マタイの福音書の証言
2022年12月23日(木)
ルカの福音書の証言
2022年12月29日(木)
マタイの福音書の証言
2022年12月23日(木)
ルカの福音書の証言
2022年12月29日(木)

マルコの福音書の証言

編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第三章の記事です。

マタイの福音書には、マルコの福音書の内容の97パーセントが含まれています。では、なぜマルコの福音書が存在するのでしょうか? マタイの福音書だけを読めば良いのではないでしょうか? これに対して、二つの相反する学説があります。一つは、マルコの福音書はより長いマタイの福音書を要約して書かれたという説、もう一つは、マタイの福音書はマルコの福音書を拡張して書かれたという説です。しかし、福音書の起源がどのようなものであれ、他の福音書との比較は別にして、マルコの福音書は新約聖書の中で独自の価値を持っていることを評価し損なってはいけません。マルコの福音書は、イエスがメシアとしてご自身の民のための贖いの代価となり、自らをささげる決意とともに必然的に十字架に向かって歩み、その死後、栄光に輝く神の国の王としてよみがえられた姿を、見事に活きいきと臨場感あふれる表現で記しています。非常に重要なこの書物から、特筆すべき箇所をここでみていきましょう。

マルコの福音書は唐突に幕を開け、そして唐突に幕を閉じます。幕開けはまるで、競馬のスタートのようです。そこには、バプテスマのヨハネやイエスの誕生物語もありません。第一節は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあり、題名(タイトル)のようです。そして、旧約聖書の代表的な預言者、イザヤの預言から、先駆者ヨハネについての預言を引用した後(マルコ1:2-3)、ヨハネの生涯と働きについてはごくわずかな概要が知らされるだけです。そして、息をつく間もないままにイエスが登場し、物語の中心がイエスに移ってからも、最後まで駆け足のペースのままで進んでいくのです。

マルコの物語が速いペースで進むのは、筆者が行動に注目しているからです。言葉は滅多に注目されません。比較してみると、例えばマタイの福音書にある長い山上の説教は(マタイ5-7章; ルカ6章; 12-13章も参照)、マルコの福音書ではイエスの教えとして二つの短いセクションがあるだけで(マルコ4, 13章)、あとは短く断片的に全体に散らばっています。マルコの福音書の大部分は、主の行いに焦点を当てているのです。

例として、イエスが誘惑を受けられる場面を比べてみましょう。共観福音書では、より十分な記述がありますが(マタイ4:1-11; ルカ4:1-13)、マルコの福音書ではたった2節しかありません(マルコ1:12-13)。他の福音書(マタイ、ルカ)では、イエスは荒野に「導かれ」たとされ、誘惑そのものが記録されていますが、マルコの福音書では、イエスは荒野に「追いやられ」て野の獣とともにおられた、とあるだけで、誘惑の内容は記録されていません。マルコはイエスの誘惑の事実と、イエスのバプテスマとが、神の民に代わって受けている荒野と野の獣の呪いを受けるという試練の始まりであったこと(参照・マルコ10:39; レビ26:22; エレミヤ12:9; 50:39; エゼキ14:21) 、そしてその結果、私たちは荒野に安心して住まうことができるようになったということに焦点を当てているのです(エゼキ34:25; 黙示12:14-16)。

マルコの文体の迅速さは、あらゆる点で顕著です。短い、アクティブな表現を取り入れているのは、より遠回しな文体を好むギリシャの作家と異なる点です。また、彼は活きいきとした直接的な引用を好んだり、「夕方になり日が沈むと…」(マルコ1:32)や「ダビデ…が食べ物がなくて空腹になったとき」(2:25)というような、独特で冗長な表現を使ったりすることもあります。他には見られないマルコの特徴として、新しい場面に移るときに頻繁に使われている「すぐに」という表現があります。この表現はマルコの福音書に40回以上出てきますが、これはマタイの福音書とルカの福音書での使用回数を合わせた数のほぼ倍の頻度になります。

マルコの福音書を一節一節読んでみると、このような冗長な表現や活きいきとした文体の効果はそれほど感じられません。実はこのことから、重要なポイントが浮かび上がります。古代では、ほとんどの書物は朗読されることが前提であり、聴覚によって体験されるものでした(特に黙示1:3を参照)。識字能力は当時一般的でなく、たとえ自分で読むことができても、読み手が上手に感情表現や身振り手振りを交え、登場人物に合わせて声色を変えてくれるので、そのような工夫に満ちた朗読を聴くことの方が好まれていました。公の場では、悪者の登場にヤジが飛んだり、善良な登場人物に拍手や応援が飛び交ったりすることも珍しくありませんでした。

近年、マルコの福音書の口語的な特徴の研究が多くの実を結んでいます。一つ得られた結論は、マルコの福音書で繰り返される「すぐに」に関するものです。このフレーズは、現代の私たちのようにマルコの福音書を断片的に読むと、一見話の流れを途切れさせるように見えますが、実は聴き手を新しい展開に向かわせ、物語の流れを維持するのに役立つものであることがわかりました。たとえ話を用いられたイエスのように、マルコは卓越した物語の語り手なのです。この体験をしてみたい方は、ぜひマルコの福音書の朗読を聴いてみてください。90分ほどもあれば全部聴くことができます。耳から得る体験は、必ず価値あるものになるでしょう。

マルコの福音書を耳で聴いて、特に際立つ特徴の一つは、章の区切りをまたいだエピソード間の相互関連性です。ここでは、マルコの福音書の大枠を示す、いくつかの中心的なエピソードを見てみましょう。

マルコの福音書6章30-44節で、イエスは5千人の人々に食事を与えられます。弟子たちはイエスに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」(6:37)と命じられ、頭を抱えます。物語はそこから足早に進み、マルコの福音書8章1-10節にくると、イエスは弟子たちにまた、ともについてきた4千人の人々をかわいそうに思い、食べ物を与えたいということを伝えられます。しかし、十二弟子はこう答えるのです。「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができるでしょう」(8:4)。聴き手である私たちは、ここで首を傾げます。「あれ、ちょっと待てよ。さっき彼らはイエスが5千人の人々に食事を与えるのを目の当たりにしたのではないか。イエスに不可能なことはないと、なぜわからないのか?」 マルコはこのようにして、私たちを物語に引き込むのです。

マルコの福音書8章で二度目の食事の奇跡が展開された後、イエスは弟子たちにパリサイ人のパン種を避けるようにと教えられます。しかし彼らは、手の中にある物理的なパンのことしか考えることができません。そこで、イエスは彼らに二度の食事の奇跡を思い起こさせるのです(マルコ8:14-21)。マルコの物語を聴く私たちは、この時点で弟子たちに失望しかけていることでしょう。しかし、マルコの福音書8章27-30節で奇跡が起こります。イエスが、わたしをだれだと言うか、という問いかけで弟子たちを試されるのです。すると、誰よりも愚直な弟子として知られるペテロが、ついに「あなたはキリストです」と告白したのです(8:29; マタイ16:16とルカ9:20を比較)。

イエスについてのペテロの告白は、私たちの意識を見事に動かし、マルコの福音書の大きな中心点、要(かなめ)となっています。この福音書の前半は、イエスの力強い御業によって、神の国を支配するキリスト(またはメシア)としてのアイデンティティが裏付けられています。イエスの教えには「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という中心的メッセージが常に存在します。しかし、マルコの福音書1章1節を除いて、「キリスト」という呼び名は、福音書の要であるペテロがイエスに迫られて「あなたはキリストです」と告白するその時まで、一度も使われていません。この告白の瞬間、弟子たちはついに理解しました。大勢の人々に食事を与えたことを通して、私たちも弟子たちも、イエスが誰であるかをようやく知ることができるのです。

ですから、マルコの福音書の前半部分は、イエスがメシアとしてのアイデンティティを人々に示すことに傾倒しています。しかし、人々はイエスについて混乱していました。明確に理解しているのは悪霊どもだけです(マルコ1:24, 34; 3:11)。マルコは、29箇所で、人々のイエスに対する混乱した反応を8通りのギリシャ語を用いて、彼らの恐れ、驚き、驚愕、困惑、そして呆然とする様子まで表現しました。律法学者とはまったく異なる、このイエスとは誰なのか(1:22)? パリサイ人たちはイエスを悪霊につかれていると言い(3:22-30)、ヘロデ王はイエスをヨハネのよみがえりだと言い、他の人々はイエスをエリヤだ、偉大な預言者だと言います(6:14-16; 申命18:15参照)。イエスの家族はイエスがおかしくなったと言い(マルコ3:20-21)、イエスの弟子たちまでもが当惑しています。「彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか』」(4:41)。

人々の混乱した反応は、イエスの真の王としての権威を際立たせています。「人々はその教えに驚いた。イエスが、…権威ある者として教えられたからである」(1:22)。神の子(1:9-11)であり、ヨハネよりも力のある方(1:7-9)であるイエスは、罪を赦し(2:1-12)、悪霊の軍団(レギオン)と戦って勝利し(5:1-20; マタイ8:28-34, ルカ8:26-39での記述は比較的短いことに注目)、最終的にこれらのことを行う権威をめぐってエルサレムの権力者と対立するなど(マルコ11:27-33)、力強い言葉と行いのうちに聖なる恐れとおののきを起こさせました。しかし、イエスの支配は異邦人によるそれとは全く違うものでした。イエスは苦難のしもべ

としてイザヤの預言を成就するために来られたのです(マルコ10:42-45; イザヤ40-66も参照)。

ですから、私たちはペテロの告白によってイエスがどういうお方であるかを知ることができます。イエスは、権威ある、神であり人であるメシアです。マルコの福音書の前半を通して、イエスはこの信仰告白に向けて働きかけておられます。そして後半で、弟子たちにご自身の十字架での真の贖いの使命を明らかにし始められるのです。マルコの福音書にみられるこの方向転換は、特にヨハネの福音書と対象的です。マルコの福音書の前半では、イエスの行動のほとんどがガリラヤで行われていますが、後半ではイエスの御顔はエルサレムに向けられています。そこでイエスは、イスラエルの指導者たちの手によって、神の民の贖いの代価として苦しみを受けられるのです(例としてマルコ8:31; 9:12; 10:45)。

結論を述べましょう。マルコは、イエスの大いなる権威を、言葉だけでなく、特に当時の人々を驚かせた超自然的な力強い行いを通して、ダイナミックに聴衆に伝えています。これらの行いは、イエスの到来によって神の国が確かに近づいたことを証明するものです。しかし、王国の発足は政治的な革命ではなく、王ご自身が民のために身代わりの犠牲を払って復活、昇天し「人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来る」というものでした(マルコ14:62)。マルコはこの物語を、注意深く耳を傾ける私たちが「あなたはキリストです」と、最初の弟子たちが告白した信仰告白をすることができるように記したのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

S・M・ボー
S・M・ボー
S・M・ボー博士は、カリフォルニア州エスコンディドにあるWestminster Seminary Californiaの新約聖書学名誉教授であり、Orthodox Presbyterian Churchの牧師である。『A New Testament Greek Primer』の著者である。