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プロテスタントの最大の「異端」とは?

― この記事は3分で読めます

突然ですが、教会史の試験問題を一つ試してみましょう。枢機卿 [訳注:カトリック教会で教皇に次ぐ最高の行政職] ロベルト・ベラルミーノ(1542-1621)は間違いなく教会史における重要人物です。ローマ教皇クレメンス8世の専属神学者であり、16世紀のローマ・カトリック教会における対抗宗教改革運動で最も有能な人物の一人でした。ある時、彼はこう書いています。「プロテスタントの最大の異端は、( )である」 このベラルミーノの言葉を完成させ、説明し、議論しなさい。

あなたなら、どう答えますか?プロテスタントの最大の異端とは、何でしょうか。「信仰による義認」でしょうか。「聖書のみ」の教理でしょうか。もしくは、それ以外の改革派神学の合言葉でしょうか。

どれも納得のいく答えではありますが、ベラルミーノの書いた言葉とは違います。彼はこう書いたのです。「プロテスタントの最大の異端は、[救い]の確信である」と。

少し考えてみれば、その理由がわかるはずです。もし義認が、信仰のみ、キリストのみ、恵みのみによるものでないなら;もし信仰が行いによって完成される必要があるなら;もしキリストの働きが何らかの形で繰り返されるなら;もし恵みが自由かつ主権的なものでないなら;最終的に義と認められるために常に何かが行われ、「加えられる」必要があります。それこそが、問題なのです。もし、最終的な義認が私たちによって完成されることに依存しているなら、私たちは決して救いの確信を享受することはできません。なぜなら、神学的には、最終的な義認は偶発的で不確かなものであり、(ローマ教会も認めているように、特別な啓示を除けば)誰も救いを確信することはできないからです。しかし、キリストがすべてを成し遂げられ、義認が恵みによるものであり、加えるべき行いがないなら、信じて手を広げるだけで、受け取ることができるはずです。そうすることで、すべての信じる者が救いの確信を — それも「完全な確信」を — 得ることができるのです。

ベラルミーノが、完全で自由な恵みは危険だと考えたのも無理はありません。また、宗教改革者たちがヘブル人への手紙を愛読していたのも当然だと言えるでしょう。

このような理由から、ヘブル人への手紙の著者は、キリストの働きについて説明しながら、そのクライマックスで一息つき(ヘブル10:18)、パウロのように「こういうわけで」(ヘブル10:19)と議論を展開しているのです。そして、私たちに「全き信仰をもって…神に近づこうではありませんか」(ヘブル10:22)と勧めています。この「こういうわけで」の論理的な力強さは、手紙全体を読み直さなくともしっかりと伝わります。キリストは私たちの大祭司です。私たちのからだがきよい水で洗われたように、私たちの邪悪な良心もきよくされたのです。

キリストは私たちの罪のために一度だけ犠牲となり、私たちを代表する祭司として、朽ちることのない、いのちの力によってよみがえらされ、その義を立証されました。キリストに対する信仰によって、私たちは、キリストが義であるように、神の御座の前で義とされるのです。それは、私たちがキリストの義によって義と認められたからです。私たちに与えられているのは、キリストによる義認のみです!そして、キリストが天から落ちるなどあり得ないように、私たちもその義を失うことはあり得ません。従って、私たちの義認は、キリストの義認以上に完成させる必要はないのです!

このような観点から、ヘブル人への手紙の著者は「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです」(ヘブル10:14)と書いているのです。私たちが神の御前に完全なる確信をもって立つことができるのは、「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ」たからです(ヘブル10:22)。

枢機卿ベラルミーノが所属したローマ教会は、これに反論しました。「ああ、これを教えれば、それを信じた者は自由と反律法主義に生きることになるだろう」 しかし、ヘブル人への手紙の論理に耳を傾けてみてください。この救いの確信を享受するなら、これら4つのことが実現します。第一に、イエス・キリストのみを希望とする告白を、動揺せず真実に保つこと(23節);第二に、「愛と善行」を促すために互いに注意を払うこと(24節);第三に、他のクリスチャンとの礼拝やあらゆる交わりを続けること(25節a);第四に、キリストを見つめ、キリストに誠実であるように、終わりの日が近づいていることを覚え互いに励まし合うことです(25節b)。

良い木は良い実を結びます。その逆はあり得ません。私たちは行いによって救われるのではなく、行いのために救われるのです。私たちは神の作品であり、良い行いのために造られたのではありませんか(エペソ2:9-10)!ですから、イエス・キリストのただ一度だけの御業、そしてそれが生み出す完全な確信が伴う信仰は、道徳的・霊的に無関心な生活をもたらすのではなく、信じる者に神の栄光と喜びのために生きることへの強い原動力を与えるのです。さらに、この完全な確信は、神ご自身が私たちのためにすべてを成し遂げてくださったという事実に根差しています。神は、キリストのうちに、ご自身の心を私たちに明らかにされました。父なる神は、私たちを愛するためにキリストの死を必要としたのではありません。キリストが死なれたのは、父なる神が私たちを愛しておられるからです(ヨハネ3:16)。父なる神は、御子の背後に潜んで、御子がささげた犠牲の仕返しに私たちに危害を与えたいなど、決して、と千回否定するほど、考えておられません!父なる神ご自身が、御子の愛と聖霊の愛のうちに、私たちを愛しておられるのです。

このような確信を享受する人は、「聖人」や「聖母マリア様」に祈る必要はありません。イエスにのみ目を向けるなら、他の誰にも目を向ける必要はないのです。キリストにあって、私たちは完全なる救いの確信を享受します。これが最大の異端? — もしこれが異端なら、この最も祝福された「異端」を私は楽しみ味わいたいと思います。これは、神ご自身の真理と恵みなのですから!

この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。
シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Reformed Theological Seminaryの組織神学の総長教授。以前はサウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchで主任牧師を務めていた。彼の著書は25冊を超え、『The Whole Christ』、『The Holy Spirit』、『In Christ Alone』、『Devoted to God』などがある。