陰口に夢中にならないために
2023年12月19日(木)
複数の長老を立てることの重要さ
2023年12月30日(木)
陰口に夢中にならないために
2023年12月19日(木)
複数の長老を立てることの重要さ
2023年12月30日(木)

召命とクリスチャン

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている聖書の言葉やフレーズ」というシリーズの第十八章の記事です。

クリスチャンは地の塩、世の光であるべきだと、聖書にはっきりと書いてあります。具体的には何をどのようにすることを意味しているのでしょうか?

私たちは良い行いによって救われるのではありませんが、聖書はクリスチャンが良い行いをすることを神が期待しておられると教えています。では具体的に、私たちがどうすることを神は期待し、どこで実践することを願っておられるのでしょうか? 聖書によると、神は摂理をもって全被造物を支配し、配慮されます。しかし罪という現実がある以上、それは人間社会においてどのように作用するのでしょうか?

非常に世俗化された現代の世界の中で、クリスチャンは別の疑問にも直面しています。クリスチャンは政治に関与するべきか? どうすればクリスチャン同士の結婚を回復することができるのか? クリスチャンの親はどのように子どもを育てるべきか? 職場でどのようにクリスチャンとしての信仰を示すべきか? 宗教改革の中心的なテーマの一つで、この疑問に答えるのに大いに役立つものがあります。それは、召命の教理です。

召しに従って生きる

他の神学用語でも同じことが言えますが、召命という言葉は世俗的な言葉に引き込まれた結果かなり限定的な意味を持つようになり、今や仕事や職業と同義語のようになっています。クリスチャンもまた、そのような世俗的な意味を取り入れてきました。そのため、召命の教理というと、クリスチャンがいかに職場において神の栄光を表すことができるかという議論だと思われがちです。

神学的概念としてはそのような意味合いも含まれますが、マルチン・ルター、ジャン・カルヴァン、ピューリタンたち、その他の宗教改革の神学者たちが展開してきた召命の教理は、それ以上の議論を指します。それは、クリスチャン生活の神学、別の言い方をするならば、この世界での生き方の神学と言えるでしょう。

「召命」(vocation)という言葉は、単純に「招き」、つまり「召し」を意味します。ですから、この言葉が使われる聖書箇所は、召命について教えています。例えば、コリント人への手紙第一7章では、使徒パウロが「召命」のさまざまな派生語を用いていますが、その最たるものがこの鍵となる一節です。「それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています」(一コリ7:17)。

神は私たちにそれぞれの人生を割り当てられ、その人生に私たちを召しておられる——召命の教理を一言で言うならばこういうことです。召命を選ぶとか、真の召命を探すとか、自分の召命に満足する、などということには一切触れていないことに注目してください。確かに私たちはそのような体験をしたり悩んだりするでしょう。しかし召命は、基本的に神がなされることです。

どのような召命も、隣人を私たちの人生に迎え入れることが伴います。

コリント人への手紙第一7章の文脈では、使徒パウロは主に結婚という召命について話しています。結婚するべきか、独身のままでいるべきか、という議論です。パウロはまた、ユダヤ人が良いか異邦人が良いかという民族的・国民的アイデンティティの問題についても触れています。また、古代ギリシャ・ローマ時代における経済の制度から、クリスチャンでありながら奴隷になれるのか、自由を求めることは許されるべきか、という問題も扱っています。これらの「召命」の背後にあるのは救いへの召命であり、その召命は神のことばが福音を通して一人ひとりを召し、彼らの心に信仰を生み出します。

これらの箇所は、ルターがそれぞれの「機関」と呼んだ、神が人間生活のために設計された家庭、国家、教会といった複数の召しを扱っています。

それぞれのケースにおいて、パウロはコリント人への手紙第一7章で提示されているすべての疑問に対して、「召されたように生きなさい」と同じ答えを示しています。

神があなたの人生を通してなされること

「神は私の人生において何をなされるのだろうか?」という疑問を抱くかもしれません。召命は、私たちに別の疑問を抱かせます。「神は私の人生を通して何をなされるのだろうか?」

神はご自身の被造物である人間を、召命という手段によっても、摂理をもって支配し配慮されます。神は農夫や粉屋、パン屋といった召命を受ける人々を通して私たちに日々の糧を与えられます(二コリ9:10参照)。「剣を帯びて」いる者、すなわち警察や兵士や裁判官など、政治的権威の召命を受ける人々を通して、神は私たちを守ってくださいます(ローマ13:1-7参照)。母親、父親という召命を受ける人々を通して、神は子どもたちを創造し世話をしてくださいます(詩篇127篇参照)。そして聖職という召命を通して、神はご自身のことばを宣べ伝え、教えてくださるのです(ローマ10:14-17)。

ルターは召命を「神の仮面」と表現しました。あなたのために何かをしてくれる人について考えてみてください。あなたの家を建てた人、あなたの服を作った人、あなたの車を作った人、あなたの汚したところを掃除してくれた人、食事を作ってくれた人、病気を直してくれた人など、いくらでも挙げることができます。これらの普通の人々の背後には、神が隠れておられ、神はこのような人々を通してあなたを祝福してくださいます。

あなたもまた、神の仮面です。神はあなたを通して他の人を祝福されます。あなたが気付いていないだけかもしれません。あなたの妻や夫、子どもたち、職場の同僚、接客する相手、そしてクリスチャンの兄弟姉妹などです。

すべての召命にある神の目的

神は、私たちが神を愛し、私たちの隣人を自分自身のように愛することを願っておられます(マタイ22:34-40)。したがって、すべての召命——結婚、育児、職場、国家、教会——の目的は、私たちが隣人を愛し、彼らに仕えるためです(ガラテヤ5:13-15参照)。

どのような召命も、隣人を私たちの人生に迎え入れることが伴います。結婚は配偶者を迎え入れます。育児は、子どもたちを迎え入れます。職場では、同僚や接客の相手を迎え入れます。国家は市民を迎え入れ、教会は礼拝に集まる教会員たちを迎え入れるのです。彼らこそが、神が願っておられる、私たちが愛し仕えるべき隣人です。私たちがそれを実践するとき、その愛と奉仕は神の愛と奉仕を伝えるパイプ役となるのです。

もちろん、私たちはしばしば失敗し、隣人を愛することができないことがあります。彼らを利用したり、不当に扱うことすらあるでしょう。彼らに仕える代わりに、彼らが自分に仕えてくれることを望みます。これは、結婚、ビジネス、教会で起こる対立の根源です。つまり、私たちは召命において罪を犯します。神は私たちを通して働き続けられるでしょう。しかし、私たちは神と戦っているのです。

私たちはこのような罪を告白し、赦しを受け取り、状況を正さなければなりません。そうするなら、私たちは信仰と愛において成長することができます。聖化もまた、召命の中にあるからです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジーン・エドワード・ヴィース
ジーン・エドワード・ヴィース
ジーン・エドワード・ヴィース博士は、バージニア州パーセルビルにあるPatrick Henry Collegeの学長および文学名誉教授。著書に『God at Work』『Reading between the Lines』などがある。