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ヨハネの福音書の証言
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マルコの福音書の証言
2022年12月27日(木)
ヨハネの福音書の証言
2022年12月30日(木)

ルカの福音書の証言

編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第四章の記事です。

想像してみてください。時は一世紀、あなたはローマ帝国の市民です。多くの人々が「主」と呼ぶ皇帝の支配のもと、平和と繁栄の時代に生きています。あなたは、割礼などの慣習は拒否しながらも、人生の大半においてユダヤ文化の倫理観を尊敬してきました。あなたも今や神を恐れる一市民として、モーセの律法に基づく儀式は採用せずとも、ユダヤ教の一神論を受け入れる異邦人になっているかもしれません。

さて、あなたはたった今、パウロという人から救いの福音を聞いたとします。この使徒は、支配権を持つのは神の御子、キリストであるイエスのみであること、しかし民生権は尊重されなければならないことを告げました。このイエスに従うなら、ユダヤ教の儀式暦、食物法、割礼を行わなくても、ユダヤ人に与えられている約束の完全な相続人になることができるといいます。この良い知らせを聞いて、あなたはイエスに従うようになり、部外者が軽蔑的に「クリスチャン」と呼ぶ宗派の一員となりました。

ギリシャ哲学の影響下にある多くの異邦人たちは、神がナザレのイエスという人にあって肉体をとり、イエスの死後はその方を死者の中からよみがえらせたという話を信じるあなたを笑っています。残念なことに、ユダヤ人の友人たちのほとんどはイエスの御前にひざまづいていません。イスラエルの神は律法のくびきを負っていない異邦人のあなたをもアブラハムの子として受け入れてくださる、ということを、あなたが信じていることに驚く人もいます。さらに悪いことに、パウロとその友人ペテロとヨハネから、クリスチャンと名乗る者はイエスの弟子などではないという知らせが届きます。使徒と自称する人々は、イエスの生涯と宣教について誤ったことを教えているのです。

これらの事態に対し、あなたはどうしますか? 神が本当に受肉されたのか、イエスが本当によみがえられたのか、どうすればわかるでしょうか? 汚れた異邦人であるあなたが、イスラエルの民の物語に加えられるという証拠はありますか? イエスについて真実を語る者と、嘘を語る者を見極めることができますか?

これらの問いかけから、私たちは福音書が書かれた目的について考えるべきです。ましてや、ルカによる福音書はなおさらでしょう。新約聖書全体が常に手元にあった私たちにとって、4つの福音書はその意図と強調点が統一された、いわば一枚岩のようだと感じるかもしれません。確かに、4つの福音書はすべての読者に向けられたものであり、イエスに関する事実を示すことで、私たちがイエスを主なる救い主と信じ従うようになるためのものです。しかし、どの福音書記者も完全に孤立していた人はいません。彼らはそれぞれ、特定の必要を抱える本来の受け手を想定して書いており、それが福音書の中で強調されるエピソードの取捨選択に影響しているのです。各福音書の強調点を理解することで、私たちはキリストというお方とその御業について、一つの福音書から得るより、さらに豊かな洞察を得ることができます。

幸いなことに、ルカの福音書の冒頭には、福音書記者の目的が明言されています。その目的とは、キリストの生涯を順序立てて記すことで、テオフィロという一人の人物に確信を与えることでした(1:1-4)。どうやら、当時は、イエスに関するいくつものうわさ話が語られていたようです。それらはおそらく、イエスの生涯における個々のエピソードの記録でした。ルカは、テオフィロと他の読者たちに、救い主の伝道の歴史をより完全なものとして提供したいと願ったのです。断片的な記録や他の福音書を参考にしたり、目撃者から直接話を聞いたりしながら、ルカは腰を据えて、聖霊の霊感によって、テオフィロの懸念に応えうる文書を作成しました。

私たちの期待通り、父なる神の摂理はルカを特別に整え、救い主の生涯と宣教の記録を順序立てて書かせてくださいました。パウロの旅の最も忠実な同伴者として(二テモテ4:11)、ルカは、パウロ自身からだけでなく、パウロが接触した使徒たちからもイエスに関する多くの情報を得たに違いありません。また、ルカは医者でもあったことがわかっています(コロサイ4:14)。福音書をまとめるために必要な調査や執筆をする上で、彼の教養は貴重な財産であったでしょう。さらに神は、イエスについて懸念を抱いているテオフィロという友人をルカに与え、この友人の疑問に応える必要を示されました。この状況を通して、ルカはテオフィロの懸念を解消するため、そして他の方法では得られない神の目的を読者が垣間見ることができるために、福音書を書く動機を得たのです。

例えば、ルカはイスラエルの神ヤハウェが異邦人にとっても主であること、そして異邦人の窮状を神が深く憂慮しておられることを示しています。マタイ、マルコ、ヨハネもこの点を扱ってはいますが、ルカの福音書では特に顕著です。ルカはキリストについて聞く前にユダヤ教に改宗していたかもしれませんが、彼の福音書のギリシャ語は洗練されており、異邦人の出の者に期待するような文学的な質の高さが見られます。神が異邦人を愛しておられることを示すのに、異邦人の一人に御子の生涯の記録を執筆させる以上の方法があるでしょうか。ルカは、ヤハウェの思いをイエスの系図(ルカ3:23-38)にも組み入れています。この福音書記者はイエスの血統をアダムまでさかのぼり、ユダヤ人のメシアも異邦人であることを明らかにしています(アダムとアブラハムの間の人はすべて異邦人でした)。

第三の福音書記者は、世界史に対しても特別な関心を持ち、父なる神の諸国民に対する愛を示しています。もちろん、4つの福音書、そして聖書に含まれる書物はすべて、歴史的に正確であり、時代ごとの神の働きを記録しています。しかし、ルカの福音書の歴史的構造は、あらゆる国の民を贖おうとする創造主の意図を独特の視点で提示しています。福音書と使徒の働きを含むルカの著作では、世界史における神の御業が三段階で構成されています。ルカの福音書1章1節から3章22節は、イスラエルにおける全能者の御業を強調しています。世界史の第一段階は、神が救い主を誕生させるために聖なる民を備えられたユダヤ民族の時代と言えるでしょう。ルカの福音書3章23節から使徒の働き1章26節は、キリストの地上での宣教の記録です。イエスが罪と死とサタンの力に打ち勝ち、ユダヤ人と異邦人(ポンテオ・ピラトなどの人物)の前で神の栄光を証しした時代、世界史の第二段階です。使徒の働き2章から28章、そしてそれ以後からイエスの再臨(使徒28:28に暗示されている)までのすべての教会史は、すべての民族の救いの時代です。神はこの働きを、聖霊の力を受けた教会を通して成し遂げられます。この人類史の第三段階では、キリストにある神の恵みがあらゆる国々で宣べ伝えられるように聖霊が教会を動かし、その福音はエルサレムから地の果てまで伝えられます。この時代の重要な出来事は、コルネリウスの改宗によって異邦人の間に福音と聖霊の働きが拡大したことです。これは、ユダヤ人ではない者でも「いのちに至る悔い改め」を受けることができるしるしです(10:1-11:18)。

ルカが世界史に特別な関心を持っていることで、読者はキリスト教の真理に対して確信を持つことができます。ルカの福音書や使徒の働きほど、世界史上の人物や出来事への言及が多い聖書の著者は他に見当たりません。イエスが生まれたのはアウグストゥスが皇帝で、キリニウスがローマのシリアの総督であったときだと記されています(ルカ2:1-7)。この記述によって、受肉は現実の空間と時間の中に位置付けられ、この物語が神話であるとか、歴史の範囲外であるという主張が覆されます。同じように、使徒の働き11章27-30節には「クラウディウス帝の時に」起こった大飢饉についての言及もあります。これも、神の働きを現実の歴史の中に位置付け、主が時間の中で御業を行うことを不名誉だとは思われなかったことを示しています。物理的な世界を悪ととらえ、神の関与に値しないとするギリシャ人の思想にとって、神の働きを現実で物理的な歴史に位置付けることは衝撃を与えるものでした。このような記述を通して、主が単に霊的な世界の救済ではなく、物質的な出来事、人物、物の領域をも救済する意図を持っておられることが示されたのです。

ルカの著作に顕著に見られる、ギリシャ人をはじめとする異邦人への配慮は、イスラエルとの契約の外に生き、この世に希望のない人々にとって、まさに良い知らせです。追放された人々でさえ救われるのなら、そこには堕落した被造物への本当の希望があります。ルカの福音書は、追放された人々への神の愛が、異邦人に限らずユダヤ人の中でも追放されたと感じながら生きる人々にも向けられていることを教えています。一世紀の女性たちはユダヤ人社会の中で見下されていました。しかし、キリストは女性に敬意を示し、男性と同じように女性にも進んで教えられました(ルカ10:38-42)。当時、ほとんどのラビは女性を弟子にすることはなかったため、イエスの行動は革命的でした。ルカは、裕福な女性たちがイエスの宣教を経済的に支援したことを伝え(8:1-3)、他の福音書の著者と同様、イエスに最も寄り添うべきときに、男性の弟子たちがすぐさま逃げようとも、彼女らは忠実に従い通したことを記しています(23:44-24:10; マタイ27:45-28:10; マルコ15:33-16:8; ヨハネ19:25-27; 20:1-3も参照)。

義と富が結びつくという考えから、一世紀のユダヤ人社会の多くの面において、貧しい人々は社会から追放されていました。しかし、ルカの福音書はこのような人々に特に注目しています。神は貧しい者に特別に心を注いでおられると、ルカは教えています。マリアとヨセフはこの世のものから見れば貧しく、神殿に山鳩と家鳩しか献げることができませんでした(ルカ2:22-24; レビ5:1-13; 12)。しかし、逆説的に言えば、この夫婦は計り知れないほど豊かだったのです。なぜなら、彼らはメシアを成人まで育てるという使命を担っていたのですから。ルカはまた、キリストを信じる貧しい人、飢えている人にこそ神の国があるという主の教えを記し、困窮している人々に対するイエスの関心を明らかにしています(6:20-21; 12:13-21; 16:19-31)。もちろん、貧しい人が本質的に正しいとか、神の愛を受けるに値するというわけではありません。むしろ、貧しい人々への配慮は、社会から忘れ去られたり見捨てられたりするような人々をこそ、創造主は探し出してくださるということを教えているのです。神の国は強い人のためではなく、へりくだり、弱く、貧しい人のためのものです。なぜなら、彼らには依り頼む物質的な物はなく、自分の弱さを誰よりも知っているからです。救われるには、このような心の貧しさが求められます。物質的に成功しているかどうかは関係ありません。

人間的に言うと、ルカがあえてこのようなイエスの生涯と宣教の側面を記録する必要はなかったのです。他の福音書記者たちのように、ルカには豊富な資料の中から不自由なく他のエピソードを選ぶことができました(ヨハネ21:25)。しかし、聖霊なる神の導きによって、ルカはキリスト教信仰の史実性を示し、異邦人や追放された人々に対する全能者の配慮を強調した福音書を書きました。私たちはこのルカの強調点に感謝すべきです。罪によって、ユダヤ人も異邦人も、私たちはみな神の国から追放されました。ルカの福音書はこのようなすべての人に、神が歴史に介入され、御子を信じる人を永遠に追放することはないという本当の希望を与えてくれるからです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル牧師は、テーブルトーク誌の副編集長、リゴネア・ミニストリーズのシニアライター、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeの非常勤教授を務めている。2021年のテーブルトーク誌のコリント人への手紙第一、第二の日課の学びを執筆。