不安の要因となるもの
2022年08月04日(木)
不安に対する解決策
2022年08月12日(木)
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不安がもたらす影響 

編集者注:これはテーブルトーク誌の「私たちの抱える不安」というシリーズの第四章の記事です。

間違っていると頭でわかっていても、その醜い側面が見えてくるまでに多少時間がかかることがあります。雷雨の中、玄関先で発動機を作動させるのは名案のように思えたとしても、一酸化炭素中毒による頭痛で、すぐその愚かさに気付くことでしょう。聖書が私たちに与える様々な忠告と並んで、不安もまた、私たちに非常に悪い影響を及ぼします。新約聖書で「不安」と訳されている言葉、メリムナは、「思い煩い」「心配」とも訳されます。不安は現実に存在し、広く蔓延しているため、その影響も大きいのです。不安は、想像上のシナリオから生まれるもの、現実に今起きている問題から生まれるもの、あるいは今にも起こりそうな悲劇に対する恐れから生まれるものなど、様々でしょう。しかし、常に不安に駆られて生きていては、私たちは本来のように、神と隣人を愛することができません。原因やきっかけが何であれ、不安は多くの次元で私たちの人生を混乱に陥れてしまいます。

身体的影響

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(マタイ6:27)とイエスが問われたのには、理由があります。不安が長生きの秘訣ではないことは、誰でも知っています。恐怖感、憂鬱、不眠はほんの始まりに過ぎません。慢性痛や身体障害、あるいは長期的な病いが不安を引き起こすこともありますが、その逆もあり得ます。つまり、慢性的な不安は、身体の痛み、病い、その他身体の不調による問題を引き起こすことがあるのです。アドレナリンやコルチゾールなどのホルモンは、私たちの身体に欠かせない多くの機能を果たしています。神は良い目的をもってこれらを与えられました。このホルモンが体内で増加すると、私たちの身体に生理的変化が起こり、様々な環境的負荷(ストレス)に対応できるようになります。脈拍が速まり、呼吸も速まり、血管が広がり、脳や筋肉への酸素供給が増え、私たちの集中力を高めてくれるのです。しかし、これらが頻繁に過剰分泌されたり、長期間その状態が続いたりすると、様々な病気の原因となってしまいます。

科学者の間では、不安と身体的悪影響との関連性が次々と発表されています。健康な成人でも、不安が心臓病を引き起こす可能性があることや、慢性的な感情的ストレスや不安が、逆流性食道炎、過敏性腸症候群、がんなど、様々な消化器系の問題の発症リスクに直結していることが研究により明らかにされています。さらに、年齢を重ねるほど状況はより深刻になります。高齢者は基礎疾患を患っているケースが多く、これらは不安による身体的状態や病状の悪化を加速させるからです。研究結果は増え続けています。「死ぬほど心配する」というのは、私たちが考えている以上に現実となり得る危険を含んでいるのかもしれません。

人間関係への影響

不安は、私たちの身体に明確かつ重大な影響を及ぼします。しかし、その根源は、多くの場合、私たちの生活の精神面、そして霊性にあります。そのため、私たちの人間関係にも影響してくることは言うまでもありません。不安が人間関係に与える影響もまた、有害かつ強力です。医学的に、不安は、短期記憶、集中力、言語能力、空間認識能力、読解力の低下など、その他様々な問題に直結しています。人との付き合いが難しくなるのも当然のことでしょう。

しかし、これらの能力の低下は機能面以上の問題をもたらします。本当に不安に悩まされている人に会うことの難しさを、私たちは身をもって知っています。会話をしていても、大抵表面的な話題にとどまるか、その人の住む暗い悩みの世界へと引きずり込まれるかのどちらかです。ある知り合いの高齢の女性は、自身の経験した辛い事故や病気の診断について延々と話しただけでなく、将来起こり得る、困難に満ちているであろう神の摂理を次々に挙げ、将来に対する恐怖を詳細に語ったものです。それはまるで、彼女がその恐ろしさに気付かないまま暗い心の扉を開け放ったかのようでした。彼女は確かに悲しい経験をしてきましたが、内に抱える将来に対する不安こそが、本当に親密な人間関係を持つことから彼女を遠ざけていたのです。

不安は人を内向きにさせ、問題ばかりに目を向けさせます。私たちは内に縮こまり、負うはずのない重荷に押し潰され、それを引きずり、人にぶつかりながら歩みます。ジーン・マリー・ギュイヨンは、友人に「憂鬱は心を萎縮させ、弱らせる…物事を大袈裟に見せ、偽の色を与え、その結果あなたの荷を負いきれないほど重くする」と言いました。不安は、罪悪とも言えるほど否定的なレンズで世界を彩ります。このような影響が、人との付き合いや健全な人間関係を阻害することは明らかです。

しかし、この悪影響は人との付き合い以上にまで及びます。アンナ・ウェーリングは「父よ私の人生のすべては(Father, I Know That All My Life)」という祈祷歌の中で、「人を和らげ共感する、自己から解放された心」を求めています。不安は、このような心を奪ってしまいます。私たちは身をよじり、自己から解放されません。反対に、私たちは自分の考えや関心事に気を取られ、周りにある現実的な機会から切り離されてしまうのです。確かに、不安は社会的関係を奪います。しかし、奉仕する能力とその機会も奪うのです。交わりと、人に役立つことから生まれる、霊的結び付きを奪ってしまいます。不安が原因となって人間関係で孤立することは、偶然に起こることではありません。これはサタンの戦術の一つです。親しい人間関係や地域との関わりを持たないクリスチャンは、疑いや絶望にいとも簡単に陥ってしまいます。不安は直接、人間関係や霊性に影響を与えるのです。

霊的影響

不安の与える衝撃は、魂に始まり魂に終わるといっていいでしょう。もし、不安が人間関係に影響を与えるなら、神との関係にも影響を与えない訳がありません。神の知恵と善性を疑ったり、見失ったりしたときに、不安はやってくるものです。母親とともにいる乳離れした子とは違い、私たちの魂は動揺し、貪欲な思いで及びもつかない大きなことに頭を悩ませています(詩篇131:2)。神の摂理のうちに安らぐことができません。起こってもいないことについて不安を感じているときは、特にそうです。エリザベス・エリオットは、神の恵みが約束されているのは私たちの想像に対してではなく、現実に対してのみであることを述べています。神は、新しい朝ごとにあわれみを約束してくださっています。新しい心配ごとに、ではありません。ウェーリングはこのようにも述べています。「すべての道には茨があり、忍耐を要する。すべての使命には十字架があり、切実な祈りを要する。しかし、主に寄り添うへりくだった心は、どこにいても幸せである」 不安からくる霊的な危険性を認識することは、この世の困難や恐ろしいものの存在を否定することにはなりません。しかし、ギュイヨンはこのように忠告しています。「悲しげな顔は敬虔な人を惹きつけず、却って反感を買う。神に仕えるには、ある種の喜びと、自由と開放性が必要である。神のくびきは負いやすいことが明らかになるためである」

これこそが核心ではないでしょうか。私たちが不安になるのは、多くの場合、私たちの羊飼いが良い羊飼いであることを信じていないとき、またはそう感じられないときです。時には暗闇が押し寄せることがあります。そのようなときに、神は常に変わらず善いお方だと信じることは、まさに霊の戦いです。その真理が、遠く手の届かない絵空事のように感じることもあるでしょう。だからこそ、不安は私たちの魂に危険な影響を与えます。不安は父なる神を疑わせます。ひとり子さえも惜しまなかった父なる神を、疑わせるのです。不安は嘘を信じます。うるさくて無視できないような嘘でも、嘘は嘘なのです。また、不安を抱え続けると、このような嘘を広めることになります。教会で、またこの世の中で、キリストの名を語っているにも関わらず、キリストが全知全能であり、遍在する神であり、善いお方であることを態度で示していないからです。不安は真理を締め出そうとします。そしてその隙に、嘘が列をなして入ってきます。神の性質や約束に関する嘘ほど、破壊的な嘘はありません。私たちの唯一の助け主である神に対して、疑いを抱かせるからです。そのような疑いから生まれる不安や嘘は、私たちを神から引き離します。だからこそ、エレイン・タウンゼンドはこのように書いたのでしょう。「主よ、私が決して不安になりませんように、私の心をあなたと分かち合うことを教えてください。心を分かち合うときに与えられる主の平安に感謝します」

結論

不安の与えるこれらの影響には、ハッとさせられるものがあります。しかし、そのせいで不安になってはいけません。これらは、思い煩いを正当化させようとすることの愚かさを明白に示しています。私たちは皆、同じことをしていませんか。時には、大切で価値のある何かをわざわざ選んで、心を悩ませたりします。子供に対する不安などは、子供への愛情だと解釈し、勝手に正当化していないでしょうか。社会に対する思い煩いは、安全や社会道徳への関心として正当化します。自分の健康の心配は、自己管理という言葉で正当化します。あるいは、思い煩いを膨らませるような災難を思い浮かべて、交通事故や末期の病いに襲われたらどうしようかとあれこれ考え、心配することを正当化しようとします。自分の心の中で、さらには友人に対してさえも、不安を正当化することがあります。

しかし、私たちの身体や心、そして魂を破壊するようなものに対して、私たちは戦わなくてはなりません。私たちを神から遠ざけ、社会から遠ざけ、健康から遠ざけるものを、正当化できるはずがありません。どれほど理由を並べても、不安を許容したり、休戦を求めたり、敵と交渉したりしてはいけません。どんな論理的根拠も、充分ではないのです。私たちは時に、思い煩いが洞察力や気遣いと同等であるとか、あるいは愛や、祈りの熱心さと同等であるかのように考えます。しかし、これらの品性は、敬虔な行動と信頼の実を結ぶはずです。また、いのちを与えるはずなのです。不安の結ぶ実は、あらゆる次元に及ぶ死です。私たちは、これを正当化してはいけません。リスクがあまりに高すぎます。不安と戦おうではありませんか。この戦いは長期戦で、簡単には終わらないでしょう。医者や牧師、他の人々の助けが必要かもしれません。しかし、神の子とされた私たちにとって、この良き戦いをあきらめるという選択肢は、あり得ないのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

レベッカ・ヴァン・ドゥーデワード
レベッカ・ヴァン・ドゥーデワード
レベッカ・ヴァン・ドゥーデワードは、「Reformation Women: Sixteenth-Century Figures Who Shaped Christianity’s Rebirth」や、Banner Board Books の児童書シリーズなど、多くの著作がある。ミシガン州グランドラピッズ在住。