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神の不可受苦性

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第四章の記事です。

教会生活で長年愛され続けている伝統的行事といえば、持ち寄りの食事会や愛餐会でしょう。食べものがずらりと並び、豊かなごちそうを皆が楽しみます。お皿を手に、その食べものやデザートの前を通るとき、あなたはある料理は選びますが、ある料理の前は素通りします。なぜでしょうか? なぜ、あなたはあるものを選び、あるものは選ばないのでしょうか? 実は、あなたの目の前に並ぶそれぞれの食べものやデザートは、あなたに作用し、働きかけ、影響を与えているのです。どのようにそれが起こっているのでしょうか? あなたはそれぞれの品が良いものか、悪いものかを認識し、良いものには惹かれ、悪いものには反発します。良いものを取ろうとし、悪いものを避けようとするとき、あなたはその食べものと、それを見抜くあなたの認識によって、変えられ、動かされ、影響を受けているのです。これが、受苦性passibility)のある被造物の生活です。

受苦性であるということは、外部の影響によって作用されうるということを意味します。あなたは、動作主作用因子agent)の被動者patient)になりうるということです。 被動者を意味するpatientと、受苦性を意味するpassibleは、同じ語根のpati-からきており、「苦しむ、受ける」という意味を持ちます。被動者(patient)は、動作主や作用因子の作用に苦しんだり、その影響を受けたりする人のことです。つまり、受苦性であること(passible)は、動作主や作用因子の被動者になることができる、またはなりうる、ということになります。

持ち寄られた食事の前に並び、特定のものを皿に取り、それ以外のものを避けているとき、あなたは良いと認識するものに近づき、悪いと認識するものから離れるという変化、動作、動きを受けているのです。食べものは、(あなた自身の認識における)その良し悪しによってあなたを動かす作用因子であり、あなたはその被動者です。

この、良いものに近づき、悪いものから離れようとする動作、このように「受ける」ものが、passions)です。私たちはこのような欲に名前をつけ、愛と憎しみ、喜びと悲しみ、自信と恐れ、憐れみと復讐などと呼んでいます。パウロはエペソ人への手紙2章3節で、「私たちもみな、…かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行」っていたと言いました。

神は、心のこもった行動や感情的な働きかけによってではなく、限りなく満ち満ちたご自身の善によって、無力な人々を助けてくださるのです。したがって、無力な人はいつも、神を呼び求めることができます。神が憐れみ深いからではなく、憐れみそのものであられることを知っているからです。神は憐れみに動かされません。神が、憐れみなのです。

欲は、人の肉と心の望むことを行うことです。それは、私たちが良いと認識するものに近づき、悪いと認識するものから離れる動作です。パウロは、コロサイ人への手紙3章2節で、クリスチャンに向けてこう命じています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません」 英語の古い訳では「Set your affections (つまりpassions)on things which are above」とあります。[直訳:「あなた方の欲を上にあるものに向けなさい」] これはつまり、「堕落した人やその罪深い性質によって定義されるものではなく、神が良いと定義されるものに引き寄せられ、神が悪いと定義されるものを避けなさい」ということを意味します。

受苦性をもつ被造物の人生、すなわち欲を経験することは、常に移り変わり続ける動きや動作、浮き沈みがあり、あらゆる外的な力によってもたらされる変化に満ちています。信号が青になると、その瞬間私たちは嬉しくなりますが、赤信号に出くわすとたちまち気分は変わります。好きなスポーツチームの得点には大きな満足と自信を感じますが、相手チームが得点すると苛立ちや恐れが生まれるのです。

さて、受苦性の意味を理解した今、私たちは、不可受苦性impassibility)であられる神を喜び、礼拝することができます。不可受苦性は、否定形です。ですから、神には「欲情がない」、すなわち神は不可受苦性であると言うとき、前述したような欲が神のうちにあることを否定していることになります。神は、動作主や作用因子(agent)の被動者(patient)になることは決してありません。神は、ご自身のうちに変化を引き起こすような何かによって、動かされることも決してありません。被造物が創造主に働きかけ、創造主が良いと認識するものに近づいたり、悪いと認識するものから離れたりするようにさせることはないのです。

むしろ、神は「とこしえにほめたたえられ」(ローマ1:25; 二コリ11:31)るお方であり、私たちの正しさや悪によって神が変わることはありません(ヨブ35:5-8)。これは、素晴らしい知らせです。なぜなら、たとえば神の愛や憐れみは、被造物のうちにあるような欲ではなく、完全なものであるからです。これはつまり、神は愛に動かされたり、憐れみに動かされたりするのではなく、限りなく満ち満ちた、神ご自身の善によって、愛と憐れみを示してくださるということです。神は愛に動かされません。「神は愛…です」(一ヨハネ4:8)。そして、神の愛が欲ではないからこそ、神が愛でなくなることは、神が存在しなくなること以上に、ありえません。

もし神の愛が私たちの欲のようであれば、神の愛は私たちの良し悪しによって常に変化していたでしょう。私たちの変化が、神を変化させるのです。実際、すべての被造物は、全知全能の神の中で、常に変化の原因となっています。しかし、神が被造物に関与され、永遠の愛をもってご自身の民を愛されるのは、まさに、私たちのうちに認める善によるのではなく、神が私たちを限りなく満ち満ちた愛で愛してくださるからです。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(一ヨハネ4:19)と、確かに書かれてある通りです。神の民よ、宣言しようではありませんか。「に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで」(詩篇136:1)

同じように、神は私たちのうちに何かを認めることで憐れみに動かされるのではありません。私たちの憐れみは、誰かまたは何かに対して心の琴線が触れることで引き起こされます。大半の慈善的な寄付などは、人々の心を憐れみに動かすことに依存しています。そのようなシステムには腐敗もあるでしょう。しかし、私たちは実際に多くの人々が抱えている苦しみを無視しているということを告白しなければなりません。なぜなら、私たちは憐れみに動かされなければならないからです。しかし、神の憐れみは欲ではありません。神は、心のこもった行動や感情的な働きかけによってではなく、限りなく満ち満ちたご自身の善によって、無力な人々を助けてくださるのです。したがって、無力な人はいつも、神を呼び求めることができます。神が憐れみ深いからではなく、憐れみそのものであられることを知っているからです。神は憐れみに動かされません。神が、憐れみなのです。私たちはともに、神を礼拝し崇め、こう告白しようではありませんか。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は偉大です」(哀歌3:22-23)

不可受苦性が否定形であるため、人の受苦性と対比することで理解しやすくなります。私たちの欲は、肉と心の動きであり、私たちがあらゆる類の作用因子を受ける(被動者となる)ことでもたらされる変化です。しかし、神の愛と憐れみ、またそれ以外の神の属性も、欲や動作でも、変化や状態でもありません。むしろ、完全で、限りなく、永遠に変わることのない、神ご自身なのです。神はその被造物のうえに、良いものを注いでくださいます。「はすべてのものにいつくしみ深く そのあわれみは 造られたすべてのものの上にあります。よ あなたが造られたすべてのものは あなたに感謝し あなたにある敬虔な者たちは あなたをほめたたえます」(詩篇145:9-10)


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

サミュエル・D・レニハン
サミュエル・D・レニハン
サミュエル・D・レニハン博士は、カリフォルニア州ラ・ミラダにあるTrinity Reformed Baptist Churchの牧師。著書に『God without Passions』『The Mystery of Christ, His Covenant, and His Kingdom』がある。