
人の本性は基本的に善か、それとも完全に罪深いのか
2026年08月20日(木)中絶による罪悪感の解決のために
中絶に関わる罪悪感に苛まれている人は何千人もいます。その苦しみは、中絶を行った女性、中絶を促した男性、そして中絶を行った医師たちにつきまとい、悩ませ続けます。ある女性医師は、ニューヨーク・タイムズ紙の取材に対して、中絶を行う前には心の準備が必要であったこと、またその前夜は眠れないことが度々あることを打ち明けました。その医師はこう述べています。「産婦人科医にとって、中絶を行うことは非常に辛いことです。そこに伴う感情的な痛みはあまりに大きく、医師同士でもそのことについてはほとんど話し合いません」 彼女は、中絶を行った後に過度の感情的負担に耐えられず、その場で床に倒れ込んでしまったこともあるそうです。
罪悪感というのは強い力を持つ感情です。その人を精神的にがんじがらめに縛りつけ、深刻な麻痺状態に陥らせることもあるほどです。私は一度、臨床に携わる精神科医から、彼のスタッフとしてチームに加わらないかと誘われたことがあります。その医師は、多くの患者が深刻な罪悪感に悩まされていると説明しました。「彼らに必要なのは医師ではありません。牧師が必要です」と彼は言いました。「『あなたは赦されている』と彼らに言ってくれる人が必要なのです」
この精神科医は、キリスト教信仰に何の忠義も抱いていませんでした。彼はただ単純に、患者たちの精神状態を危惧していたのです。彼は、解決されないままの罪悪感が持つ破壊的な力を理解しており、真の罪悪感を否定したり正当化したりするのは効果的な手段ではないことも認識していました。真の(有罪ゆえの)罪悪感を癒す唯一の効果的な方法は、真の赦しです。自分自身の手に染みついた汚れを覆い隠したところで、その汚れ自体を取り除かなければ何の解決にもならないのです。
神の赦しを経験する
赦しがもたらす完全な解放を経験するためには、ただ神のもとに近づき、へりくだった心と痛悔の霊をもって罪を告白しなければなりません。「痛悔(contrition)」には、神に背いたことに対する純粋かつ敬虔な悲しみがあります。これは、罰に対する恐れによって生じる偽りの悔い改めである「不完全な痛悔(attrition)」とは異なります。「不完全な痛悔」とは、例えば子どもがクッキーの瓶にちょうど手を入れたところ母親が手に木ベラを持って立っているのを目にしたために、見つかったことを悔いるようなものです。真の悔い改めは、決してその罪を正当化しようとはせず、罪の現実を認めます。真のへりくだりと痛悔の心で、その罪を二度と犯さないという真剣な決意を持って神に近づく人は、必ず神の赦しを受け取ります。
私がしてしまったことは、帳消しにはできません。しかし、私は赦されることができます。赦しとは、神の恵みの驚くべきみわざの一つです。赦しがもたらす癒しの力は計り知れません。もしある女性が中絶に関わったことがあるとしても、神はその人に、胸に緋文字の烙印を押されたまま残りの人生を歩き続けることを求めてはおられません。神が求めておられるのは、その人が自分の罪を悔い改め、赦しによるきよめを受けるために神のもとへ近づくことです。神が私たちを赦してくださるとき、私たちは赦されています。神が私たちをきよめられるとき、私たちはきよくなっているのです。これは、大いに喜び祝うべきことではないでしょうか。
1 訳注:ナサニエル・ホーソーンの小説『緋文字』で、罪の象徴としての赤い「A」の文字が描かれている。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

