
ヨハネの手紙第一2章27節
2022年12月08日(木)
ヨハネの黙示録3章20節
2022年12月15日(木)ヨハネの手紙第一4章8節

編集者注:これはテーブルトーク誌の「この聖句って本当はどういう意味?」というシリーズの第十一章の記事です。
使徒ヨハネは、クリスチャンが互いに愛し合うことを、飽きることなく勧めていますが、この箇所は、その中でも最も力強い勧告の一つです。その根拠は、主イエスの戒め(ヨハネ13:34-35など)だけでなく、神の本質、「神は愛である」ということにあります。このように述べることで、ヨハネは、愛が神の本質に属することを教えています。神は偶然的に愛なのではなく、本質的(essentially)かつ必然的(neccesarily)に愛なのです。それ以外であることは不可能なのです。実際、神は愛そのものだと言うことができるでしょう。神ご自身があらゆる愛の事例が湧き出る最初の泉なのです。
しかし、神において、これは神の属性(attributes)すべてに言えることです。神はその全存在において、本質的にかつ必然的にそうあられるのです。それ以外であることは不可能なのです。神が慈愛に満ちておられるように、神は正しく、善く、賢く、慈しみ深いのです。あるいは神の属性を名詞で表すなら、神が愛であるように、神は義であり、善であり、知であり、慈しみなのです。人間や御使いは、愛があるかもしれないし、無いかもしれません。善かもしれないし、悪かもしれません。賢いかもしれないし、愚かかもしれません。慈しみ深いかもしれないし、残酷かもしれません。しかし神はそうではなく、神が必然的に「その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変」(ウエストミンスター小教理問答4問)であるように、神は必然的に愛があるのです。
神学者たちは、神のすべての属性の本質的な統一性(essential unity)を、神の単一性(divine simplicity)という観点から考えてきましたが、その観念自体が単純(simple)だということでは決してありません。ポイントは、この観念が伝わりやすいとか理解しやすいということではなく(何しろ私たちが話題にしているのは神なのですから)、神の属性が互いに異なる部分や神とは別の部分として神の中に宿っているのではないということです。神は別々の異なる構成要素からなる複合的な存在ではありません。三位一体の異なる位格でさえ、唯一の真の神の部分や構成要素として見なされることはありません。各位格は完全に神であり、すべての位格は一つの本質、すなわち複合的ではなく単一的である本質を共有しています。
これらの真理をから離れなければ、神のある属性を他の属性より上位に置いたり、ある属性を他の属性と対立させるような教えによって迷わされることはありません。そのような考えは、聖書の教えを歪め、聖書のある部分を否定し、別の部分を優先させることになります。神の愛は、あたかも愛が神の第一の属性で、他の属性はその下位の属性であるかのように、あるいは神の愛の完全な現れは神の正義の完全な現れを制限したり、妨げさえするかのように、表現されることがあります。極論で言えば、悪人に対する永遠の罰という神の正義は、神の愛と矛盾しているという理由で否定されるかもしれません。しかし、聖書には神の完璧な愛と完璧な正義の両方が明確に教えられているのです。
聖書は、神のさまざまな属性を、すべて神の栄光に属するものとして、美しくまとめます。神がモーセにその栄光を現した時、神はご自分の名前をこう宣言されました。
「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」(出エジ34:6-7)
ここでは神の属性がたくさん挙げられていますが、どれひとつとして、他の属性に比べればより基本的、大切なものとされてはいません。どの一つも他の属性と相反していないのです。揺るぎない愛と誠実の神は、罪を犯した者に怒りをもたらす裁きの神でもあります。神の栄光はそれらすべてを含んでいるのです。この調和は聖書の別の箇所でも見ることができます(イザヤ30:18; ホセア2:19)。
十字架は、神の属性の完全な統一性(unity)を劇的に示しています。ヨハネは、十字架が神の愛の最高の現れであると指摘します。「神はそのひとり子を世に遣わし、 その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。 それによって神の愛が私たちに示されたのです」(一ヨハネ4:9)。しかし、同時に、十字架は神の正義と公正の最高の現れでもあります。なぜなら神はご自分の御子を
「信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。」(ローマ3:25-26)
神が愛であることは、確かに高らかに宣言すべき真理であり、また心の中で大切にすべき真理でもあります。しかし、神のすべての属性についても同じことが言えます。ある属性が他の属性より美しいということはありませんし、ある属性が他の属性より優先されるということもありません。どれも他のものと不和にあるわけではなく、すべてが必要不可欠なものです。神の存在の中には完全な調和があり、神の属性はすべて本質的かつ必然的に神の栄光に属するのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。