
救い
2025年03月12日(木)
小さい者たちと小さな行い
2025年03月23日(木)教会

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリスト教とリベラリズム(自由主義神学)」というシリーズの第九章の記事です。
近代主義者の主張に反して、J・G・メイチェンが擁護した歴史的キリスト教は個人主義的なものではありませんでした。メイチェンは『キリスト教とは何か』の第5章で、キリスト教は「人間の社会的必要に十分答え得る」と書いています。 そして彼はこの章を救いにおける社会的結果についての考察で締めくくっています。すなわち、福音は家族、地域社会、職場、そして政府までも含む、人間の制度を変革するということです。
しかし、メイチェンの議論はそこで終わっていません。そこに残されるのは、最も崇高で最も重要な制度、キリストの教会です。実際、『キリスト教とは何か』の議論全体は、メイチェンが教会への崇高な見解の回復を促す、その最終章に集約されています。しかし、教会の現状から判断すると、本書を愛読しているという人々でさえ、この最終章を注意深く読んだ人がどれほどいるのだろうかと思わずにはいられません。
メイチェンはまず、「人間はみな兄弟であること」 を前提として薄っぺらな共同体のあり方に挑戦することから始めました。キリストにある兄弟姉妹の真の交わりを維持するためには、明確な教理の境界線が必要です。これは単純に、少し前にメイチェンが説明しているように、リベラリズムがキリスト教から完全に逸脱しているものであるからです。彼はこのように記しています。「今日、キリスト教の最大の脅威は、外側の敵からではなく内なる敵から来るのである。それは、中核において、反キリスト教的である信仰と行為の一つの型が教会の中に現存している、ということから来ている」 結果的に、「教会におけるこの二つのグループの分離は、目下の急務」となっています。メイチェンの「率直」かつ「公正」な訴えは、「友好的な中立者(friendly neutrals)」からの尊敬を集めました(世俗的なジャーナリストであったH・ L・メンケンは、この論争をつぶさに追っていく中で自らをこう呼んでいます)。
この分離はどのようにして起こったのでしょうか? 『キリスト教とは何か』が出版された当時、分裂の両サイドから見ても最も起こる可能性が高いと思われたのは、少数のリベラル派が教会を去ることでした。そしてメイチェンは、彼らに正直な一歩を踏み出すよう勧めました。しかし彼は、別のシナリオも予測していました。それは保守派が教会を去らざるを得なくなるという状況です。10年の時が経ち、後者こそが葛藤の後の結果でした。メイチェン自身は、近代主義に遣ってしまった教会の諸々の委員会に対する「不忠実」という大罪のために教職者としての除名処分を受けます。教職者としての召命に誠実であるからこそ、メイチェンと彼の同調者たちはこの十字架を背負うことを余儀なくされたのです。
教会の一致を保とうとする対抗的な訴えは、メイチェンが提示した問題を曖昧なものとし、そのような教会的平和主義からは、長く続く平和も一致も生まれることはありませんでした。「同一組織の中で、根本的に異なった目的をもっている人々を強いて一致させようとするくらい、争いを起すものはないのである」 教理からの逸脱を容認することは、「不誠実」 に他なりません。
メイチェンはもう一つの選択肢を予期していました。すなわち、一部の牧師が機能的自立の方向性に引き寄せられ、彼ら自身の会衆の正統性や中会の健全性に満足を見出すかもしれないということです。しかし彼は、これは長老派の選択肢ではないと反論しました。長老派は教会の共同体としての証しに、自らの立場を確かにしなければなりません。教会のあらゆる説教壇から発せられる声は、教会全体の声となります。ですから、教会のすべての役員は、すべての説教壇から語られることに責任があります。
メイチェンの教会論は、真の聖徒の交わりとその見せかけのものとを区別しようとしました。思考の交わりのないところに、生活の交わりはありません。教理への無関心は、神学的リベラリズムが教会の教壇に立つことを許すような、非常に幅広い教会主義を生み出します。教会の信仰告白と教理問答に表現された教会の教理の「心からの同意」だけが、真のクリスチャンの交わりをもたらすのです。
この同意を確立し、維持するために、教会が熱心に追求しなければならない課題が四つあります。第一に、教会は信仰のために争うという課題に専念しなければなりません。第二に、教会は役員の按手に心を注ぎ、教会の役職が健全であるために、高い資格基準を保持しなければなりません。第三に、治会長老(信徒長老)は教会を治めなければなりません。これは、説教壇での説教を守らなければならないということです。最後に、教会は教理教育や弟子育成の働きを回復し、信徒たちのあいだで蔓延する教理に関する無知に対抗しなければなりません。一言で言うならば、教会はその教理を管理しなければならないということです。教会が教理を伝え、擁護するためには、たとえ攻撃的で排他的になろうとも、用心深くなければなりません。
メイチェンは教会を分裂させようと躍起になっていたのではありません。リベラル派はまさにそれを成し遂げようとしていました。メイチェンは、唯一持続可能な方法、すなわち世からの明確な分離によって、教会の一致を追求しました。一世紀が経ち、私たちはメイチェンの正当性が証明されたのを目の当たりにしています。リベラリズムはこの世と同じ姿になりすぎました。それに従って、プロテスタントの主流派はその意味を失い、会員数も激減しています。
ではアメリカの福音主義教会はどうでしょうか? その戦いに挑む精神を維持し、世界に対する共同体の証しを保っているでしょうか? 宗教的な体験を重視し、教理に無関心であることは、アメリカの福音主義の多くの方面でその影響を及ぼしています。信仰告白の曖昧な取り扱い、教理教育の崩壊、教会戒規を追求することへの消極性が見られます。教会への献身や毎週の礼拝出席が、クリスチャン生活の優先事項でなくなっているのも、不思議にすら感じません。私たちはもはや、自分の好みや嗜好次第で、教会を自由に選んだり離れたりしています。もっと悪いことには、宗教的な信憑性を個人のものとして追求するあまり、教会を完全に切り捨てています。今日の教会はこのような態度をあまりに進んで受け入れ、その時代の世俗性に抗うのではなく、宗教的消費者たちの気まぐれを満足させるために、自らを必死に売り込もうとしているのです。物事の信憑性に執着する時代に対して、メイチェンは時宜に適って、それが私たちの時代であれ他の時代であれ、真の教会のしるしこそが教会の信憑性を示すものだと教えています。そのしるしとは、みことばの宣教、聖餐の純粋な執行、教会戒規の行使です。
メイチェンによる『キリスト教とは何か』の変わらぬ価値は、最後の章を注意深く学ばなければ取りこぼしてしまいます。個人の宗教的体験が栄えることを使命とする教会は、世俗主義に屈した教会です。しかしメイチェンは、神のことばに見出され、信仰告白の基準に集約されている、教理を管理することこそを教会の使命とするよう、私たちを導いています。これこそ、世俗を捨てて、天の故郷を目指して歩みを進める巡礼者の住まう場所となり、メイチェンがこの本を締めくくる希望となる場所です。
「争いからの避け所はないか。私たちが人生の戦いのために備えをすることができる、休息の場所はないのか。二人または三人がイエスの名によって集まり、国と国、人種と人種を分つすべてのことをしばらく忘れ、人間のプライドを忘れ、戦争の激情を忘れ、産業戦争の目まぐるしい問題を忘れ、十字架の下にあふれる感謝をもって一致できる場所はないか。もしそのような場所があるとすれば、それは神の家であり、それは天国の門である。そしてその家の敷居の下から、この疲労困ぱいした世を生き返らす川が流れ出るであろう。」
1 『キリスト教とは何か』メイチェン、J. G.著、吉岡繁訳、1976年、いのちのことば社。 p. 212.
2 同上 p. 30.
3 同上 p. 221.
4 同上 p. 221.
5 同上 p. 231.
6 同上 p. 232.
7 同上 pp. 246-247.
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。