最も優れた賜物
2023年09月15日(木)
無謬のみことば
2023年09月29日(木)
最も優れた賜物
2023年09月15日(木)
無謬のみことば
2023年09月29日(木)

啓示の賜物はすたれたか?

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第十六章の記事です。

今日、聖霊による啓示の賜物はまだ存在しているのでしょうか? 言い換えるなら、神は今も、新しい啓示を与えるために、特定の人々に預言したり異言を語ったりする特別な能力を与えておられるのでしょうか?

使徒の時代の終わりとともに、啓示のしるしの賜物がすたれたかどうかという疑問に対して、聖書的、神学的、そして歴史的に答えるとするならば、「すたれた」という答えになります。

聖書的には、ヘブル人への手紙1章1-2節で、イエス・キリストにある啓示が、預言者たちの働きの後にもたらされたもの、また使徒たちによって新約聖書に記されているものとして、すでに終わったということが強調されています。預言の問題と聖書との関連性は、クリスチャンにとって基礎となるものです。旧約・新約聖書における啓示と預言には契約的文脈があり、私たちはその観点からこの問題を見ていかなければなりません。聖書全体を通して、預言は公の宣教の働きと関連しており、神のことばに責任を負っています。

神学的には、御子が「栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであ」られる以上(ヘブル1:3)、預言の頂点はキリストというお方とその御業にあることに疑いの余地はありません。ヨハネの黙示録22章18-19節で警告されているとおり、さらにつけ加えるべき、より優れた預言や特別な啓示はありません。イエス・キリストは、地上での宣教を終えられる直前に、助け主である聖霊についてこのように言われました。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)。ここからわかるように、神の民の間での聖霊の働きは、私たちのためにキリストが成し遂げられた御業を、私たちの理解と生活の中に適用することです。神の民の間での聖霊の働きに含まれることとして、御父によって御子に与えられた人々を、一人も失われることなく、キリストにある信仰によって福音を通して招き、応答するよう再生させる働きがあります。個々のクリスチャンにおいては、この御霊による再生の御業によって、内的証明による慰めと大胆さが生まれます。その証明とは、神のことばは真実であること、キリストの御業は彼らのためのものであること、そして主は決して彼らを離れず、約束を蔑ろにされないという証です。

さて、このことと、啓示の賜物やしるしの賜物とが、どう関係するのでしょうか? 実は、すべてにおいて関係してくるのです。継続説(continuationism)と終焉説(cessationism)について議論するとき、すべてのクリスチャンが聖霊が今も活発に働いておられることを信じていること、また主が、福音の宣教を通してご自身のもとへ召されるすべての人のうちに信仰を生み出しているという事実を、見失ってしまうことがあります。聖霊が働いておられるかどうかについては、クリスチャンの間で議論の余地はありませんが、問題はどのように働いておられるか、ということです。それぞれのクリスチャン、また教会間で考え方の違いがあっても、この点について忘れてはいけません。

聖霊が働いておられるかどうかについては、クリスチャンの間で議論の余地はありませんが、問題はどのように働いておられるか、ということです。それぞれのクリスチャン、また教会間で考え方の違いがあっても、この点について忘れてはいけません。

ペンテコステ運動が20世紀と21世紀のキリスト教において最大の運動の一つであったこと、その流れがプロテスタントとローマ・カトリック教会の各派に見られること、さらにこの運動が世界宣教において避けられない課題であることを踏まえると、前述した私の否定的な答えは意外に思われるかもしれません。現代のクリスチャンの間では、継続説から終焉説まで、さまざまな考えが幅広く見られます。継続説を堅く信じるクリスチャンは、啓示的なしるしの賜物は、教会や個々のクリスチャンの中で聖霊の臨在を示すために必要かつ本質的な、継続的なしるしであると主張します。このような強い継続説の見解では、教会や、信仰告白をしているクリスチャンに、これらのしるしの賜物が少しも見られない場合、それは偽教会であり偽クリスチャンである可能性が非常に高いと見なされます。または、肯定的に言うならば、教会の活力は、継続的な聖霊の働きが個々におけるそのような啓示的賜物(異言を語る、預言を続ける、など)によってこそ証明される、というのが継続説の強調点です。

継続主義の範囲について言及するならば、現代のキリスト教界では、流行とまでは言わないまでも、説教者と会衆の中で継続説を全面的に原則として受け入れるというソフト継続説と言えるものが一般的になっています。ソフト継続説の教会での公の礼拝では、啓示的賜物を全面的に用いたりすることは受け入れらないにしても、それに異論を唱えることは原則として行われず、あくまで実際的かつ良識的な観点から公の礼拝において何が最善であるかということが模索されます。

一方で、終焉説は、啓示的なしるしの賜物は使徒たちが生きていた時代のものであり、聖書の正典が閉じられたと同時にすたれたという見解を掲げます。したがって、終焉説の立場では、新約聖書の作成が終了したこと(つまり、聖書が完全にできたこと)により、啓示的賜物が終焉に至ったというのが第一の強調点です。さらに、聖書の中で「が語られたことば」または「預言者がの名によって語っ」たことばには、誤りの余地がないと記されています。例えば、申命記18章21-22節には、このように明確に書かれています。

あなたが心の中で、「私たちはが語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、預言者がの名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それはが語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。

この箇所の重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはないほどです。真の主の預言者たちと、彼らの語る神のことばは、誤った預言を決して伝えません。前述したキリストにおける神の啓示の聖書的かつ神学的な最終性に加え、聖書の無誤無謬性という堅固な教理とともに、終焉説の立場が真の預言の真実性、正確性、無謬性といった、同様の高い基準を保持していることは重要な点として注目すべきです。

継続主義者は、新約聖書における御霊の働きがより完全なものであると主張する一方で、現代の「預言」については、旧約聖書におけるものほど完全ではない、または十分でない理解にならざるを得ません。

継続主義者は、新約聖書における御霊の働きがより完全なものであると主張する一方で、現代の「預言」については、旧約聖書におけるものほど完全ではない、または十分でない理解にならざるを得ません。決してすべての継続主義者がそうなのではありませんが、非常に強い継続主義者の中には、彼らが個人的に得る啓示を聖書と同等であると主張したり、自分たちが現代の使徒であるとする人さえいたりします。当然、このような主張は、大多数の継続主義者を尻込みさせます。彼らの見解が修正されたものであったり、より緩やかなものであったとしても、そうなるのは無理もありません。なぜでしょうか? 一つは、大多数の継続主義者は、使徒的霊感と使徒後(post-apostolic)の預言との重要度と優先順位の間に、決定的な違いを位置付けたいと考えているからです。継続主義者は、聖霊による使徒後の預言と啓示の賜物に誤謬性がある可能性を認めます。少し考えてみましょう。カリスマ派の流れにある人々の間では、使徒後の預言の賜物を持つ人が主のことばを語るとき、それらがすべて事実上真実とは限らず、または絶対に真実であるとは期待しません。結果的にほとんどが真実、ということになったり、真実かもしれない、またはまったく何も起こらない、ということもあり得ます。真実として意図された恍惚とした印象だけが反映されることもあるでしょう。しかし、表面上、絶対的に真実であるとは言えないのです。暗黙の了解として、教会、またはその教会に集うクリスチャンを通して表される、継続的な聖霊の真の臨在のしるしは、誤謬性のある確率的なしるしとして矮小化されていることになってしまいます。聖霊による真の預言に誤りは起こりうるでしょうか? もちろんあり得ません。もし、誤謬性のある「預言」が教会で頻繁に実践されるようになるとしたら、それは実践的にも原則的にも、聖書を低く見る傾向が生まれてしまうのではないでしょうか?

新約聖書におけるしるしの賜物をめぐる議論に加え、私は、通常「照明(illumination)」と呼ばれている御業について議論するほうが、非常に有益であると考えます。照明と啓示とは、同じものではないことを明確に示しておかなければなりません。啓示は、神を指し示す客観的な真理です。16世紀以降の古典的な改革派神学者たちの間では、霊感は、預言者や使徒の霊感との関連性で、また聖書の霊感との関連性で定義づけられていました。。特別啓示としての預言に関する議論は、この領域が最も忠実で適切であると言えます。照明は、聖書が真理であるという、聖霊による堅信です。新しく再生したばかりのクリスチャンは、心(heart)の中に信仰によってキリストを得て、思い(mind)の中に理解を得ています。より確立したクリスチャンには、聖霊の照明の働きが、クリスチャンとしての成熟ときよさを目指して信仰と聖書の理解を建て上げます。改革派の間での照明の教理は、聖書を、選民が永遠のいのちに招かれているという救いに至る方法で理解することは、聖霊の働きによると考えます。正しく言えば、照明は啓示ではありません。照明の教理は、聖霊がいかにして聖書をクリスチャンの心に適用させるか、ということを説明しようとするものです。すなわち、罪の確信、悔い改め、信仰、そして新しい従順の心を起こすのが照明なのです。聖霊の内的証明は、クリスチャン生活において非常に重要な面です。例えば、神のことばに照らし合わせてもわかるように、私たちには、神への信頼を励ます神の聖霊による確信、神の家族に養子として迎えられたこと、そしてキリストにあって神の御前に大胆かつ自由に近づくことのできる特権が与えられています。照明の教理は、霊感によって聖書を与えてくださった同じ聖霊に、私たちの心を照らし、みことばと神ご自身を知るようにしてくださるよう、私たちは祈ることができること、そして祈らなければならないことを示しています。聖霊の助けによって、神をこのように知らなければなりません。つまり、私たちの忠実な神として、救い主として、アバ父として、私たちの王、主として、すべての喜びの源であり根拠であるお方として知らなければならないのです。そして、私たちが天にある神の民とともに、より偉大で完全な礼拝を神に捧げることを求め願うあいだ、今の人生においては、神のために心と思いを訓練し、導き、治めるために十分で権威ある聖書が与えられているのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

トッド・M・レスター
トッド・M・レスター
トッド・M・レスター博士は、Westminster Theological Seminaryの教会史の准教授を務める。ペトルス・ファン・マストリヒト著『Theoretical-Practical Theology』の翻訳者。