
教会
2025年03月23日(木)
突然の登場
2025年03月25日(木)小さい者たちと小さな行い

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第十章の記事です。
「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」(マタイ10:42)。これを読む私たちは、驚かされます。おそらく、このような応答をするのではないでしょうか。「しかし主よ、一杯の冷たい水なんて、ほんの小さな行いではありませんか。あなたはあんなに大きな御業をなされたのに、どうしてこんな小さな行いに報いを与えられるのですか? あなたは十字架で、あなたのすべてを献げられました。私たちの罪のために死んで、私たちが受けるべき罰を受けてくださいました」
このような小さな行いに対するイエスの報いには、どのような背景があるのでしょうか? 一杯の冷たい水は、氷山のほんの一角に過ぎません。水面下には、私たちのかつての生活——自ら選んだ破滅への道があります。かつての私たちは、誰よりも何よりも自分自身を愛し、罪を犯してきました。しかし神は、敵であり罪人であった私たちを選んでくださいました。神はご自分の御霊を私たちの心に植えられました。神は私たちを救い、それゆえ私たちは今、神と隣人への感謝と愛に溢れています。
イエスはさばきの日がどのようなものであるかを説明されました。イエスはご自分の羊、すなわち正しい人たちを、ご自分のもとに呼ばれました。彼らはその行いによって知られたのです。彼らは飢えている人に食べさせ、渇いている人に水を与え、裸の人に服を着せ、旅人に宿を貸し、病気の人や牢にいる人を訪ねました。イエスは言われました。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。しかし、正しい人たちは、小さい者たちのためにした小さな行いの価値に気づきませんでした。なぜなら、それはクリスチャンが自らに託された義務を全うするために行っていることであり、それによって受ける報いについては多くの場合考えないからです。イエスは彼らの憐れみを愛されました。その憐れみは、イエスご自身の憐れみを表していたからです。イエスの心は、最も小さい者たちとともにあります。イエスはご自分の民と一つです。
小さい者たちへの働きは必須であり、選べるものではありません。イエスは、やぎたち、すなわち正しくない人たちを永遠の火に投げ入れられます。彼らは、飢えている人、渇いている人、病気の人、裸の人、家がない人、牢にいる人に対する、憐れみの行いが無かったことで知られました。イエスはさらに、小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ大きな石臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれるほうがましだと警告しています(マルコ9:42)。これらは深刻な警告です。
私たちの近くにいる小さい者たちとは誰でしょうか? そして私たちは、どんな小さな行いをすべきでしょうか? 最も小さい者とは、まだ生まれていない子どもたちでしょう。彼らには声がまだありません。ですから、私たちは彼らの存在そのものを守るために、彼らの代わりに声をあげなければなりません。また教会の中にも、信仰を持ったばかりの赤ちゃんクリスチャンという小さい者たちがいます。彼らは聖化の過程を歩み始めたばかりで、励ましが必要です。私たちが家に招き入れるべき、孤独でひとりぼっちの存在です。彼らは不器用な子どもたちであり、取り残されがちです。私たちの子どもが彼らに親切の手を差し伸べ、友の輪の中に加えてあげるよう、自分の子どもを訓練しなければなりません。私たちの人生の旅路には、日々出会う小さな者たちが存在します。彼らにいつでも、私たちのうちにある希望の理由——イエス・キリストの希望について弁明できる用意をしておきましょう。
私たちが小さい者たちに小さな行いをするとき、終わることのない喜びと祝福が待っています。どうかそれを取り逃がしませんように。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。