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常に祈るには 時間を決めて祈ること

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第十三章の記事です。

「君は一人で静まる時間に、そのことについて祈っているかい?」 私はギャリーに尋ねました。彼は、携帯で性的な誘惑に陥っていたからです。彼はこう答えました。「僕は決まった時間に祈るということをしないんです。いつでも祈っていますので」

私は少し面くらい、しばらくなんと返していいかわかりませんでした。彼の言葉は超霊的(super-spiritual)に聞こえますが、彼の人生は超聖なるもの(super-holy)からは程遠いものでした。「そうか、いつでも祈っているなんて、素晴らしいことだと思うよ」 私は何とか、このように答えました。「だけど、どうして決まった時間に祈りたくないんだい?」

それから一時間ほどかけて、ギャリーは、祈りのために毎日特定の時間を決めることがいかに不要であり重要でないかについて、彼の考えを説明しました。彼の並べ立てた理由は、この習慣に対するごく一般的な反論だったので、順に確認しつつ、それらに対する聖書の応答を見ていきましょう。

律法主義的になりたくない

このような懸念については、よくわかります。たいていの人は、日々の静まりの時間を律法主義的に実践してきた経験があるでしょう。祈らなければならないから祈る、というのは、校長室に呼び出されるようなものです。良心のとがめを慰め、神を寄せ付けないために捻出できるわずかな数分間から、喜びも得することもすべて奪われるような、みじめな時間です。

しかし、決まった時間に祈ることが必ずしも律法主義的になるわけではありません。友人と定期的に会う約束をすることで、その友情が律法主義的にならないのと同じです。神と定期的に会う約束をするからといって、律法主義的に祈ることにはならないのです。ダビデ、ダニエル、そしてイエスも、このような習慣の中で祈っていました(詩篇119:164; ダニエル6:10; マルコ1:35)。

「兵士たちから律法主義的すぎるとの意見があるため、今後、毎日の銃器訓練は実施しないこととする」と将官のトップが言ったとしたら、あなたは安全面の不安を感じないでしょうか? 日々の祈りの訓練は、霊的な戦いのために必要不可欠です(エペソ6:10-18)。私も、ギャリーがポルノ動画との戦いに勝つことができるように、祈りの必要性についてこのように言いました。「律法主義のリスクを負うのか、必ず律法を犯してしまう運命を選ぶのか、どちらかだよ」

スケジュールに合わせにくい

祈りのために時間を取ろうとすると、私たちのスケジュールに支障が出るのは当然のことでしょう。他の活動や人々のための時間を削ることになります。仕事に間に合うように、または家族が仕事に間に合うようにと、バタバタしてしまう慌ただしい朝に、祈る時間を確保するのは容易ではありません。疲れている夕方や、くつろぎたくなる時間に祈る時間を確保することもまた、難しいものです。

問題は、逆転してしまった優先順位です。

しかし、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道者3:1)なら、祈りのための時間も当然あるはずです。生活における他の活動すべてに決められた時があるなら(2-8節)、祈りの時間もあるのではないでしょうか? 私たちの問題は、たいてい、忙しすぎるスケジュールなどではありません。問題は、逆転してしまった優先順位です。もし、忙しすぎて祈れないのなら、それはあまりに忙しすぎます。神は私たちに、「やめよ。知れ。わたしこそ神」(詩篇46:10)と呼びかけておられます。神を知るためには、神とともに静まらなければならないのです。

自然と湧き上がるものであってほしい

30余年の私のクリスチャン人生の中でも、神を求める想いがとめどなく溢れ出て祈らずにはいられないような状態になったことは、おそらく数回しかありません。ほとんどの場合、私は強制的に祈りました。なぜなら、祈りたい気分になるのを待っていたら、おそらく私は人生で数えるほどしか祈る機会がなかっただろうと思うからです。

とはいえ、強制的に祈り始めて、その祈る気持ちが強い力で私の人生に入り込んできた経験は、数え切れないほどあります。私は習慣として祈るようになり、それは私の喜びとなりました。詩篇の作者が、義務のときが喜びのときに変わった、と言っている通りです(詩篇119:25–32)。また、自然と湧き上がる祈りというものは、決まった時間に祈る祈りが一貫して実践できていたときに、より多く起こっていたということにも気付きました。

神が妻のショーナと私に子どもたちを授けられたときも同じです。私たちは、子どもたちの世話があまりに忙しくて、二人だけの時間がほとんど持てていないことを自覚していました。お互い離れてしまわないためには、なんとか計画を練る必要がありました。そこで、私たちは毎日、30分ほど二人だけで座る時間を持つことにしました。この決まった時間を通して、私たちは互いへの愛を維持し、深め合うことができたのです。もし私たちが祈る時間を計画しないなら、自然と湧き上がる祈りなど、決して起こりません。

決まった時間に祈ることについて、ギャリーを納得させることはできませんでした。しかし、もしかするとあなたには納得していただけたかもしれません。もしそうなら、あなたの次の質問は、「ではどのように始めるべきか?」でしょう。

小さいことから始める

目標を高く設定し、30分間の祈りをすることから始めようとしたら、おそらく祈りは30分ももたないでしょうし、次の日はまったく祈らずに終わってしまうでしょう。ジェームズ・クリアーの著書『Atomic Habits[邦題:ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる一つの習慣]』にはこのような記述があります。筋トレを始めたいのなら、まずは一回の腕立て伏せから始めること。それなら簡単、と思いませんか? しかし、そのために床に伏せたとしたら、あなたはおそらく、「どうせ今床に伏せているんだから、ついでに他のこともやってみよう」と思うはずです。そして、あれも、これも、と続いていくものなのです。

同じように、祈りも、まずは一日一分から始めてみましょう。一度祈り始めると、思った以上に長く祈っている自分に驚くでしょう。決まった時間に一分間祈ることを一週間続けたら、次は二分、というように増やしていきます。

みことばから始める

多くの人が記しているように、祈りとは、神がみことばによって初められた会話に応答することです。ですから、私たちは祈りを形造るときにみことばを用いるべきです。神が私たちに与えてくださったことばを内在させることによって、神に応答することができます。

私がどのように実践しているかを紹介しましょう。まず、毎日のデボーションから、聖書のみことばを5ー10節ほど選び、Word文書にコピー&ペーストします。そして、みことばを小さいかたまりに分けていき、一つの考えごとに一行、そしてそれぞれ一行ずつ間隔をあけておきます。たいてい、私の場合は5つから10の項目で、半ページほどが埋まります。それから、それぞれの真理を賛美、告白、感謝、願いの言葉に変えていくのです。そのようにして、祈りをもって神のことばに応答していきます。

小さいことから始め、みことばから始めると、その日一日続く神との会話がそこから始まるでしょう。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

デイビッド・P・マレー
デイビッド・P・マレー
デイビッド・P・マレー博士は、ミシガン州バイロン・センターにあるFirst Byron Christian Reformed Church の主任牧師、また同州グランド・ラピッズにあるPuritan Reformed Theological Seminaryの旧約聖書および実践神学の非常勤教授を務めている。著書に『Exploring the Bible』などがある。