都上りの歌の読みかた

2026年08月18日(木)

中絶による罪悪感の解決のために

2026年08月20日(木)

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人の本性は基本的に善か、それとも完全に罪深いのか


人は本来善であるという考えかたは、アダムの罪はアダム一人にしか影響を及ぼさなかったと考える古代のペラギウス主義の異端的主張と重なります。この見解によると、アダムの堕落は人の本性に影響を与えなかったということになります。しかし、聖書の教えはこれと異なります。つまり、アダムの罪は、彼から生まれたすべての子孫に影響を及ぼしました(ローマ5:12-14)。人は生まれながら、「御怒りを受けるべき子ら」です(エペソ2:3)。これは、神学的論点の一つとして掲げられる「全的堕落(total depravity)」という表現、いわゆるTULIPの「T」に当たります。すなわち、罪はすべての人(イエスを除く)の心、思い、身体、そして魂を堕落させました。この教理は、旧約・新約聖書全体を通して一貫しています(例・創世6:5; 詩篇14:1-3; 143:2; 伝道者7:20; イザヤ64:6; マルコ7:18-23; ローマ1:21-32; 3:10-18, 23; 8:5-8; ガラテヤ4:3; エペソ2:1-3; 4:17-19; テトス3:3)。

この点については、クリスチャンでさえ頭を悩ませることがあります。なぜなら、聖書は人が神のかたちとして創造され(創世1:26-27)、神はご自身の創造されたものを「良かった」とされたからです(31節)。神によって造られたすべてのものが良いものであり、神が人の本性をも創造されたのであれば、人の本性は必然的に良いもの(善)となるはずではないでしょうか。確かに、そうです。創造当初の人の本性は、良いものでした。しかし、人の本性の中には、人の意志も含まれています。最初に創造された人は、彼らのうちに創造されたその意志を神のご意志(みこころ)と完全に一致させる責任を担っていました。それはすなわち、神に従うという責任です。しかし、彼らは従わず、神に背きました。サタンと同じように、彼らは自らの意志を、いわば神のみこころに対して直角に向けて背き、この世界と自分たちの本性に罪と悲惨を招き入れたのです。つまり、彼らは罪を犯しました。まさにその瞬間、人の本性は歪められ、腐敗しました。「類は類を生む」とある通り、今やすべての人は、腐敗し堕落した本性を持って生まれてきます。人は、罪の奴隷として生まれてくるようになったのです。

ですから、「誰でも少しは罪を犯す」という主張もまた、誤りです。私たちは自分自身を他の誰かと比較して自らの立ち位置を測ろうとし、とりわけ絶対的に悪と言える人物を好んで比較対象としがちです。例えば、ヒトラーやスターリンや毛沢東などです。何百万人規模の虐殺をしない、という基準を設けるなら、自分自身を良い人間だと信じるのは容易なことです。しかし、神のみことばが罪を測る基準はそのような基準ではありません。基準は、神のみこころであり、その要求は神のみこころに完全に従うことです。「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです」(ヤコブ2:10; ガラテヤ3:10参照)。自ら問うべきは、「私は今日何百人もの人を虐殺しなかったか」という問いではありません。私たちが問うのは、「今日、私は完全に『心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛し』たか」という問いです(マタイ22:37-39)。この基準を満たすことができない日はどれだけあるでしょうか。それは果たして「少し」でしょうか。決してそうではないでしょう。私たちはあまりに多く失敗します。それは、私たちが多く罪を犯しているということです。だからこそ、私たちはイエス・キリストの完全な義が必要です。キリストこそ、律法を完全に成し遂げた唯一の方であられるからです。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

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私たちはR・C・スプロール博士を中心とするリゴニアの専属講師陣です。私たちは、聖なる神を余すところなく、より多くの人々に宣べ伝え、教え、弁明するための働きをしています。私たちの使命、情熱、目的は、人々が神と神の聖さの知識を深めることができるよう助けることです。