
イエスはいかにして道であり真理でありいのちであるか
2025年12月18日(木)
イエスはいかにして世の光か
2026年01月01日(木)イエスはいかにしてまことのぶどうの木か
編集者注:これはテーブルトーク誌の「イエスによる「わたしは〜です」」というシリーズの第五章の記事です。
イエスの「わたしは〜です」という七つの宣言のうち、「わたしはまことのぶどうの木」です(ヨハネ15:1)という最後の宣言は、おそらく最も意図が読み取りにくい言葉かもしれません(少なくとも異邦人の読者にとっては)。この言葉は多くの読者(また説教者)にとって、純粋に比喩として、各々が信仰者として豊かに実を結ぶことを教える表現として理解されがちです。しかし、イエスの言葉を聞いていた当時の聴衆——つまりユダヤ人たち——が受け取ったのは、そのような意味ではありませんでした。
ユダヤ人の聴衆たちは、この言葉を聞いたと同時に、自分たちのヘブル語聖書(旧約聖書)へと思いを馳せたはずです。そこに記される贖いの歴史全体において、神がイスラエルと関わってこられた姿の中にぶどうの木というイメージが一貫して現れているからです。したがって、イエスの言葉の重みが次第に彼らの心に浸み渡るにつれて、イエスがご自身こそその成就であると大胆に語っておられることに、ただ驚嘆するほかなかったでしょう。
詩篇で、詩人はイスラエルという国民がどのようにして生まれたかをこのように語っています。
あなたは エジプトから
ぶどうの木を引き抜き
異邦の民を追い出して
それを植えられました。(詩篇80:8)
預言者イザヤは、イスラエルの霊的な後退に対する警告としてぶどう畑について語ります。神が植え、手入れをされたぶどう畑が、やがて荒れ果てて実を結ばなくなるのです(イザヤ5:1-6)。エレミヤも同じ表現を用いています(エレミヤ2:21)。それは美しくも、心に迫る表現です。
神の民としてのイスラエルの物語には、その全体において神の愛と配慮の証しが織り込まれています。神はこの民を永遠の昔から選び、奴隷の状態から贖い出し、荒野を導き、彼らのものとなる土地を与えられました。彼らが国として霊的に栄えるだけでなく、地のすべての部族がイスラエルによって祝福されるように(創世12:3)、神は彼らに必要なものをすべて与えられました。しかし彼らは、与えられた賜物を浪費し、自分たちを生み出してくださった神から離れていったのです。
イエスがご自身をぶどうの木と結びつけて語られたとき、その意味を弟子たちが理解できなかったはずはありません。かつてイスラエルの民全体としてのアイデンティティが贖い主である神に根ざし、彼らの霊的活力と実りが主であり救い主である神との一致と交わりの中に根ざしていたように、今や、さらに栄光に満ちたかたちで、神の約束がキリストのうちに成就したのです。
今日、多くのクリスチャンの考え方は、啓蒙時代以降の個人主義によって形づくられています。すなわち、主に自分自身に焦点を当て、自分の物語こそが最重要であると考えるのです。しかし、このような考え方は聖書の教えに反します。聖書が重視しているのは、単に個々人が何者かということではなく、救いにある新しいいのちにおいて、共同体全体としての私たちがどういう者かという点です。イエスはぶどうの木とその枝の比喩を用いて、イエスとその民との関係性を描いています。弟子たちは、イエスの語られたことを正確に理解していました。特に、イエスとの結びつきが必然的にもたらす霊的な実りに関しては、言うまでもありません。
イエスが「まことのぶどうの木」だという比喩を最初に適用されたのが、表面上はイエスに従うように見えて、実際はそうではない者たちである点は注目すべきです。「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除[く]」(ヨハネ15:2)、とある通りです。イエスは、教会に参加するなど、表向きにはクリスチャンのように見せているものの、その信仰告白は真実なものではない者たちを指して語っておられます。彼らには、後にパウロが言うところの「御霊の実」の証しが欠けているのです(ガラテヤ5:22-23)。
イエスはさらに、「まことのぶどうの木」であるご自身に人々が結びつけられる根拠を述べておられます。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです」(ヨハネ15:3)。福音の中で語られるイエスの言葉は、何よりもまず、宣言する言葉です。それは、信じる者に罪の赦しだけでなく義と認める恵みによるきよめも保証します。これは、神との新しい立場を告げる、一度きりの宣言です。
しかし、神学者たちがしばしば指摘するように、「信仰のみで義と認められるが、その信仰は決して単独ではない」のです。信仰は聖化の恵みと結びついており、これらを切り離すことはできません。神が私たちを赦し、受け入れたことでその御前に与えられた新しい法的立場は、必ず私たちの生活の中で、私たちを変える恵みの証しとして現れます。神は私たちを、ご自身の御子、救い主イエスのかたちと同じ姿に変え続けてくださるのです。
しかし、他の聖書箇所でも繰り返し教えられているように、この新しいいのちの成長と実りには、しばしば代償が伴います。御父は枝を「刈り込み」、より多くの実を結ばせます(ヨハネ15:2)。神の摂理の厳しさや人生の試練を通して、神は私たちを自己依存から引き離し、ご自分の御子にますます深く「とどまる」ことを教えてくださるのです。
驚くことに、イエスはこの「とどまる」ことが実際に何を意味するのか、その理解の鍵を示しておられます。私たちがイエスにとどまることで、イエスのことばが私たちにとどまるのです(ヨハネ15:7)。イエスのことばがとどまる証拠は、私たちの祈りの生活の中に現れます。神の御前に自分自身の必要を差し出し、神の祈りの応えを知ることによるのです。
つまりは、キリストの弟子である私たちは、イエスの愛にとどまることが求められています(ヨハネ15:9)。この一点こそが、パウロの意識に深く刻み込まれ、ガラテヤ人への手紙の心に迫る宣言に表れています。「[キリストが]私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった」(ガラテヤ2:20)。パウロに注がれたキリストの愛は、彼のうちでキリストへの愛を育み成長させる土壌となりました。どうか私たちもまた、まことのぶどうの木であるキリストと結びつく者として、パウロのようでありますように。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

