難しいかもしれません。パウロはそのような教会に対し、彼らの意識が、すでに長い間忍耐強く待ち望んでいる被造物へ再び向くよう助けています。また、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」(ローマ8:18)と述べ、新しい創造へも目を向けさせます。私たちが今耐え忍んでいる苦難は、後に私たちのうちに現されるものに比べれば霞んで見えるほどです。前者は後者との比較にすら値しない、とパウロは言っています。

クリスチャンは、物事が本来の順で起こらない世界に生きているのです。私たちは地上で生きていますが、天国の者です。この時代に生きていますが、最終的に、私たちのいのちは来るべき世によって定義されます。私たちの王はすでに私たちと共におり、将来も私たちのもとへ来られます。神は私たちの旅路の友であり、旅の目的地でもあります。私たちはすでにキリストのうちにありますが、天国で主と出会うときに得られる完全な状態にはいまだ至っていません。これらの真理を理解することは簡単ではないかもしれません。しかし、この真理こそ、クリスチャンであること — キリストのうちにあること — そしてキリストが私たちのうちにおられることの核心です。

これらのことを踏まえて、ローマ人への手紙8章28-30節を読んでみましょう。ここでは、多くの点でパウロの慰めが最高潮に達します。この箇所については様々なことが言えますが、一つのことに注目したいと思います。それは、キリストのかたちに変えられることです。パウロは、この励ましの箇所を結ぶに当たり、この悪の時代にあっても神が絶えず偉大な「益」のために働いておられることに教会の注意を向けます。それは、神の愛する人たち(教会)をキリストのかたちにつくり変えるための神の御業です。この悪い時代にあって経験する苦難は、神が私たちをキリストのかたちに変えるために用いられる道具に過ぎません。これらの苦難は神の摂理から外れたものでも、神の気まぐれでもありません。むしろ、私たちが経験する困難にさえ、益なる目的があります。それは、困難によってキリストのかたちに変えられるという益です。

キリストのうちにある、というアイデンティティーは、試練や逆境への対処に影響を与えます。試練が私たちを不安や絶望に引きずり込むべきではありません。むしろ試練は、天国に希望を抱かせ、キリストが私に充分であること、そして今の一時的な軽い苦痛など、天での永遠の栄光の重さとは比べものにならないということを思い起こさせるはずです。ですから、私たちは心配しません。恐れません。思い煩う必要はありません。「神は我がやぐら」という讃美歌にある通りです。「わが命も わが宝も 取らば取りね 神の国は なおわれにあり」と。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

エリック・B・ワトキンス
エリック・B・ワトキンス
エリック・B・ワトキンス博士は、カリフォルニア州サンマルコスのハーベスト正統長老教会の主任牧師であり、インディアナ州ダイアーのミッドアメリカ改革派神学校で宣教・伝道センター長を務める。著書に「The Drama of Preaching」がある。