神の自存性と統一性
2023年07月27日(木)
神の不可受苦性
2023年08月01日(木)
神の自存性と統一性
2023年07月27日(木)
神の不可受苦性
2023年08月01日(木)

神の不変性

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第三章の記事です。

「神の不変性」という言葉は、神は変わることのないお方、変わることのできないお方という意味です(民数23:19; 一サム15:29; 詩篇102:26-27; マラキ3:6; ヘブル6:13-20; ウェストミンスター信仰告白 2.1; ウェストミンスター大教理問答 7; ウェストミンスター小教理問答 4)。これは、父、子、聖霊の三つの位格すべてに真実であり、それは神が不可分に一つであり、神のご本質がその属性と同一であるゆえです。神の不変性は、神の本性による必然であり、そうでなければならない必要によるものです。

神の不変性は、神の統一性(神は部分に分けられない)および不可受苦性(神は外的な力に束縛されない)に関係しています。いかなる被造物の力も存在も、神に影響を与えることはできないので、神は永遠にその御姿を保たれます。もし、神が変わるのなら、それはより良いものへの動き、あるいはより良いものからの動きを伴うものであり、ある段階で最良とは言えない状態があることを示唆します。あるいは、何らかの外的な力や存在が、神に勝る力を持っていることになるでしょう。このようなことは、神について絶対に正当なものであるはずがありません。

批判

  1. 神の不変性は、神があたかもコンクリートの塊のように静的であることを意味する、と議論する人もいます。G・W・F・ヘーゲル(1770-1831)の時代以降、神は動的で変化するものとして「成る」状態であると主張する意見が大きくなっていました。神と被造物とは、実質的に共依存の関係にあり、宇宙のプロセスの中で共に動き変化するものであるという考えです。これは、聖書とは異なるもので、創造主と被造物の区別を曖昧にするばかりか、その区別を消し去ってしまいます。

    さらに、神の不変性は、神が静的であるという概念を含んだり必要としたりしません。三位一体の中で、御子の永遠の誕生と聖霊の発出は、神がいのちそのものであり、変化することなく動的であることを示しています。神の不変性は、単純に、神が永遠にご自身に真実であられることを確立させるものです。神はいのちそのものであり、永遠にそうあり続けられます。ヘルマン・バーフィンクがこのように言ったのは正しいでしょう。「神の本性は、生み出し、実を結ぶことである」

神の不変性とは、神がご自身に対して不変的に真実であり、それによって、神の目的と約束にもそのようであることを意味します。神は主権者であり、外的要因や力による影響は受けられません。

  1. トマス・アクィナスがアリストテレスの「不動の動者」の考えを用いることに対しては、違和感が表明されています。それでも、トマスはこの考えを参照して、すべての創造された存在は他の存在からの作用を受けることによって動かされると主張しました。しかし、神は、すべての存在の創造主、保持されるお方として、すべての被造物に作用なさるのですが、神ご自身は、創造された外的な力や制約による作用を受けることはありません。神は動かされないのです。これは、神の全能性と主権性、そして無から(ex nihilo)の創造とも関係しています。なぜなら、他のすべての存在は創造され、偶発的であるからです(存在しなかったかもしれない、完全に神の意志に依存している、神はそれらの存在を終わらせることができる)。ある神学者は、この反論は、神を逆に最も動的な不動者にしてしまう、と指摘しました。
  1. 聖書には、神が思い直されたり、悔やむなどの感情を表されたりする記述が多くあります(例・創世6:6; 一サム15:11, 35; ヨナ3:10; 4:2)。しかし、これらの例については、「神が被造物との関係の中で変化されるというより、被造物が神との関係の中で変化したというのが適切である」と、スティーブン・J・デュビーが論じています。つまりこれらの箇所は、私たちの理解に合わせて、神を擬人化した言葉を用いています。
  1. 「福音主義的な」オープン神論者は、変化しうる神によって、祈りの中に刺激的な相互関係がもたらされ、私たちは神の決定に関与することができると論じます。しかし、このような主張は、神の永遠の目的が、神によって生み出された存在によって妨げられる可能性、および神が弱く無力な傍観者となってしまう可能性を含んでいます。これもまた、聖書に反しています。

聖書的・神学的要素

神は生けるお方であり、いのちそのものです。神が被造物に与えられた限りある偶発的いのちは、神の不変の本性に基づく自由かつ主権的な決定です。バーフィンクが書いたように、もし御父が御子を生まず、(御子とともに)聖霊に息吹くことができなかったら、御父は被造物を自由に生じさせることができなかったでしょう。このような永遠の発出は、神が変化することを示唆するのではありません。これは、肯定的に神がいかに永遠にあられるかということ、そして否定的に神が、外的な力に永遠に依存しておられないということです。

神の不変性とは、神がご自身に対して不変的に真実であり、それによって、神の目的と約束にもそのようであることを意味します(マラキ3:6)。神は主権者であり、外的要因や力による影響は受けられません。そのため、神の性質は変わることがなく、変わることもできません。これは、創造、摂理、恵みのすべての外的な御業の基礎であり、私たちの信仰と確信の土台となります(ヘブル6:13-20)。

ある人は、受肉は神にとって新しいものであったと提言しています。それは、三位一体の一位格である御子が、永遠に続く人格的な結合のため人性をとられ、その行為によって神である御子特有の人性が構成されたというものでした。歴史的観点から見ると、これは二千年ほど前に私たちの世界で起こった現実の出来事でした。それ以前にはなかったことであり、そのときが初めてでした。

しかし、それは、私たちの選びと神との結合が世界の基が据えられる前からあったように、神がイエス・キリストのうちに受肉するということは、神が初めから決定されていたことでした(エペソ1:4)。さらに、受肉において、神ご自身は変わっておられません。御子が人になられたというのは、人に変わられたということではありません。御子はご自分を強化させたり、それまでの姿に何かを加えたりはしておられません。もしそうしていれば、それは受肉ではなく、変態でしょう。むしろ、御子は、そのときから永遠に続く結合のうちに人性をとられることによって、それがご自身の人性となるようにされました(ピリピ2:6-7)。受肉によって、人としてナザレのイエスのすべての経験の主体となりながらも、御子またはことば(Logos)として、昨日も今日も、とこしえに変わることがないままで存在しておられます(ヨハネ1:1-4, 14-18; ヘブル13:8)。そこから、苦難、死、埋葬、そして復活を含む、この世における人生の過程が、人間の観点から神に知られるようになったのです。これは、神の不変性によって保証されます。

適用と結果

神の不変性(神の統一性と不可受苦性とともに)は、神学全体の基礎となるものです。神はご自身の契約とその約束に徹底的に真実であられるため、神の不変性は、贖いの御業の土台を据えているのです。これは、私たちの確信のための重要な防波堤です(ヘブル6:13-20)。なぜなら、「主の恵みは とこしえからとこしえまで 主を恐れる者の上にあり」ますから(詩篇103:17)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ロバート・レーサム
ロバート・レーサム
ロバート・レーサム博士は、ウェールズのUnion School of Theologyで組織神学および歴史神学の教授。多くの著書があり、『The Holy Trinity』『The Work of Christ』『Union with Christ』など。