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クリスチャンにも福音が必要

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第十四章の記事です。

20年ほど前、アイオワ州で行われたあるカンファレンスで、私はジェリー・ブリッジズとともに講師を務めました。そこでの分科会で、ブリッジズ師がなぜクリスチャンにも福音が必要なのかについて説明するのを、私は後方の席に座って聞いていました。彼はこの洞察を最近得た、と告白しました。著書『Disciplines of Grace[邦題:恵みに生きる訓練 聖性の追求を果たすために]』のその後の版では、この洞察が書き加えられています。私もそれ以来、しばしばこのことについて考えさせられていることをここに告白しなければなりません。

ある面で、これは当然のことのように見えます。もちろん、クリスチャンも福音を毎日必要としています。必要でないわけがありません。パウロがローマの教会に手紙を書いたとき、彼はこのように書き出しました。「ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(ローマ1:15)。この手紙は、クリスチャンであることを表明しているローマの人々に宛てたものです。パウロは、彼らはもう一度福音を聞く必要があると述べました。パウロの手紙はこのように締めくくられています。「私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって…あなたがたを強くすることができる方」(ローマ16:25-26)。福音はクリスチャンを強くするのです。同じように、パウロは問題を抱えているコリントの教会にも手紙を宛てました。「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです」(一コリ15:1)。コリントのクリスチャンたちは、福音を思い起こす必要がありました。また同様に、パウロはガラテヤの人々が「ほかの福音に移って行く」(ほかの福音は福音ではない)危険があること、そしてそれによって福音が変えられてしまうことを、強く主張しました。明らかに、ガラテヤの人々はただ真の福音が何かを思い起こすだけではなく、それ以上の対処を必要としていました。彼らは、積極的に福音を何か別のものに変えはじめていたからです。

クリスチャンに福音が必要である理由はいくつかありますが、ここではそのうち4つについて説明します。

第一に、クリスチャンは、良心のとがめを癒すために福音が必要です。良心の呵責はときに、霊的に過剰に敏感になっている状態が原因になります。小さな罪でも、それによって暗闇と絶望の中に引き込まれてしまう人もいるでしょう。使徒ヨハネは、この問題について第一の手紙で触れています。「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存知だからです」(一ヨハネ3:19-20)。私たちの良心が確信を妨げてしまうのは、大いに起こりうることです。私たちの心がとがめようとも、福音は私たちに赦しを与えます。ヨハネは解決策を提示しているのです。それは、私たちの心よりも大きな福音という薬を処方することです。良心のとがめは(霊的に新しく生まれ変わる前も後も)、キリストを見上げ、キリストによる恩赦を受け取る必要があります。ジョゼフ・ハートの讃美歌にはこうあります。「心の責めを とどまらせず」(讃美歌「Come Ye Sinners, Poor and Needy」より[日本語歌詞は訳者による])

もちろん、クリスチャンも福音を毎日必要としています。必要でないわけがありません。

第二に、クリスチャンは、常に脅威として存在する律法主義を防ぐために福音が必要です。大きく分けて、律法主義は三つの形で現れます。聖書に明確に定められていない律法に良心の満足のために従う場合、旧約聖書にはあっても新約聖書にはない律法に良心の満足のために従う場合、そして神の律法に従うことが自分自身の義認を得るための手段となっている場合です。例えば、ガラテヤの異邦人のクリスチャンたちが、割礼が必要だという主張に騙されていたとき、パウロはすぐさまこのように訴えかけました。

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたが、今、肉によって完成されるというのですか。あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。(ガラテヤ3:1-4)

きよさを求めて神の律法に従うことは必要です。しかし、もしその従順が、私たちの救いに対する感謝以外のものに突き動かされているなら、それは律法主義の霊にすぎません。そのような霊は、私たちの救いが、イエス・キリストに加え、自分自身のきよさの証によるものだと主張します。

第三に、クリスチャンは、膨れ上がったプライドを萎ませるために福音が必要です。アウグスティヌスは、プライドこそ罪の真の本質であると述べています。J・I・パッカーはこのように書きました。

謙遜とは、日々繰り返す悔い改めの産物であり、あらゆる姿で現れるプライドに背を向け、立ち返り、そして目を覚まして祈ることでそれを避ける決心をすることである。プライドとの心の内での戦いが一生続くものである以上、謙遜こそ、神と人とのために生きるための揺るがない姿勢であるべきなのだ。この姿勢は、クリスチャンとしての年数が長ければ長いほどますます表れるべきである。真の霊的成長は、常に下に向かっていく。いわば、より深みのある謙遜である。健全な魂のうちにあるなら、それは歳を重ねるごとにさらに明らかになっていくだろう。

福音は、私たちが、過去、現在、そして未来の罪から救われる必要があることを思い起こさせます。マルティン・ルターの言葉の通り、クリスチャンは「simul justus et peccator(義人であると同時に罪人)」であることを思い起こさせることで、福音は日々喜ばしいものとなるでしょう。

第四に、クリスチャンは、喜びに満ちた人生を送るために福音が必要です。パウロはピリピの人々にこう命じました。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)。喜びは御霊の実であり(ガラテヤ5:22)、ピリピ人への手紙の中心的テーマとも捉えられます。使徒パウロは、この手紙を牢獄の中から書き記しながら、そのような状況ゆえに自分の魂が行き場を見失うことを許しませんでした。御使いは、羊飼いたちにイエスの受肉の意味を伝えています。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」(ルカ2:10)。福音は日々喜びをもたらします。このようなものは、他にありません。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

デレク・W・H・トーマス
デレク・W・H・トーマス
デレク・W・H・トーマス博士は、サウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchの主任牧師、Reformed Theological Seminaryの組織神学と牧会学の総長教授を務める。彼はリゴニア・ミニストリーズの専属講師で、著書も多く、『How the Gospel Brings Us All the Way Home』、『Calvin’s Teaching on Job』などがある。また、シンクレア・B・ファーガソン博士と『Ichthus: Jesus Christ, God’s Son, the Saviour』を共同執筆している。