
不安に対する解決策
2022年08月12日(木)
正しいさばきを行うために
2022年08月18日(木)不安とともに信仰に生きる

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第六章の記事です。
不安はどこか不可解で、捉えどころがありません。不安によって衰弱しきってしまい、気がつくと救急車の後部座席にいた、という経験をした人もいれば、穏やかな眠りに落ちる前に、ほんのささいな不安が時折ふと頭をよぎるだけという人もいます。ある人にとっては、不安のために日常の基本的な仕事をこなすことすら困難になります。一方で、不安を抱えるのは年に数回のみで、日常生活に大きな支障をきたすことはないという人もいます。どのような形の不安であれ、クリスチャンは不安定な心に対して聖書の教えと知恵で対処する方法を知っておく必要があります。不安が頭をもたげるとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。不安が常に付きまとうとき、私たちはどのように信仰を保つことができるでしょうか。
これらの疑問について考える前に、覚えておくべきことがあります。神から与えられた「戦うか、逃げるか」精神は、良いものであるということです。神は私たちの脳を、危険を察知するように造られました。しかし、この脳も堕落の影響を受けているため、危険を感じとるシステムが私たちを迷わせることもあります。従って、すべての不安が、マタイの福音書6章の命令と約束に背いた結果であるというわけではありません。R・C・スプロール博士はこのように述べています。「私たちの主ご自身が、何も心配することはないと教えておられる。それでもなお、私たちは信仰があるにも関わらず、不安に陥り憂鬱にさえなる被造物なのである」 私たちは肉体と魂の両方を持つ被造物であるがゆえに、包括的で複雑な存在です。私たちは、肉体を蔑ろにし霊のみを重んじるグノーシス主義者ではありません。聖書はそのような価値観を語っていないので(一列王19; 一テモテ5:23参照)、私たちもそのような思想に倣うべきではありません。例えば、交通事故で九死に一生を得たものの、それ以来車に乗ることが非常に困難になった人がいるとしましょう。彼の苦悩の根源は、肉体的なものでしょうか、それとも霊的なものでしょうか。答えは、両方です。肉体を持った霊として私たちが経験することは、すべて肉体的であり、霊的なのです。
自然界における神の一般啓示を科学的に調査すると、私たちの肉体的(身体的)な経験について多くのことがわかってきます。すべての真理が神の真理であるなら、神のことばに従って、私たちは科学的研究で明らかになったことも自由に受け入れることができます。不安や憂鬱のような症状に関しては、認知機能の障害や脳回路の誤作動を起こしやすい人がいると研究により明らかにされています。不安の身体的・霊的原因がどのようなバランスで混じり合っているかに関わらず、聖書は問題から前進する方法を示しています。この記事では、そのことに焦点を当てます。すなわち、不安にさいなまれるクリスチャンが、いかにして不安とともに信仰に生き、不安からの自由を追い求め、不安の中に、そして不安を通して主の救いの目的を見出すことができるかについて、学びたいと思います。
不安との戦いでは、自分自身こそが最大の敵になることがあります。不安、トラウマ、憂鬱は、不健康な行動(例:質の悪い食生活、運動不足、睡眠不足)、不健康な思考パターン(例:自己憐憫、生産性のない思考、抑制されない感情)、規律の欠如(例:怠惰、孤立)によって、泥沼化する傾向があります。リチャード・バクスターはこのような見解を述べています。「すでに憂鬱になりがちな人は、規律のない思考パターンや抑制の効かない感情によって、容易に、かつ頻繁に、さらに深い憂鬱に陥ってしまう」 不安を抱えがちなクリスチャンは、おそらく他の人よりも、注意深くなければいけません。私たちは自分の思考パターン(一コリ4:20; ピリピ4:8)、行動パターン(一テモテ4:16)、受ける教えの影響(二テモテ4:3-4)に気を配り、祈りと(ピリピ4:6)、自制と(一コリ7:5; 9:25; ガラテヤ5:23)、訓練(一コリ9:27; テトス1:8)に専念し、神の権威あることばに対する自分の感情、気持ち、反応を推し量る必要があります(一ヨハネ3:20)。チャールズ・スポルジョンは、自分自身の不安と絶望に対処するために、感情は気まぐれなものであることを度々繰り返していました。「感情で生きる者は、今日は幸せでも明日は不幸になる」
このような、意識しなくとも湧いてくる感情や思考を解決するには、単に自分の感情を変えて、これらの不快な警告を取り除くことだと思うかもしれません。しかし、感情を変えることが私たちのゴールではありません。信仰をもって従うことがゴールです。信仰をもって従うということは、時に長く痛みを伴う過程を要します。勝手な感情や考えを客観的に捉えることを学ばなければなりません。感情に左右されず、コツコツと忠実に歩むことは難しいことです。私たちは、朝ベッドから起きるのも一苦労です。その日に起こるであろうこと — 絶え間ないメール、悪い知らせの可能性、単調な仕事、手のかかる子供たち、未払いの請求書などを思い巡らすと、なおさらです。祈りつつ、主が支えてくださることを信頼して一歩づつ歩んでいくほかありません。イエスは私たちにこう言っておられます。「苦労はその日に十分あります」(マタイ6:34) 時に、苦労は私たちに与えられている課題一つひとつに十分であることもあります。ひと足ずつ前に出し、私たちは前進していくのです。
詩篇は、不安にさいなまれる魂にとって、
度々訪れることのできる庭であるべきです。
あなたを縛りつける不安から自由になるには、信仰を保ちつつ、辛い不安の中に身を置くことが必要です。具体的には、不安の渦中にあるとき、苦しむ救い主との神秘的結合を有意義に適用することが極めて重要です。マルティン・ルターは、サタンに良心を責められ感情的に混乱していたとき、キリストの苦難の中で自分も共に苦しんでいる姿を思い描いていました。ルターは、悪魔の火の矢が降り、不安のとげに悩まされるときは、救い主と一体となって苦しむことができる機会だと信じていました。それは、古い人の残骸を殺し、自分をコントロールし保証を得たいという願望から、自分を切り離すチャンスでした。引き裂かれるような不安の猛攻を受けようとも、パニックに陥ってはいけません。代わりに、自分の心の反応を客観的に理解するよう努めましょう。詩篇の作者は、私たちに心を静めるよう勧めています。「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46:10)。私たちは平静を保ち、揺るぎない態度を持つのです。古い讃美歌に「この世の望みの 消えゆく時にも 心は動かじ 御誓い頼めば」とある通りです。風いと激しくとも、クリスチャンは神に信頼し、従います。この人生のあいだに主が完全なる安らぎを与えてくださるかどうかは、関係ありません。私たちは不安なときも信仰を持ち続け、不安にすべての支配を許してしまうときには、悔い改めます。
確かに、どのような不安が罪深いものなのかを見極めるのは容易ではありません。ピューリタンのジョン・フラヴェルは、簡単なリトマス試験を提案しています。「恐れが祈りへの思いを呼び起こす限り、それはあなたの魂に有益である。恐れが心の動揺と落胆しか生み出さないなら、それはあなたの罪であり、サタンの罠である」 さらに、私たちはどのような考えや感情を真実と見なすのか吟味する必要があります。最も重要なことは、私たちは不安をどこに持っていくのか、ということです。不安を抱えて主の御もとにいき、そこに身を避けますか?それとも座って考え込み、自分自身に救いを求めますか?自分の考えだけに任せておくと、私たちは不安から逃れようと食べ物に頼ったり、テクノロジーや物質的なもの、または水漏れする水溜めのようなものに頼ることになるかもしれません。人を避けたり、独りでじっとひきこもったり、絶えず精神分析をしたり、何とか自立しようとしたりして、内向きに走りがちな傾向に屈すると、不安の警鐘はますます大きな音で鳴り響くばかりでしょう。私たちには、外側からの言葉が必要なのです。
絶えることのない不安は、ジョン・オーウェンが示しているように、約束によって正面から受け止められなければなりません。
長年の悩みと不安に困り果てた哀れな魂は、キリストという甘い約束を見出す。キリストこそ彼のすべての望みにかなう約束であり、彼を赦す慈しみと、彼を抱擁する愛と、彼をきよめる血と共に来られる。彼はこの約束に自身を幾分委ねるように奮い立たされる。
あなたは神の約束に安らぎを得ますか?それとも、不安がますますあなたを強く支配し、理性が働かなくなったときにパニックに陥るでしょうか。詩篇の作者は、より良い道を示しています。「私のうちで 思い煩いが増すときに あなたの慰めで私のたましいを喜ばせてください」(詩篇94:19)。実際、詩篇は、不安にさいなまれる魂にとって、度々訪れることのできる庭であるべきです。初期の教父であるアタナシオスは、詩篇は聖書の凝縮版である(ルターの予兆)と述べ、人間のありとあらゆる感情のインデックスであると主張しました(カルヴァンの予兆)。アタナシオスは、友人マルケリノスに宛てた手紙でこのように書いています。「詩篇を読むと、自分自身のことを知ることができる。詩篇には、あなたの魂のすべての動き、その変化、浮き沈み、失敗と回復が描かれている」 私たちは、不安の嵐の前にも、その激しい雨の只中にも、詩篇を訪れることができます。そこには、私たちのすべての感覚や感情があるからです。私たちには、詩篇の包み込むような助言が必要です。なぜなら、罪は神から与えられた賜物を歪め、サタンはその歪みを利用するのを非常に好むからです。例えば、優れたものを求めることは決して悪い願望ではありませんが、それが歪められると完璧主義になります。責任感も、度を超えた責任感になり得ます。神は母親を、子供を特別に気に掛ける存在として創造されました。しかし、初めて母親になって新生児を育てるときは、赤ん坊が泣くたびにどうしようもない恐れを感じるかもしれません。このような場合、愛情深い母親は、過度の責任と恐怖の重圧から、すぐに意気消沈してしまうでしょう。詩篇は、不安で打ちひしがれている母親の心に、御座におられる主が神の民のためにすべてを支配しておられることを思い起こさせ、癒しをもたらしてくれます(詩篇121:3-4参照)。
神の民に対する摂理的な助けは、聖書のあらゆる箇所に見られます。イエスは、人生における過度の不安を禁じておられます。そのような不安は、私たちの天の父の愛の御手への信頼を失わせるものだからです。この世の事柄に対する過剰な心配は、私たちが誰を本当に信頼しているのかを明らかにします。イエスは、父なる神に養われる鳥に私たちの目を向けさせようとされます。神が、ソロモンの栄光にまさるほどに鳥たちを養ってくださるなら、私たちの必要も、必ずや備えてくださると確信を持つべきではありませんか(マタイ6:28-30; ローマ8:32参照)。イエスはさらに、この世について過度に不安を抱えることは無益だと言われます(マタイ6:27)。しかし、カルヴァンが指摘するように、キリストが禁じられることには必ず慰めの代替案があるのです。「神の子は行いと不安から解放されてはいない。しかし、彼らが人生に対して不安を抱く必要はないことは、確信を持って言うことができる。神の摂理に委ねることができるのだから、彼らは穏やかな休息を楽しむことができるだろう」
煩わしい不安とともに信仰にいきるための鍵は、この一つの言葉にあります。それは、摂理です。ハイデルベルク信仰問答は、摂理をこのように定義しています。「全能かつ現実の、神の御力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、[…] すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです [訳注:http://shmission.com/xe/96293]」(問答27)。すなわち、私たちの不安は偶然の産物ではありません。不安は父の御手からくるのです。あなたはこれを信じていますか?私たちを麻痺させるような恐れの支配を食い止めるためには、信じなければなりません。不安は、適切に対処すれば、神への信頼と神との愛なる交わりを深める機会となるのです(二コリ1:3-4)。リチャード・シブスは優しく提言しています。「苦難が、父の愛のゆえに与えられるもの、つまり、適度に調節され、かつ私たちのために甘く聖別されたものであると考えれれば、私たちにとって最大と思われるような苦難であっても、慰めとならないことはないのである」 パウロは自分の苦難について語っています。彼の肉体に与えられたとげを、神は取り除いてくださいませんでした。しかし、神はご自身のしもべに慰めを語られました。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」 そこで、パウロは自分の弱さを喜んで誇ろうと決心したのです。「ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ…を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(二コリ12:7-10)。
彼に与えられた痛みの罠は、使徒パウロにおいて、また使徒パウロを通して、主の贖いの御業が成し遂げられるための摂理でした。ですから、私たちの弱さもまた、救い主に対する愛と、この世のものに対する嫌悪を深める原動力となるのです。フラヴェルは、絶え間ない不安と落胆にさいなまれるクリスチャンに、次のような希望を与えました。「神の知恵は、この苦難を神の民に命じ与えられた。それは神の恵み深い目的のために、用いるためである。神は苦難を用いて御民を心の優しい — 用心深く、注意深く、彼らの歩む道に気を配るように — 人々とされる。それによって、彼らが起こりうる限りの問題を避けることができるように。これは、あなたがたが迷わないようにするための壁である。大きな試練には、罠に見えるものが有利に働くかもしれない」 有利に働く不安とは、果たしてどのようなものでしょうか。どのように有利に働くのでしょうか。まず第一に、フラヴェルはこう続けます。「体の病気や心の苦しみは、この世の快適さや楽しみに愛想をつかせる。それによって、あなたは他の人よりも人生を好ましくないものに感じるだろう。あなたは、人生の喜びと甘美を享受している他の人よりも、人生を重荷に感じる」 さらには、苦しみは「死を助け、この世との別れをより容易にする。あなたの人生は、あなたが後ろに引きずっている重荷のせいで、以前ほどの価値を持たない。神はこれらの苦しみを、あなたのために大いなる益となるよう、神の摂理をもって用いられるのである」 第二に、不安は神との交わりをより親密にさせます。「危険が大きいほど、あなたが神に駆け寄る頻度は高くなる。あなたは、他の人には取るに足らないような小さな心配ごとでも、すべて背負ってくださる永遠の御腕のもとに身を避ける必要があると、感じるのである」 第三に、パウロが教えているように、主はご自身の力を私たちの弱さのうちに現してくださいます。ですから、フラヴェルはこのように結論付けています。「落胆してはいけない。自然の弱点は、死の恐怖を和らげるだろう。そして、あなたを神に近づけ、あなたが必要とするときに神の恵みを示す適切な機会を与えてくれるかもしれない」
直感に反することですが、私たちを悩ませる不安を重荷ではなく好機と捉えることは、不安から解放されて生きるための重大な突破口となります。不安が多いほど、私たちのことを心配してくださるお方に委ねる機会が増えるのです(一ペテロ5:7)。
ジョン・バニヤンは「今日に至るまで」心の不安を経験していることを認めた上で、自叙伝を興味深い視点で締め括っています。
これらのことを私は絶えず見て、感じ、苦しみ、虐げられている。しかし、神はそれらを知恵をもって私の益のために命じられた。苦難は、1. 自分に対する嫌悪感を抱かせる。2. 自分の心を信頼しないようにさせる。3. 自分の中から生まれる全ての義の不十分さに気付かせる。4. イエスのもとに飛んでいく必要性を示す。5. 神に祈らせる。6. 注意を払い、慎重になる必要を教える。 7. そして、キリストを通して、私を助け、この世において私を導いてくださるよう、神に目を向けさせる。
この力強い英国のピューリタンの自叙伝は、さぞ立派な勝利の言葉で締めくくられているのだろうと期待するかもしれません。しかし、そうではないようです。とげはなおも、刺さったままでした。しかし、救い主もまた、同じなのです。
ルターやスポルジョンのように、バニヤンは、神の知恵が私たちの益のために、苦難や弱さを命じられたことを熱心に信じていました(ローマ8:28)。痛みを伴う不安は、私たちの弱さに同情し(ヘブル4:15)、私たちを携え(詩篇28:9; イザヤ4:11)、私たちの弱さを通して十分な恵みを示してくださる(二コリ12:9)イエスのもとに飛んでいく機会を与えます。
不安が、たとえ時々訪れるものであっても、常に付きまとうものであっても、私たちの戦いは一人の戦いではありません。神はご自分のゆずりの民を見捨てることはなさいません(詩篇94)。神はご自分の民と永遠に共におられ、重荷を負う者、心の打ち砕かれた者に安らぎを与えてくださいます(詩篇34:18)。ですから、私たちは互いに励まし合い(一テサ5:11)、愛と善行を促すために、互いに注意を払い(ヘブル10:24)、互いの重荷を負い合い(ガラテヤ6:2)、恐れ、不安、憂鬱との戦いには終わりがくると互いに教え合いましょう。そのときまで、私たちは神の恵みによって、信仰を保ち、騒がず、希望を抱くよう努めようではありませんか。腹の底に不安を感じることはもはや遠い記憶となり、罪深い疑いの残骸もなくなる日がくるのです。涙も、悲しみも、叫び声も、夜さえもなくなる日が、確かにくるのですから(黙示21:4; 22:5)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。