聖書に啓示された神の摂理
2023年02月10日(木)
神の摂理を私たちの人生に適用する
2023年02月15日(木)
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2023年02月10日(木)
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ウェストミンスター信仰告白に要約された神の摂理

編集者注:これはテーブルトーク誌の「摂理」というシリーズの第三章の記事です。

私たちは時に神のなさることに困惑します。使徒パウロが言うように、神のなさることは計り知り難いものです。(ローマ11:33)神の摂理に信頼し、神の見えざる手を思い起こし、神が私たちの益のために全てを働かせること(8:28)を知って安息するようにと、クリスチャンが互いを励ますのはこのためです。神のなさることが「極めがたい(ロマ11:33 欽定訳では“past finding out”)」時に、摂理に頼るのです。悲劇に見舞われる時。思いがけぬ喜びに驚かされる時。悲しみに溺れそうな時。機会が訪れる時。置かれている状況に追い詰められる時。答えが見つからない時。どうにか。なんとか。私たちはクリスチャンとして、神の摂理の奥底に答えがあることを知っています。

摂理の魅力は、私たちの人生の一瞬一瞬を-良いことも、悪いことも、その間の全てを-万物に及ぶ神の計画の内にはっきりと位置付けるところにあります。私たちは、神が全てを支配している、と自分に言い聞かせるのです。しかし、それでも私たちは、人生の混沌と、神の計画の確実性を結びつけるのに悪戦苦闘します。有限かつ堕落した被造物である私たちは、神がその善良で主権的な意志に従って私たちの手を取り、導き、指示してくださることを、しばしば信頼することができないのです。クリスチャンが長い間、摂理について語ってきた理由の一つは、人生の不確実性の中で私たちの信仰を確かなものにするためなのです。

この記事を執筆していた時、私が教えているReformation Bbile Collegeのキャンパス内を散歩して、午後のカフェラテを買うために購買のコーヒーショップを回ってオフィスに戻りました。コーヒーを待つ間、生徒の一人に彼の人生について尋ねました。私が摂理についての記事を書いていることを彼は知らなかったのですが、彼は神のなさることが分からない時があることを述懐し始めました。その彼が参考になる例えを挙げてくれました。彼は車で移動する時、自分がどこにいるか、どこに向かっているか、どうやって目的地にたどりつくか、常に把握できるようにスマートフォンのマップを起動しておきたいと言いました。そして、マップなしで、友人や家族が曲がる場所を逐一教えてくれながら移動するのは苦痛だと教えてくれました。神の摂理に信頼すべきだとわかってはいるけど、自分の人生の詳しい道筋を記してくれるマップが見たいのです。

ピューリタンのジョン・フラヴェルは、その代表作『摂理の奥義(The Mystery of Providence)』の中で、こう述べています。「人生のあらゆる状況とすべての道のりにおける摂理の働きを思い巡らすことは、困難な時においては殊更に、聖徒の義務である。」フラヴェルはつまり、クリスチャンが人生のあらゆる時点において神の摂理について思い巡らし、神のなさることについてクリスチャンの同胞と語り合うことを奨励しているのです。しかし、「摂理の働き」について有意義に思い巡らすには、摂理という言葉の意味を明確に理解する必要があります。

聖書の教える重要な教理を要約したものとして、ウェストミンスター信仰告白ほど適切な資料はないでしょう。この信仰告白の第5章には、摂理について、教会史上最も正確な定義の一つがあります。この記事の残りの部分では、聖書の摂理に関する教理を詳しく説明する、ウェストミンスター信仰告白の第5章の最初の四つの項目を取り上げることにします。

第5章の冒頭は、摂理を神の被造世界(ウェストミンスター信仰告白4章参照)における神の永遠の聖定(ウェストミンスター信仰告白3章参照)の完遂(the outworking of God’s eternal degree)と関連づけます。

万物の偉大な創造主である神は、全ての被造物、行為、また事物を大小もらさず、最も賢い、きよい摂理によって、無謬の予知と、ご自身のみ旨の自由不変のご計画に従って、その知恵と力と義と善とあわれみのご栄光の賛美へと、保持し、指導し、処理し、統治される。(ウェストミンスター信仰告白5章1項 以下、新教新書240日本基督改革派教会大会出版委員会編ウェストミンスター信仰基準より)

ウェストミンスター信仰告白の優れた解説書である「私たちの告白する真理(Truths We Confess)」の中でR・C・スプロール博士はこの項を「改革神学の比類なき要約」と呼びました。まず初めに、ウェストミンスター信仰告白が摂理を神の創造の働きと関連づけていることに注目しましょう。創造主なる神が万物を造った故に、創造主なる神こそが万物を支配するのです。神は無関係でいるのでも、無関心なのでもありません。神は、お造りになったこの世界に積極的に関与され、大小すべてのものを神の主権的な計画に従って導いておられます。神はあなたの人生の出来事に無関心なわけではありません。あなたの苦しみに驚いたり、不意を突かれたりすることはないのです。銀河を造った神は、あなたの頭の毛、あなたの心にある恐れ、あなたの人生の出来事、あなたの未来の詳細を知っています(マタイ6:25-34; 10:26-33に書いてあることを思い巡らしてください。)

聖書には、神が被造物を支え、導き、取り扱い、治めていることを証する箇所がたくさんあります。少しだけ例を挙げてみましょう。詩篇135篇6節は神の摂理が被造世界の隅々にまで及んでいることを教えてくれます。「は望むところをことごとく行われる。天と地で海とすべての深淵で。」箴言15章3節は「の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている」ことを思い出させてくれます。ダニエル書21-22節は「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立てる。知恵を授けて賢者とし、知識を授けて悟りのある者とされる。神は、深遠なこと、隠されていることを明らかにし、闇の中に何があるかを知り、ご自分の内に光を宿される。」と説明します。使徒の働き17章24-28節は「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、、、すべての人に、いのちと息と万物を与えておられ、、、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました、、、『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。」と宣言します。ヘブル人への手紙1章3節は三位一体の第二格である御子が「その力あるみことばによって万物を保っておられます。」と述べています。聖書の多種多様な証言は神が天地万物を支配しておられることを明らかにしています。トーマス・ワトソンが言うように、「神は家を建ててから立ち去る工匠ではなく、全被造世界という船を、水先案内人として舵取りするのです」。

ウェストミンスター信仰告白は摂理を創造の業だけでなく、「(神の)み旨の自由不変のご計画(the free and immutable counsel of God’s own will)」と関連付けます。創造と摂理は、世界に関する神の完全な計画の展開であると言えます。別の言い方をするなら、神は創造と摂理の働きを通して、ご自身の永遠の聖なる定めを遂行されるのです。しかし、神の聖定とは何でしょうか。ウェストミンスター小教理問答に簡明な答えがあります。「神の聖定とは、神の御意志の熟慮による永遠の決意(purpose・目的)です。これによって神は、御自身の栄光のために、すべての出来事をあらかじめ定めておられるのです。」(問七)さらに簡単に言うなら、あなたの人生に起こることは、すべて神の無限の知恵によるものなのです。詩篇の作者が言うように、「よあなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。」(詩篇104:24)

神の目的(purpose)の詳細は見えないかもしれませんが、起こるすべてのことは私たちの人生に関する神の良き賢い計画に起因するという事実に、慰めを得ることができることを、摂理の教理は思い出させてくれます。「神に信頼せよ」と私たちを励ます箴言の多くは、この大切な真理に裏打ちされています。私たちは、自分の悟りに頼るのではなく、に拠り頼みます。主が私たちの道をまっすぐにされるからです。(箴言3:5−6)が私たちの歩みを確かにされるのです。(16:9)の計画(purpose)は永遠に成るのです。(19:21)私の家庭内でこれらの真理がしっかり根付くように、夫婦で実践していることの一つは、神の知恵を信頼し、神が与えてくださるもので満足し、神が私たちに求めておられることを毎日忠実に行うよう、互いに励まし合うことです。私たちが神のうちに安らぐのは、神の摂理の及ばない事柄は何一つないと知っているからです。スプロール博士がよく言っていたように、「独立独行な分子(Maverick Molecule)」は存在しないのです。すべては神のみこころと神の栄光のために実現するのです。

 次の項でウェストミンスター信仰告白は、第一原因と第二原因という、難しいけれども、重要な区別を導入します。

第一原因である神の予知と聖定との関連においては、万物は不変的かつ無謬的に起こってくる。しかし、同一の摂理によって、神はそれらが第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、または偶然に起こってくるように定められた。(ウェストミンスター信仰告白5章2項)

Although, in relation to the foreknowledge and decree of God, the first Cause, all things come to pass immutably, and infallibly; yet, by the same providence, he ordereth them to fall out, according to the nature of second causes, either necessarily, freely, or contingently. (WCF 5.2)

以前の章で、ウェストミンスターに集まった聖者たち(Westminster Divines -17世紀において、神学者たちはこう呼ばれていました)は同じことを指摘しました。

神は、全くの永遠から、ご自身のみ旨の最も賢くきよい計画によって、起こりくることは何事であれ、自由にしかも不変的に定められたが、それによって、神が罪の作者とならず、また被造物の意志に暴力が加えられることなく、また第二原因の自由や偶然性が奪いさられないで、むしろ確立されるように、定められたのである。(ウェストミンスター信仰告白3章1項)

 この二つの宣言は、告白全体の中でも最も、緊密な表現で書かれ、かつ神学的重みのある箇所です。神の摂理こそが、神が万物に関してあらかじめ定められた計画の執行と継続した展開の源泉であることを私たちはすでに見てきました。神が被造世界を統治することについて考えるとき、神の摂理とは、神が世界から距離を置く、あるいは反対に、神は人間をロボットのように扱うことを意味する、などという考えは全く否定しなくてはなりません。私たちクリスチャンは、理神論と運命論の両方を否定しなければなりません。なぜなら、どちらも神と世界の関係を歪めるからです。理神論の神は何にも関与しません。運命論の神はすべてのことを自らします。このどちらも認められないのです。

ウェストミンスター信仰告白は、起こるすべてのことの第一原因は神であると宣言し、第二原因の正当性を主張することで、神の主権と人間の自由の合致(concursus)を認めています。つまり、神は被造物やその他の因子の自由な決断を通して、ご自身の目的を果たされるのです。ヨセフが自分を奴隷として売った兄たちに言った通りです。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(創世記50:20)。ヨセフの兄たちは弟に対して陰謀を企て、ヨセフの死について父に嘘をつき、罪を犯しました。(創世記37章参照)しかし、神はこれらの出来事を通して、アブラハム、イサク、ヤコブへの約束を果たされたのです(創世記50:24)同様に、出エジプト記にある、パロがイスラエルに対してとった行動を読むと、パロは心を頑なにして、イスラエルを奴隷の身から解放することを拒んだことがわかります。(例:出エジプト記8:37)しかし、パロの行動は、神がパロの心を頑なにした結果だとも繰り返し述べられています。(例:出エジプト記9:12)これらの聖書箇所は神の意志と人間の意志が共に働く(co-work)、あるいは収束(converge)することを描いています。

ゲルハルダス・ヴォスは合致の原理(the principle of concursus)をこう説明しています。

すべての人は、自分の人生の歩みを振り返るだけで、それを支配していたのは神の手であったことがわかるはずである。この点で、神の共働(co-working)を信じることは、私たちの存在が神に依ることと最も密接に関連している。神は私たちの自由な行動さえも導いているのであり、その方法が私たちの理解をはるかに超えたものであっても、ともかく、それは共働、すなわち合致でなければならないのである。私たちの自由が維持されるためには、物質も運命も偶然も、神の共働以外は、私たちに影響を及ぼしえないのである(詩104:4, 箴言16:1, 21:1)。

神が万物の第一かつ究極の原因です。しかしウェストミンスター信仰告白による聖書の要約によれば、この文言は自然の法則や人間の自由な行動を否定しないのです。神の摂理の不思議において、神は主権者であるご自身の目的を、日常的な普通の手段を用いて達成されるのです。J・グレシャム・メイチェン(J. Gresham Machen)は万物の第一原因である神と、重力や私たちの決断といった第二原因の関係性をはっきりさせます。「神は、ご自分の永遠の目的に沿ったことを成し遂げるために、第二原因を利用される。第二原因とは、神がその協力を必要とする独立した勢力ではなく、神がご自分の意志に即して用いる手段である。」メイチェンはこのことを説明するために、あるたとえを用いました。

あなたがガラス板に弾丸の穴を発見したとしましょう。あなたは当然、その穴は銃弾がガラスを通過したためにできたものであり、銃を発射したためにできたものであり、引き金が引かれためにできたものであり、人が銃を持ったためにできたものだと結論づけるでしょう。クリスチャンとして、私たちは、神がすべてのものに関して主権者であることを肯定します。神がすべてのことを定めるのだから、これらの出来事の第一の原因は神です。しかし、私たちは、神が引き金を引いたとは言いません。また、ガラスが割れたのも神のせいだとは言いません。メイチェンは、銃弾によるガラスの破損は、銃を撃った者に責任があると主張します。神の摂理は、個人の責任を無効にするものではないのです。

ウェストミンスター信仰告白は、神が主権者であり、かつ私たちは責任能力のある、倫理的存在であるということをはっきりさせるために、合致の原理を発展させます。神が、起こるすべてのことの第一原因であるので、神の予め定められた計画に従って「万物は不変的かつ無謬的に起ってくる(all things come to pass immutably and infallibly)」のです。世界に関する神の永遠の計画は変わることなく、誤ることもないのです。しかし、神は歴史の出来事が、「第二原因の性質に従い、あるいは必然的に、あるいは自由に、または偶然に起こってくるように定められた。」(ウェストミンスター信仰告白5章2項)のです。

ウェストミンスターの神学者たち(the Westminster divines)が必然、自由、偶然という三種の第二原因を明らかにしていることに注目しましょう。私たちの立場からすると、必然的原因とは、私たちが日々を過ごすために必要なものです。例えば、創世記8章22節には、「この地が続くかぎり、 種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」とあります。私たちが生活のリズムを享受するためには、年間を通して正常な季節の巡りが必要です。エレミヤ書31章35節にあるように、主は太陽を「昼の光のために」、月と星を「夜の光のために」与えておられます。神は被造物を全く必要とされません。しかし、私たちが主の用意した昼と夜を経験できるように、私たちが太陽や月、星を必要とする世界を、主はその知恵に従って構築されたのです。(詩90:12参照)。

次に、ウェストミンスター信仰告白は自由意志について言及します。神が造られたものはすべて、その性質に従って動きます。神は、被造物である私たちを、私たちの考え、思い、感情、言葉、行い、行動などのすべてに責任を持つ、倫理的主体であるように設計し、創造されました。私たちは自分の行動に関して神に申し開きをしなければなりません。ウェストミンスター信仰告白は神がエデンの園でアダムとエバを創造された時、彼らを「変化しうる自分自身の意志の自由に委ねられて、違反する可能性のある者として創造された。」(ウェストミンスター信仰告白4章2項。3章1項、9章1-5項参照)と述べます。これはつまり、エバが禁断の果実を食べたのは、自分の意志でそうした、と言うことを意味します。創世記3章6節が記している行動に注目してください。女は善悪の知識の木の実が食べるのに良さそうだと見ました。彼女は目にしたものを慕いました。その木が与えると約束していた知恵を欲しました。その実を取り、食べ、一緒にいた夫に与えました。この行動の結果、彼らは呪われました。(創世記3章参照)古代のコヘレトの言葉を借りるなら「神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということ」です(伝道者の書7章29節)。私たちには理解しがたいことですが、神は私たちの有限な人生を定めながら、決して私たちの自発的な行動を損ねることはないのです(使徒の働き2:22-24を注意深く読んで、神の確かな計画とイエスを十字架につけた者たちの無法な行いが合致していることに注目してください。)

第三に、神の摂理は偶発的な第二原因を排除しません。人間の主体性の観点からすると、偶発的な原因とは、何か他のものに依存して発生するものです。偶発的な原因とは、しばしば「もし〜なら、〜だ (if-then)」と言った形で現れます。聖書はいくつかの例を示しています。出エジプト記21章13節と申命記19章5節では、イスラエル人が意図せずに人を殺してしまった場合、神はその人が逃れる場所を指定されました。列王記第一22章13-36節では、預言者ミカヤが神の代弁者としての正当性を示すために、アハブの死について警告しています。もしイスラエルの王が戦いで死んだら、彼、ミカヤが真の預言者であることが証明されるのです。しかし、ミカヤが説明するように、もしアハブが無事に帰ってくるなら、「は私によって語られなかった」(28節)のです。ミカヤの預言者としての正当性は、アハブが戦場から生きて帰ってくるか死んで帰ってくるかにかかっているのです。

第一原因と第二原因の関係を論じるとき、私たちは、神が自然法則と人間の活動を織り込んで万物を定め、支配していることを肯定しているのです。神の主権は第二原因を損なうのではなく、確立するのです。神の永遠の目的は、歴史の中で、摂理に従って成し遂げられるのです。神は万物の第一原因として、季節の規則的な周期、帝国の興亡、市場の浮き沈み、有限で倫理的責任能力と決断力のある罪深い人々の日々の営みを通して、賢明かつ意図的にご自分の主権的意志を達成されるのです。(例としてイザヤ書10章5-19節、特に6-7節参照)。

ウェストミンスター信仰告白の第5章の次の2つの項は、神の摂理について二つの重要な但し書きを書いています。一つ目は奇跡についてです。「神は、通常の摂理においては、手段を用いられる。けれども、ご自身がよしとされる場合には、手段を用いないで、それを越え、またそれに反して、自由に行動される。」(ウェストミンスター信仰告白5章3項)神が創造された世界は、神の介入から閉ざされていないのです。通常、神はその神聖な目的を達成するために、自然法則などの二次的な手段を用います。しかし、神はご自分の摂理をこれらの手段に限定する義務はありません。紅海(訳注:葦の海)の水を分け、病人を癒し、悪霊を追い出し、死者をよみがえらせて、民を救済する神の力を示すと決めるかもしれないからです。これらの超自然的な活動は、神が通常の手段を用いることと矛盾したり、損なったりするものではなく、神の摂理的支配の範囲を拡大するためのものなのです。アーチボルド・アレクサンダー・ホッジが主張するように、「自然の秩序と奇跡は、対立するのではなく、一つの包括的な体系において密接に相関している要素である」のです。神は自らの栄光のために、自然法則、人間の行動、奇跡を用いて、自らの永遠不変の計画を達成されるのです。

神の摂理についてウェストミンスター信仰告白が述べているもう一つの但し書きは、万物に及ぶ神の主権は、神が罪の創造主であることを示唆するものだと絶対に受け取ってはならない、ということです。

神の全能の力、窮めがたい知恵、無限の善は、その摂理の中によく現れ、最初の堕落やその他すべてのみ使と人間たちの一切の罪にまでおよんでおり、しかも単なる許容によるものではなくて、多様な配剤において、神ご自身のきよい目的のための、最も賢い力ある制限や、その他の秩序づけと統治がそれに伴っている。しかもなおその場合の罪性はただ被造物からだけ出て、神から出るのではない。最もきよく正しくいます神は、罪の作者でも是認者でもないし、またありえない。(ウェストミンスター信仰告白5章4項)

この章の中心は、罪深い行いは天使と人間からだけ生じるのであって、神からは生じないという主張です。この点を立証するために、スコットランドの神学者デービッド・ディクソンは、モーセ(申命記32章4節)、ダビデ(詩篇5篇4節)、ダニエル(ダニエル書9章14節)、ハバクク(ハバクク1章13節)、パウロ(ローマ書3章3-5節)、ヤコブ(ヤコブ1章13-18節)とヨハネ(第一ヨハネ1章5節、2章16節)を証人として挙げます。そして、これらの聖書箇所と他のいくつかの聖書箇所に基づいて、神が罪の作者ではないことを示すために、いくつかの論を展開します。

·      神は本質的に、無限に聖であり善であるので、純粋であり、しみや傷がひとつもないお方である。

·      神は絶対的に完璧であるので、その御業において失敗や不足がない。

·      神は世の裁き主であるので、ご自身の聖なる性質と掟に反するすべての罪と不義を禁じ、憎み、罰する方である。

ウェストミンスター信仰告白の摂理に関する章は、私たちに歴史の舞台裏を見せ、神の支配の及ばないものは全くないことを印象づけます。神はすべてのことをご存知であり、神はすべてのことを定められ、キリストにある人々の益と三位一体の御名の栄光のために万物を導かれるのです(エペソ1章3-14節)。

私たちが神の不思議な摂理に押され、戸惑い、傷つき、悲しみ、驚くとき、ウェストミンスターの的確さは、私たちがウィリアム・カウパーとともに歌うことを助けてくれます。

底知れぬ坑道の奥深くで、

決して失敗する事のない業により、

神はその輝かしい計画をたくわえ、

その主権的な意志を成し遂げられる。

そしてそれ以上に、私たちは主権者である神の御前に立ち、使徒パウロと共にこう言うのです。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ書11章36節)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョン・W・トゥイーデール
ジョン・W・トゥイーデール
ジョン・W・トゥイーデール博士は、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeの神学部長兼教授であり、アメリカ長老教会の教職長老。著書に『ジョン・オーウェンとヘブライ人への手紙』。