
リベラリズム:全く異なる宗教
2025年02月19日(木)
キリスト教とこの世の哲学
2025年02月26日(木)アメリカの教会における近代主義との対立

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第二章の記事です。
ウェストミンスター神学校でJ・G・メイチェンとともに初期の教授として加わったアラン・マクレーは、過去にこのような見解を述べています。「キリストの教会の全歴史を通して、真理を保つための絶え間ない格闘があった」 その永続的な格闘は、1890年から1930年代にかけて、かなり激しいかたちを取りました。
新世紀を迎える期待は、進歩的な精神と、人間の善性や潜在的な成功への自由な信条を育みました。第一次世界大戦は、特にヨーロッパにおいて大きな後退をもたらしていました。しかし、アメリカは海を隔てていたため、戦争に直接的には巻き込まれないまま、1920年代にまっしぐらに突き進んでいきました。これを「狂騒の20年代」と呼びます。この大いなる時代を表す言葉は、他ならぬ「近代主義(モダニズム)」です。そして近代主義の試みとしてその頂点に位置するのが、神の否定と宗教の放棄でした。この文化的爆弾は、アメリカの教会に大打撃を与えました。
近代主義者たちが教会を離れ、神を排除する中、教会の指導者たちは自分たちの神学的確信と牧師としての優先事項を「再考」し始めました。彼らは文化的な会話から取り残されることを望まず、その結果、教会史学者が呼ぶところのリベラリズム(自由主義神学に基づく世界観や宗教)が生まれたのです。リベラリズムは近代主義的な感覚を取り入れ、主に超自然的なものを嫌い、人間の善性や可能性を「神」のように信じることに集約されます。これはすなわち、聖書の教理の無誤性と権威を無視するものです。また神を、愛と寛容の神に矮小化することを意味します。またこれは、キリストを単なる善良な人、または優れた教師に矮小化し、十字架は愛と自己犠牲の模範に過ぎないと過小評価することを意味します。将来の神の王国は、この地上における公平なユートピア社会へと転換されます。このような教理上の逸脱が累積した結果、教会はその使命において怠慢になり、暗闇の中の光であり続けることをやめてしまったのです。
しかし、マクレーの言葉が思い起こさせるように、真理を守るために闘争に参加する者もいました。1900年代初頭の数十年間、そのような人々は根本主義者(fundamentalists)と呼ばれていました。根本主義者という言葉は、当初、信仰の根本的な事柄を信じ、またそのために戦う人を指す言葉として使われ始めたものです。その根本的な事柄とは、聖書の無誤性、キリストの神性、キリストの十字架による身代わりの贖罪、奇跡、そして福音を宣べ伝え信じることの必要性などを含みます。この根本主義者とリベラリストとの見解の相違を理解するために、以下の人物について考えてみましょう。チャールズ・アウグストス・ブリッグス(1841-1913)、ハリー・エマーソン・フォスディック(1878-1969)、そしてJ・G・メイチェン(1881-1937)です。
ブリッグスはニューヨークにあるユニオン神学校(アメリカ長老教会、PCUSAの神学校)で学び、その後ドイツに留学しました。ブリッグスは、高等批評論(high-critical theory)を全面的に受け入れていました。これは、聖書の神性的起源を本質的に否定し、他の書物が受けるのと同じような精査を聖書にも課すという見解です。伝道者ビリー・サンデーは自分の伝道集会で、皮肉を込めてよくこう言っていたそうです。「地獄を逆さまにしたら、底には何が刻印されているだろうか? 『ドイツ製』とあるんじゃなかろうか?」 サンデーの言葉は、高等批評論と、それがブリッグスのようなアメリカの学者に与えた直接的な影響に対する批判でした。1880年代を通じて、ブリッグスは保守派と、特にプリンストン神学校の教授陣と小競り合いを続けていました。1891年、ユニオン神学校のエドワード・ロビンソン聖書神学教授としての就任記念講演にて、ついにブリッグスは大砲を放ちます。「聖書の権威(The Authority of Holy Scripture)」と題された講義で、言語的霊感の教理は、神のことばを正しく理解するうえで「障壁」であると主張したのです。ブリッグスは異端として責任を問われ、1893年に有罪となり、ユニオン神学校は彼を解雇せざるを得なくなりました。しかしユニオン神学校は、すぐに別の独立した資金で彼を再雇用します。いわゆる、堤防に穴が開いたのです。ユニオン神学校は、長老派のみならず、アメリカの教会全体にとってのリベラリズムの拠点となり、多くの大学や神学校の聖書学は瞬く間に異端の聖書観で溢れかえり、あらゆる教理に関する正統的な見解が一掃され始めました。
1929年から1930年にかけてユニオン神学校で学んだディートリッヒ・ボンヘッファーは、その見るも無惨な状況を目の当たりにします。さらには、ニューヨーク中の教会も同じ惨状の中にありました。ボンヘッファーは教会を(フォスディックの教会も含め)順に訪問し、最終的には母国への報告書に「ここに神学はない」と記しました。その言葉には、説教壇から聞こえてくるのが神のことばではなく、人の言葉ばかりだという意味が込められていました。高等批評論がドイツからアメリカの学術界へ、そしてアメリカの教会へと、浸透していたのです。思想は、間違いなく、結果をもたらします。リベラリズムが学術界に与えた影響を表すのがブリッグスだとすれば、リベラリズムが教会に与えた影響を表すのは、フォスディックと言えるでしょう。フォスディックが脚光を浴びるようになったのは、二つの要因があります。一つは、彼が魅力的でカリスマ性に富んでいたこと、もう一つは、彼にはアメリカ随一の大富豪ジョン・D・ロックフェラーの後ろ盾があったことです。
1922年5月21日、フォスディックは『キリスト教根本主義は勝利を収めるか?(原題:Shall the Fundamentalists Win?)』と題して説教を語りました。この説教はキリスト教信仰について「近代的な言葉で明確に」再考するという内容でした。ただしこれは、典型的な近代主義への妥協でした。例えば、キリストの処女懐胎についての見解について、フォスディックはこう主張します。根本主義者たちは処女懐胎を歴史的事実として、文字通り紛れもなく真実であると理解すべきだと論じている、しかし「偉大な人物の説明として処女懐胎を信じることは、古代の世界が異常な優越性を説明するために慣れ親しんできた方法の一つである」と反論したのです。彼はさらに続けて、ブッダやゾロアスターも同じような処女懐胎を経ているとしました。しかし、処女懐胎を否定することはキリストの神性を否定することであり、それはすなわち正統派の福音を否定することです。H・リチャード・ニーバーは後に、リベラリズムについてこのように説明しています。「怒りのない神が、十字架のないキリストの働きによって、罪のない人間を、さばきのない王国に導いた」 これが、フォスディックだったのです。
この争いに割って入ったのが、J・G・メイチェンでした。メイチェンはボルチモアの弁護士の息子として生まれ、母親(旧姓グレシャム)はジョージア州メーコン出身でした。メイチェンは、ジョンズ・ホプキンス大学で古典文学を学び、プリンストン大学とプリンストン神学校で修士号を取得しました。その後、さらなる学びのためにドイツに向かいました。帰国後プリンストン神学校に戻り、1906年から1929年まで教授を務め、その間の二年間は、第一次世界大戦中にフランスのYMCAの奉仕員として務めました。メイチェンは「プリンストンの獅子」と呼ばれたB・B・ウォーフィールドを師と仰いでいましたが、ウォーフィールドが1921年に亡くなると、信仰の守護者としての役割はメイチェンに引き継がれました。
メイチェンは信任を得て、ドイツの高等批評論に直接向き合い、鋭い頭脳をもって戦いました。彼は正統派教理と、超自然性と、福音を愛していました。1923年に出版された『キリスト教とは何か(原題:Christianity and Liberalism)』には、そのすべてが含まれています。この著書は、キリスト教の必要不可欠な教理を一つ一つ確認し、リベラリズムは決してキリスト教の新しいかたちなどではなく、完全に偽福音であることを説明しています。結果的に、リベラリズムは何の希望も与えることはできません。パンの代わりに石を与えるだけなのです。
メイチェンの著書は、リベラル主義神学者たちからは嫌われ、書評でも酷評されました。興味深いことに、近代的知識人であるウォルター・リップマンや、H・L・メンケンなどはこの本を尊重し、メイチェンの主張の正当性を認めていました。根本主義者たちにとっては、この本は信仰のために戦い続ける彼らの背骨に鋼鉄を与えるような、力強いものとなりました。では、この本の後、メイチェンはどうなったのでしょうか?
1929年、プリンストン神学校は理事会を再編成し、リベラリズムに突き進み、メイチェンを追放しました。メイチェンは、デラウェア川を渡り、フィラデルフィアにウェストミンスター神学校を設立します。しかし、教派の宣教委員会が福音宣教から社会的変革にその焦点を移していたため、メイチェンが新しい宣教委員会を組織したとき、彼は聖職を剥奪されます。1936年、メイチェンは正統長老教会(OPC)を設立しました。その数ヶ月後、1937年1月1日、メイチェンは肺炎のため、ノースダコタ州で息を引き取りました。ちょうど新しい教団に属する教会の問題を解決するために、その地を訪れていたときでした。
メイチェンの最初の伝記執筆者であり、同労者でもあったネッド・ストーンハウスは、ジョン・バニヤンの著作の勇敢な登場人物にちなんで、彼を「真理のための勇者」と呼んでいます。まさに、その通りの人物でした。メイチェンの著書と、彼の戦いは、実に時宜を得たものでした。しかし同時に、時代を超越した存在でもあります。それゆえ、『キリスト教とは何か』は、出版から100年を経た今日においてもなお、当初よりもさらに適用性のあるものとなっていると言えるでしょう。現代の世界に見られる永続的な絶え間ない格闘の中で、私たちが信仰を守るために戦うとき、メイチェンとその著書の存在を神に感謝し、一頁一頁に時間をかけてその言葉を味わいたいものです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。