私たちの恵み深き大祭司
2023年08月22日(木)
年が若いからといって だれにも軽く見られないようにしなさい
2023年08月24日(木)
私たちの恵み深き大祭司
2023年08月22日(木)
年が若いからといって だれにも軽く見られないようにしなさい
2023年08月24日(木)

神の全知

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第八章の記事です。

過去を振り返るとき、「今知っていることを、あのとき知って入ればよかったのに」と思うことが何度あるでしょうか。人間である条件として、私たちはある瞬間からすべてを知るわけではありません。あらゆる能力が正しく働いていれば、人生の過程の中でより多くのことを知るようになります。私たちがもっと知りたいと思ったり、教育に膨大なエネルギーを注いだりするという事実は、知識が善であることを示しています。つまり、知識は人生において価値があり、恩恵をもたらすものであるということです。知識は私たちが生きていくための知恵の要素です。知識を増やすことは、私たちの人間性を向上させるという期待があります。

しかし、私たちがもっともっと知りたいと思い、人生の中でより多くのことを知ることができるという事実、また、悲しいことに、知識を失うこともありうるという事実は、人間の知識が流動的でありながら有限であることを意味します。それほど苦労しなくとも興味深い豆知識をたくさん知っていたり、複雑な理論を理解していたりするような、私たちの知る限り最も賢い人々でさえも、これらのことを学ばなければなりませんでした。人間の知識は、最も優れた知識ですら、すべてを知っている状態、すなわち全知(omniscient)ではありません。私たちは、努力して知る必要があるのです。

神の場合は、そうではありません。人間の知識について考えるところから始めると、このことが浮き彫りになります。なぜなら、神の属性、特に不流通属性について知るときは、私たちはしばしば自分自身と比較した上で、何かを否定することによって理解できるからです。言い換えれば、神はあまりに偉大で、力強く、神の本性はあまりに私たちのそれと違っているので、神とはどのようなお方であるかを語るには、まず神がどのようなお方でないかと言うところから始めなくてはなりません。神ご自身も、聖書でこのように言っておられます。「であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6; 斜体は筆者による)。

A・W・トウザーは、神の全知を簡潔に定義しました。「神が全知であられるというのは、神が完全な知識を所有しておられるということ、それゆえ学ぶ必要がないということである。しかし、それだけではない。神の全知とは、神は学んだことがなく、また学ぶことはありえないことを意味する」

神の知識は単に量の問題だけではありません。私たちよりも多くを知っておられるから、神の知識は偉大で完全だということではないのです。神は、神としてものごとを知っておられます。すなわち、時間の外に立ち、何も必要とせず、誰にも依存しない存在としての知識なのです。

私たちが不完全に知っていることを、神は完全に知っておられます。神にも知らないことがあるはずだという主張は、聖書では不合理なこととして否定されています。「耳を植えつけた方が 聞かないだろうか。目を造った方が 見ないだろうか」(詩篇94:9)。神の知識は完全で、すべてに及びます。もし私が、オハイオ州のトリードという街について尋ねられたとしたら、話せることはたくさんあるでしょう。私はその街で育ったからです。しかしルクセンブルグという国について尋ねられたら、私には話せることがほとんどありません。その国に行ったことがないからです。人間の知識は、ある特定のことをより良く知っているにすぎません。神は、すべてのことを等しく良く知っておられるのです。神に「エウレーカ!」(発見の驚き)はありません。発見もなく、驚くこともなく、学ぶこともありません。これはすべての事柄に関して同じです。「その英知は測り知れない」(イザヤ40:28)のです。しかし、聖書は特に、人間に関する神の知識を強調しています。「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです」(ヘブル4:13)。

しかし、神の知識は単に量の問題だけではありません。私たちよりも多くを知っておられるから、神の知識は偉大で完全だということではないのです。神は、神としてものごとを知っておられます。すなわち、時間の外に立ち、何も必要とせず、誰にも依存しない存在としての知識なのです。アウグスティヌスはこう言いました。「神は、すべての被造物がそこに存在するから、彼らのことを知っておられるのではない。彼らが存在するのは、神が彼らを知ってくださるからである」 つまり、神の知っておられることは、私たちの行動に依存していません。私は、いつの日か孫のことを知りたいと願っています。しかしそれは、私のまだ幼い子どもたちが、自分たちの子どもを持つようになるまで叶いません。私の人間の知識は、時間の経過に制限されています。この30年間、オープン神論という教えが、これと同じようなことを神に当てはめて主張してきました。

オープン神論は、人間の意志の自由について重要な位置を確保しようとする動きです。そのために、神は私たちの将来の行動を知らず、しかし私たちとともに生きておられ、私たちが行動するとともにそれを発見する、と考えます。これは深刻な間違いです。この主張は、神の知識が被造物や歴史の流れに依存しているとするからです。神はむしろ、時間の外に立つお方として、すべてのことを一度に知っておられるのです。「神は、永遠から、瞬時に、同時に、すべてのことを知るお方である。すべてのことは、神の心の目の前に永遠に存在している」と、ヘルマン・バーフィンクは述べています。この知識には、すべての可能性が含まれています。なぜなら、神の摂理において、すべてのことがどのように実現するかはすでに定められているからです(詩篇139:16)。それは、一羽の雀が地に落ちることにまで至ります(マタイ10:29)。神の全知を正しく理解することは、オープン神論のような間違った神学を見極めるための助けとなります。

より積極的に言うならば、神の全知は神の民に安らぎを与え、彼らの礼拝に力を与えるものです。神の人智を超えた知識は、神と民たちの間に距離を生じさせると考えてしまいがちですが、実際はその反対です。詩篇139篇1-18節で、詩篇の作者は、神が自分に対して持っておられる最も深く親密な知識を「貴い」と考えます(17節)[聖書協会共同訳]。なぜでしょうか? それは、私たちの契約の神は情け深く、あわれみに満ち、助けてくださることを、この詩篇の作者は知っているからです(詩篇116:5-7)。ウィリアム・エイムズは、このような深い考察を述べています。「信仰は、何が私たちのために必要かを知っておられるお方、そしてそれを喜んで施してくださるお方に、より頼む」

神が私たちのことを知っておられる以上に、神はご自身に関しても完全な知識を持っておられます。神に関する私たちの知識は、このことに依存しています。なぜなら、神がご自身について知っておられなかったら、私たちに明らかにすることもなかったはずだからです。神がご自身を知っておられることは、なんと感謝なことでしょうか。神は、父、子、聖霊のご自身の存在を、完全に知っておられます。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません」(マタイ11:27)。父と子が互いを完全に知っておられるように、御霊も「神の深み」を探られます(一コリ2:10)。神の本性において、父・子・聖霊が互いを完全に知っているからこそ、三位一体の三つの位格の間には、無限に満ち満ちた豊かさと愛と喜びがあるのです。これは、神が福音の中で私たちを恵み深く招いてくださっている愛と喜びと同じです。私たちがそれを受け取るとき、愛にある賛美が私たちのうちに湧き上がるでしょう。「人の目には 見えねども 神の知恵は 限りなし」


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

D・ブレア・スミス
D・ブレア・スミス
D・ブレア・スミス博士は、ノースカロライナ州シャーロットにあるReformed Theological Seminaryで組織神学の助教授を務めている。