ウェストミンスター信仰告白に要約された神の摂理
2023年02月14日(木)
罪に死んで、義に生きる
2023年02月17日(木)
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神の摂理を私たちの人生に適用する

編集者注:これはテーブルトーク誌の「摂理」というシリーズの第四章の記事です。

摂理の教理ほど実用的な教理はありません。なぜなら、摂理の教理は信仰と敬虔な恐れの両方を生じさせるからです。不安への対処法をキリストが教えてくださる時、キリストは、父なる神が小鳥一羽一羽を養い、花を一輪一輪、それぞれの美しい色で着飾るということを私たちに思い出させます(マタ6:25-30)。それならばなおのこと、私たちは「神はご自身の、愛する子供たちを顧みてくださる」と神を信頼するべきでしょう。認める、認めないに関わらず、全ての人はいつも生ける神の御前で生きているのです。 B・B・ウォーフィールドが書いたように、神の摂理を自覚していればいるほど、信者は「どこででも、神の力強い足跡(そくせき)を見つける時、神の力強い腕の働き、つまり神の力強い心の鼓動を感じる」のです。

神はすべてを支配しておられます。神の道の深さを極めることはできませんが、それでも私たちは「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至る」(ロマ11:36)と肯定することができます。理由がわからない事柄はたくさんありますが、私たちはそれを定められた方を知っています。オバデア・セジウィックは「世を造られた方ほど世を治めるのにふさわしい方はおられない」と記しました。神の完璧な知恵、聖さ、正義、力、愛、そして善性は揺らぐことがないのです。

ですから、私たちは、風と波がさかまく船の上でも落ち着いていられた一人の子供のようになることができます。荒れ狂う嵐の中でも平静を保てるのはなぜかと聞かれた時、その子供はこう答えました。「私の父が船長だからです。」教会はなおさら、「神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ 海のただ中に移るとも。」(詩46:1-2)と歌うことができます。

神の摂理はさまざまな形で信者に益をもたらします。ここでは五つ取り上げてみましょう。

父として主権を行使する神に信頼する

第一に、神中心のキリスト教世界観は、私たちの父が御霊により、御子を通してすべてを支配しておられるという信頼を確立させます。ハイデルベルグ信仰問答にはこうあります。

天と地とその中にある全てのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、私たちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神また私の父であられる、ということです。私はこの方により頼んでいますので、このかたが体と魂に必要なものすべてを私に備えてくださること、またたとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでおられるからです。(問答26 以下新教新書252吉田隆訳ハイデルベルグ信仰問答より

摂理の教理と、「神の子とされる(adoption)」という教理は、共に働いて、神の子たちを素晴らしい安らぎで支えるのです。主権者なる神は、イエス・キリストにあって、愛にあふれる彼らの父です。それゆえ人生の全てにおいて神から「あわれみをこうむり、守られ、備えられ、親から受けるように神から懲らしめられ、しかし決して捨てられず」にあるのです。(ウエストミンスター信仰告白12章1項 以下、新教新書240日本基督改革派教会大会出版委員会編ウェストミンスター信仰基準より)ジョン・コットンが主張したようにです。「あなたは人に過ぎないのに、天と地の神である神が、あなたの父と呼ばれるのは、つまらないことだろうか。」私たちの父として神は必ず「この世においては子供たちとして養い、次の世においては相続人として養う」でしょう。「神はわたしたちを育み」、「私たちに相続分を与えてくださった」からです。

私たちは危険な世界に生きています。疫病、災害、戦争は日々多くの人を永遠へとさらって行きます。悪者たちは敬虔な者、無辜(むこ)の人々を苦しめ、虐げます。私たちの目に見えないところで、サタンとその軍勢は、吼え猛るライオンのように、人々を喰らい尽くし、破滅へと引きずり込もうとしています(Ⅰペテ5:8)。罪の欺きとその情欲は私たちの心の中で猛威を振るっており、私たちは自分自身から守られなくてはなりません。現実に目を向ける時、このような危険な世界で、賢く、慎重に生きることが、私たちに求められているのです。

しかし、クリスチャンは恐れや不安を抱えて生きる必要はありません。ローマ人への手紙8章28節の約束にすがることができます。「神を愛する人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」トーマス・ワトソンは、「子に対する様々な神の取り扱いは、すべて特別な摂理によって神の子らの善となる。『の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。』(詩25:10)」と書きました。「すべてのことが善のために働く最大の理由は、神がその民に対して抱いている身近で親密な関心です。主は彼らと契約を結ばれたのです。『彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。』(エレ32:38)」

神の摂理は、神の契約の民を慰めます。セジウィックはこう言いました。

 善い人は、自分にとって良いものを欠かしたことはない。私はある良いもの(a thing which is good)を欠いているかもしれないが、私のために良いもの(which is good for me)を欠いてはいない。「(主は)誠実に歩む者に良いものを拒まれません。」(詩84:11)

神は教会の上に特別な摂理を持って臨まれます。なぜなら私たちは、の瞳、羊、乳飲み子、宝だからです。(ゼカ2:8, イザ40:11 ,49:15, マラ3:17)ご自分の民に対するの配慮はすべてにおいて、恵み深く、優しく、不思議で、輝かしく、的確で、しばしば格別なのです。

神の摂理に対する信仰は、神に仕えるクリスチャンを支えます。それはサタンのあらゆる攻撃に対する盾となるのです(エペ6:16)。ウォーフィールドは、「神の普遍的な摂理に対する堅い信仰は、この世のすべての悩みを解決するものである。」と言っています。信仰の強い者は、恐怖に身がすくんだり、不安に駆られたりするのではなく、神の摂理という安定した大地に立ち、その主人の意志にしっかりと服し、それに従い前進するのです。

子供のような信仰の祈り

第二に、神の摂理を信じる者たちは、彼らの備えの神が、祈りを命じ、彼らの祈りを聞き、それに応えてくださることを知っていて、信じている、祈りの人々です。

ジョン・カルヴァンは言いました。

 全ての人が敬い、崇めるべきお方がおられると信じるだけでは不十分である。その方があらゆる善の源泉であり、その方以外の何者からも、何一つ求めてはならないことも信じなければいけない、、、この方から湧き出ず、この方がその源ではない知恵、光、義、力、正しさ、またまことの真理は一雫もない。

祈りは、子供のような信仰の叫びです。私たちの主が教えてくださったように「天に在ます我らの父よ、、、日用の糧を今日も与えたまえ」(マタ6:9-11 文語訳)と祈るとき、私たちは神が「良きもの全ての唯一の源であられること」を認めているのです。また神の祝福無しには「わたしたちの心配りや労働」を持ってしても私たちの必要なもの、欲しいものを手に入れることがでない事を認めているのです。それゆえ、わたしたちは「自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り」ただ神にのみ置くのです。(ハイデルベルグ信仰問答125)

あらゆる必要、あらゆる弱さ、あらゆる思い煩いを主のもとへ持って来るようにと主は私たちに教えておられます。主が私たちを養う方であることを知っている私たちは、食べる物も飲む物も、健康も、着る物も、家族内での良好な人間関係も、与えられた職責を全うすることも、教会が聖霊の力で満たされることも、そして国家の平穏も全て主に求めなければなりません。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテ5:7)。

神の摂理を知ることは、祈りに不可欠な謙遜さを育みます。聖書は、私たちがどんなに一生懸命働いても、神の御手から与えられない限り、何も得ることはできないと教えています(詩104:28, ヨハ3:27)。実際、私たちは主の助けなしには、指を動かすことも、目を瞬かせることも、考えを巡らせることもできないのです。私たちは、最高の技術を身につけ、目を見張るような経験を修め、推薦の言葉を受けているかもしれませんが、「あなたに富を築き上げる力を与える」のは主なのです(申8:18)。力があっても、技術があっても、一日中働いていても、目標を達成することはできません。「が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。 が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい」(詩127:1)のです。

ですから、私たちは神だけを信頼し、すべての良いものを神から求めなければなりません。わたしたちは常に神に依存しているという自覚を真に持つことができたら、どれほど良いでしょう。多くの人々は、毎日仕事に行き、食料品を買い、薬を飲み、請求書の支払いをし、楽しみを享受しますが、神のことは考えず、すべてが神の御心に依存しているという事実も考えません。彼らの心は高慢になり、主を忘れ、「私の力、私の手の力がこの富を築き上げたのだ」(申8:17)と言うのです。祈りの欠如は、霊的に死んでいることの決定的な証です。しかし、神の子の心のうちでは、人を神の子とする霊が「アバ、父よ」(ガラ4:6)と叫んでいるのです。神の子は御霊に与えられた直感によって、悪からの救いと善の享受はすべて父から来ることを知っています。それゆえ、神の子は祈るのです。では、あなたはどうですか?あなたは祈っていますか?あなたの祈りは、すべての善の源である神を心から求めていますか?あなたは本当に摂理を働かせる神を信じていますか?

逆境における忍耐

ハイデルベルグ信仰問答は、神の摂理を知っていることの益をさらに三つ挙げます。

わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないで働くことも動かされることもできないからです。(問答28)

すなわち、第三の益は逆境における忍耐力です。私たちは逆境に直面すると、自己中心的な恨みに沈んだり、しょげたりするのが普通です。しかし、クリスチャンは、状況が激動し、苦痛を伴うときでも、神の摂理を信じることによって、内なる静けさを養わなければなりません。ダビデは「私は黙し口を開きません。あなたがそうなさったからです。」(詩39:9)と言いました。悲しみのうちにある敬虔な静けさは心を頑なにし、感情を封印することではなく、嵐の中にあって神にしがみつくことから生まれるのです。

逆境におけるクリスチャンの忍耐(longsuffering)は神の御霊の超自然的な実です。(ガラ5:22)信じない者は変えられない状況に悲観し諦めるかもしれません。しかし信者は信仰を持って忍耐します。信者は愛と信実に満ちた神の御手によって、最大の悪が彼らの益となり、彼らのために働くと信じているのです。神がわたしたちを恵み、祈りに答えてくださるので、私たちは「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられます」。(コロ1:11)御霊により、キリストの弟子は喜んで十字架を負うのです。(ルカ9:23)

神の摂理を信じる者は苦難の裏にある神の目的に安らぎます。悲しみと試練の経験を通してその子らを聖くする、という神の意図を彼らは理解し、認めているのです。(箴3:11-12, ヘブ12:5-11)彼らは「苦しみにあう前には私は迷い出ていました。 しかし今は あなたのみことばを守ります、、、苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」(詩119:67, 71)と言うのです。今ここで幸福を与えられていなくても、神は信仰と畏れに値する方であることを示すことによって、彼らは、どのようにしてかわからなくても、神が彼らの困難を通してご自身の栄光を現すことを信じるのです。(ヨブ1:1, 8-11,  20-21)。彼らはキリストと結ばれ、交わり(union and communion with Christ)、いつの日かキリストと共に栄光のうちに世を治める(ロマ8:17)ことを知っているので、キリストと共に苦しむことを喜びます。彼らは、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないで、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けよう」と決意しているのです。(ヘブ12:1-2)

神の目的に関するクリスチャンの希望は、神が本当にすべてのことを支配しているという信仰に基づいています。ヨハネス・ヴァンダーケンプは、「もし一切のことを支配する方が、全てのことを指示していないのなら、善人はどうして、すべての苦難の中で自分を静め、慰めることができようか。彼らの状況は悪人の状況よりも悪いではないか。」と言いました。

信者が通る最も辛い試練は、霊的暗闇でしょう。ウェストミンスター信仰告白18章4項には、時として「神がみ顔の光をかくされて、神を恐れるものさえも闇の中を歩き、光を持たないままにしておかれること」によって「まことの信者も、自分の救いの確信を、、、動揺させ、減らし、中断させ(られ)ることがある」とあります。(イザ50:10)アントニー・バージェスは、神が一時的に信者の喜びと神の愛の確信を取り上げることがあると説明します。それは神の愛する子が罪の苦さを味わい、罪をより憎み、謙遜において成長し、喜びと平安を当たり前だと思わず、むしろ宝のように大切にし、神に従うことで神を崇め、隣人を慰めるために、あわれみ深くなるためです。

暗闇の中を歩む聖徒つまりクリスチャンは、暗闇の霊的益を見極められても、見極められなくても、自分の主権者なる神はいつもご自身の栄光とその選びの民の益のために働かれることに安らぐことがができます。ウィリアム・ガーナルは「キリスト者は自らを隠される神に信頼しなければならない(”The Christian must trust in a withdrawing God.”)」と言いました。

親愛なる信者の皆さん。人生のすべてがいつも「自分の思い通りになる」としたら、どうなるでしょうか? 決して悩んだこともない、逆境に直面したこともない、そんな人生を想像してみてください。あなたはどんな人になっているでしょうか。私は自分がどうなっていたか、わかります。甘やかされ、未熟で、自己中心的で、プライドの高い、自分しか信じない罪人になっていたことでしょう。私の肉はそれを認めたくありませんが、天の父が私を自分自身から解放し、御子にますます似せるために、これまでに送ってくださったあらゆる苦難が必要だったことを心の底から知っています。逆境がなければ、私は罪を憎み、キリストを愛し、聖さを追い求める者にはならなかったでしょう。私は今のようなクリスチャンにはならなかったでしょう。皆さんも私と同じではないでしょうか。

全ての苦難において、そして苦難を脱した後は特に(ヘブ12:11)、私たちの悲しみの苦味より、神の良い目的の甘さがはるかに勝ると分かるでしょう。愛に満ちた私たちの父は、愛する子らの涙を一粒も無駄にしません(詩56:8)。サミュエル・ラザフォードは、「苦難の貯蔵庫にいるとき、私は主の最も上質なワインを探す」と言いました。

順境における感謝

摂理の第四の益は、順境における感謝です。逆境において忍耐するのが難しいのと同じくらい、順境において感謝することもまた難しい時があります。しかし、私たちは逆境を実際にそして頻繁に経験し、時には圧倒されますが、私たちは神の良い創造の中に身を置いており、それは「感謝して受ける」べきものです(Ⅰテモ4:4)。神はすべての物を楽しむために、豊かに与えてくださる(6:17)のです。私たちは良い贈り物に欠けることはなく、それゆえ、摂理を働かせる神を賛美する理由に欠けることはありません(エペ5:20)。ウィルヘルムス・ア・ブラッケルは、「神の摂理を正しく用いることは、あなたに格別の感謝を与え、あなたが魂と肉体のために受けることができるすべての善の唯一の与え主である主に達することを教える」と言いました。

感謝は、神を敬うことに不可欠です。感謝がなければ、神の御心に従うことはできません。「すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサ5:18)カルヴァンはこう述べました。

神の恩恵を知ることが引き起こす、神への愛に結びついた畏れを「敬虔」と呼ぶ。なぜなら、人は、自分のすべてが神に負っていること、神の父としての配慮によって養われていること、神がすべての善の創造者であること、神のほかに何も求めるべきではないことを認識しない限り、神に喜んで奉仕することはできないからである。

逆境も順境もどちらも危険があります。「貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で、 私を養ってください。私が満腹してあなたを否み、 「とはだれだ」と言わないように。 また、私が貧しくなって盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないように。」(箴30:8-9)逆境にも順境にも付随する義務があります。「あなたがたの中に苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい。喜んでいる人がいれば、その人は賛美しなさい。」(ヤコ5:13)

感謝の真髄は、神からの良い贈り物ではなく、神ご自身の良さに感謝する信仰です。クリスチャンは、神の贈り物よりも神を愛し、日々の憐れみに感謝しながら、主を自分の受ける分とします(哀3:22-24)。クリスチャンは「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。    」(詩68:19)と歌うのです。

人は自分が受け取った良いものをほとんど感謝しません。当たり前だ、と自分を欺き惑わすからです。ヤコブの教訓を学んだ人は多くありません。「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。」(創32:10)事実、私たちは神の怒りの炎の中で苦しめられ、一滴の水さえも与えられないに値するのです(ルカ16:24-25)。

開胸手術を終えた父を見舞った時、父は感謝のあまり泣いていました。なぜ、そんなに感謝するのかと尋ねると、彼はこう言いました。「看護師さんが来て、私の唇を氷で湿らせてくれたんだ。地獄で舌を冷やす水が一滴もなかった金持ちのことを考えずにはいられなかった。私は彼と同じ報いに値する。」

あなたは、一つの氷に心から感謝したことがありますか?神から、そしてお互いから与えられるほんの小さな親切に、心から感謝できるように、神があなたも私も助けてくださいますように。

未知なる未来に関する良い期待

最後に、摂理は私たちクリスチャンに、未知なる未来に関して、神への確かな信頼を与えてくれます。従って、クリスチャンは永遠の視点を持った、際限ない楽観主義者(eternal optimists)であるべきです。ハイデルベルグ信仰問答28答は摂理の教理は「わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ」るように私たちを励まします。オランダ語を(英語に)直訳すると「良い期待を持つ(een goed toevoorzicht hebben – have a good expectation)」です。神の子である皆さん、あなたの将来に関する良い期待を持っていますか。私たちの父の手が世界を支配しているのです。私たちの父なる神の計画が成るのを止められる存在はいません(ダニエル4:35)。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」(Ⅰテサ5:9)。あなたは御父と御子の手のうちにあります。これ以上安全な場所はこの世に存在しないのです(ヨハネ10:28-29)。

神はすべてのものを支配しておられるので、私たちは、いつの日か無事に永遠の相続地に到達することを、今、喜ぶことができます。パウロは言います。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ロマ8:31-32)パウロは摂理の確かな結果に酔いしれます。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(38-39節)

摂理の教理は、その逆もまた真なりということを意味しています。もし神があなたに敵対するなら、誰があなたを助けることができるでしょうか。もしあなたが罪の中にとどまり続け、失意のうちに信じることを放棄し、神の御子を受け入れることを拒否するなら、すべての創造物の中であなたを神の怒りから守ることができるものはありません。もしあなたが悔い改めない罪人であるなら、あなたは摂理を働かせる神の敵であることを考えなさい。あなたは父としての神の主権を信頼せず、深く神を恨み、自分の想像した神々を拝むことを好んでいます。あなたは祈りの中で神の恵みを求めるのではなく、自分自身を頼りにしていることを誇りに思っています。毎日、神の空気を吸い、神の水を飲んでも、感謝する心がない。もし、あなたが悔い改めないなら、主はあなたからすべての良いものを取り上げ、その主権的な力で永遠にあなたを罰するでしょう。

主はその摂理によって、この邪悪な世界からご自分のもとに民を集めようとしておられます。神の最も驚くべき摂理は、罪人を贖うために御子を遣わされたことです(ガラ4:4-5)。悪人がイエス・キリストを十字架につけたとき、彼らは御子が多くの人の贖いの代価として死ぬという神の主権的計画を成したのです(マコ10:45; 使徒4:27-28)。神はその力によってキリストを死者の中からよみがえらせ、今、キリストは王の王、主の主として神の右に座しています(詩2:6; 110:1)。

今日、神は福音を通して、罪から離れ、キリストを信じ、主の御名を呼び求めるすべての者が救われるように働いておられます(ロマ10:13)。もしかしたら、あなたが回心してキリストに従うように、神が摂理によってこの記事に出会うように取り計らったのではないでしょうか。もし、あなたがまだ罪から救われていないのなら、この言葉を偶然に読んでいるのではないことを自覚してください。神はあなたに語りかけているのです。神の恵みによって、あなたがこれまで頼ってきたものから離れ、生ける神に望みを置きなさい。そして、喜びなさい。神は、ご自分の召しによって回心した者のために、すなわち神を愛する者のために、すべてのことを働かせて益としてくださるからです(ロマ8:28)。栄光への道程のあらゆる苦難の中で、彼らは「私たちは圧倒的な勝利者です」(8:37)と言うことができるのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョエル・R・ビーキ
ジョエル・R・ビーキ
ジョエル・R・ビーキ博士は、Puritan Reformed Theological Seminaryの組織神学・説教学の教授、ミシガン州グランド・ラピッズのHeritage Netherlands Reformed Congregationの牧師、またReformation Heritage Booksの編集責任者でもある。彼の著書は多く『Living for God’s Glory: An Introduction to Calvinism』『Reformed Systematic Theology』などがある。