ルカの福音書の証言
2022年12月29日(木)
福音書の語る福音
2023年01月03日(木)
ルカの福音書の証言
2022年12月29日(木)
福音書の語る福音
2023年01月03日(木)

ヨハネの福音書の証言

編集者注:これはテーブルトーク誌の「福音書」というシリーズの第五章の記事です。

今回、ヨハネの福音書を改めて通読しました。間違いなく、この書物は様々な面で驚くべき書物です。文学としても楽しめる一冊です。シンプルな言い回しを用いつつ、繰り返される似通った表現が深みを与えています(「わたしは〜です」の文体など)。明確な旧約聖書からの引用は多くありませんが、ヨハネの福音書は旧約に関するテーマや言及に満ちています(「羊飼い」「パン」「蛇を上げる」など)。また、多くの皮肉も見られます(盲目の人はイエスを「見る」が「見える」者にはイエスが見えない、ヨハネ9章; イエスの死に関するカヤパの預言は、彼が思っていた以上に真理を言い当てていた、ヨハネ11:50)。イエスの語る言葉はたびたび当時の人々を混乱させますが、読み手には理解できるように書かれています(例えば「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる」ヨハネ2:19)。この福音書では、イエスと、時に混乱する弟子たち、そして敵対する「ユダヤ人」やパリサイ人などを交えた、興味深いプロットが繰り広げられています。

文学以上の視点から見ても、主イエス・キリストに対して注がれるヨハネの鋭い視点に驚かされずにはいられません。すべての段落において(と言ってもいいほど)、読み手はキリストの全能の力を目の当たりにするだけでなく、そこに主の罪人に対する憐みを見ることができるのです。私たちの救い主イエスの素晴らしさがヨハネの福音書に示されていることは、間違いありません。

大まかな流れについては、ヨハネの福音書のあらすじは正典の他の福音書によく似ています。どの福音書も、イエスに焦点を当て、バプテスマのヨハネに関する記述、イエスの宣教の始まりに関する記述を含めた上で、過越の祭り、裁判、キリストの死を含むエルサレムでの最後の一週間を大きく取り上げています。一方で、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の概要は、ヨハネのそれよりさらに似通っています。ヨハネの福音書の概要は以下の通りです。

  • 序章 1:1-18
  • バプテスマのヨハネ 1:19-51
  • キリストの公的な宣教 2:1-12:50
  • 上階の部屋の談話から復活 13:1-20:29
  • この福音書の目的 20:30-31
  • ティベリアにいるペテロ 21:1-25

イエスは「御子」である

聖書の書物の中で、ヨハネの福音書ほどイエスの人格に注目している書はありません。ただし、旧約・新約の両方を含め聖書全体はイエスについて語っていますから、過大評価は禁物です(ルカ24:44-47; ヨハネ1:45; 5:39; 一コリ2:2)。また、他の3つの福音書もイエスの人格とその御業に焦点を合わせています。それでもなお、ヨハネの福音書はキリストの人格に最も注目した書物だと言えるでしょう。

ヨハネの福音書の中で、イエスの人格について最も強調されているのは、イエスが「御子」であるということです。イエスは単純に「御子」(ヨハネ3:35-36)と呼ばれることもあれば、「神の子」(1:34, 11:4, 20:31)または「[神の]ひとり子」(1:14, 3:16-18)と呼ばれることもあります。これらの「御子」に類する表現はすべて、明らかにイエスの神性(三位一体の理解に基づくもの)に関係します。これはヨハネ1章1-3節、1章18節、5章18節、10章30節、20章28節で確認できます。

さらに、「御子」の強調は、神性を示すことに加え、父なる神と子なる神の親しい関係と愛を説明しています。人間でも父親は普段、自分の子を愛するものですから、三位一体の関係の中にはなおさら、父と子の完全な愛が存在します。「父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった」(3:35)。「それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです」(14:31)。ヨハネの福音書では、イエスが父との関係や父から与えられた働きについて述べている箇所が多くあります(5:19-24; 8:16-29; 10:24-29; 14:6-13; 17:1-26)。また、父なる神、子なる神、聖霊なる神の関係について述べている箇所もいくつかあります(14:16-17, 26; 15:26; 16:13-15)。

イエスの人格とその御業

父なる神と子なる神の関係については、イエスがある意味では御父と同等の関係であり、別の意味では従属的な関係でもあると示されています。神学者はこの2つの関係を「存在的(ontological; 存在において同等関係)」と「経綸的(economic; 働きにおいて従属関係)」という言葉で区別しています。子なる神の神性について考えるとき、御子は存在、力、栄光において御父と完全に同等です(存在的三位一体)。ヨハネはこの点について明確に示しています。例えば、ヨハネの福音書の偉大なる冒頭部分(序章)には、ことば(イエス)は「神とともに」あり、「神であった」とあります(1:1-2)。また、ヨハネの福音書の最後(福音書の目的についての記述の直前)で、トマスが「私の主、私の神よ」(20:28)と宣言することでも明らかにされています。

イエスがご自身の地上での宣教と御業について説明されるとき、イエスは御父に従属する存在として語られます(経綸的三位一体)。「わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(12:49-50; ヨハネ5:30; 8:29; 14:28も参照)。このように、三位一体の三つの位格が存在においては同等でありながら、働きにおいては異なるという三位一体的関係は、教会に反映されています。すべてのクリスチャンは神の目において同等ですが、彼らは教会の中でそれぞれ異なる賜物や権威を与えられているのです。

イエスの神性、永遠性、全能の力を強調すると同時に、ヨハネの福音書はイエスの人性もまた大胆に宣言しています。序章には「ことばは人となって」(1:14)という有名な言葉があります。イエスが十字架にかけられ死に至るという記述(19:30)を通しても、イエスの人性が示されています。復活後も同じです。イエスがトマスにご自身の手と脇腹に触れさせる場面(20:27)を通して、イエスの人性は継続していることがわかります。ウェストミンスター小教理問答21問にはこのように記されています。「神の選びの民の唯一の贖い主は、主イエス・キリストです。彼は、永遠の、神の御子でありながら、人間となられ、かくして、二つの別個の本性である、神と人間でありつつ、一人格であられましたし、永遠にそうであり続けられます」 なんと驚くべき救い主が私たちに与えられているのでしょうか!

ここまで、イエスの「人格」について、つまりイエスが「誰」であったか、また「誰」であるか、を中心に述べてきました。では、イエスの「御業」についてはどうでしょうか。明らかに、ヨハネの福音書におけるイエスの第一の御業は、イエスの死と復活によって、神に選ばれた民を贖うことです。しかし、それほど強調されていないながらも重要な御業として、創造主としてのイエスの御業があります。ヨハネの福音書の序章では、イエスの神性が宣言されています(1:1-2)。そのすぐ後に、イエスは(御父と聖霊とともに)宇宙を創造された方(そして維持される方)であるとの記述が続きます。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」(1:3)。序章の少し先には、悲しいことにイエスがご自身の造られた世界から拒まれたという記述もあります。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」(1:10)。イエスが創造主であることを強調する冒頭の言葉は、ヨハネの福音書全体を通して、イエスがなされる多くの奇跡の背景になっています。(創造主としてのイエスを示す他の新約聖書の箇所は、一コリ8:6; コロサイ1:15-18; ヘブル1:1, 10-12)。

父子関係になぞらえる私たちのイエスとの関係

ヨハネの福音書では、父なる神と子なる神の関係は確かにユニークな関係として描かれています。一方で、一見矛盾するようですが、クリスチャンのイエスとの関係は、部分的にはこの父子のユニークな関係になぞらえたものです。「父よ。あなたがわたし[イエス]のうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人[クリスチャン]を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」(17:21)。御父と御子の間にある、近く親密な関係(「うちにいる」[in])が、クリスチャンに与えられる神との関係になぞらえられているのです。真のぶどうの木の講話はこの結合を表しています(15:1-11)。

御父と御子のユニークな愛と、御子と私たちの愛とを結びつけている箇所はいくつかあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがた[クリスチャン]を愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」(15:9-10; ヨハネ14:21; 17:26も参照)。さらに、クリスチャン同士の愛も、イエスの私たちに対する愛になぞらえたものです(13:34)。

イエスとイエスの羊が互いを「知って」いるのは、御父と御子が互いを親密に知っておられることになぞらえられています。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです」(10:14-15)。

クリスチャンであることの一面は、イエスの名によって良い行いをするためにこの世に遣わされることです。「あなた[御父]がわたし[イエス]を世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(17:18; 20:21)。イエスは「遣わされ」、「御業」を行われました。イエスがご自身に与えられた使命を成し遂げられたことは、私たちが与えられた使命を成し遂げるための手本として助けになります。

最後に、クリスチャン同士の一致は、御父と御子の一致になぞらえたものであることを理解することで、さらに理解が深まります。「わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです」(17:11b)。もうわかりきっていることですが、ヨハネの福音書は驚くべき書物です。ぜひ、通読してみてください。「御子」としてのイエスについて、またあなたとイエスとの関係が部分的に御父と御子との関係をなぞらえたものであることについて、よく考えながら読んでみましょう。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ロバート・J・カーラ
ロバート・J・カーラ
ロバート・J・カーラ博士はノースカロライナ州シャーロットの改革派神学校で学長、最高学務責任者、新約聖書ヒュー&サリー・リーブス教授。『Cracking the Foundation of the New Perspective on Paul』の著者で、近々ヘブル人への手紙の注解書を出版する予定。