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陰口に夢中にならないために

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている聖書の言葉やフレーズ」というシリーズの第十七章の記事です。

ある高校時代の親しい友人が、万引きの疑いをかけられました。正式な告発はされなかったものの、そのうわさは非公式の告発として、小さな町の至るところに広がりました。本人が否定しているにも関わらず、地元の人々の陰口によって彼は事実上有罪の扱いを受けました。数ヶ月経って、本当の犯人が陰ながら明らかになったものの、個人的にも公にも、冤罪に対する謝罪は一切ありませんでした。周囲の人々の多くは、私の友人の潔白が証明されてもなお、彼を有罪扱いし続けたのです。

聖書には、誹謗中傷や陰口の罪に対する警告が至るところに記されています。これらは決して、軽い罪ではありません。パウロは人間の堕落について、ローマ人への手紙1章28-31節にこのように書いています。

また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語をし、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。

悪、殺意、無慈悲、そして神を憎むことを並べる中で、パウロは中傷や陰口についても語っています。悪巧みに満ちたこれら二つの行為は、神の目に軽罪として映ってはいません。しかし中傷、そして特に陰口に関しては、まるでそのような悪事を行う許可を得ているかのように、日々悪びれなく行われています。

では、中傷とはどのようなものを指し、陰口とはどう違うのでしょうか? 中傷とは、人の評判を傷つける虚偽の発言です。陰口は、真実かどうかわからない戯言です。時に私たちは、本当のことを言っているだけだと自分たちの陰口を言い訳することがあります。陰口とは、共有されるべきでない情報を共有することです。それは世間をあっと言わせるような情報かもしれませんが、それに関わっている人にとって有益ではありません。陰口と訳されているギリシャ語の言葉は「ささやき声」を意味します。陰口を言うとき、私たちはささやきます。それは他の個人について共有する情報が私的なことであったり、非常に個人的なことであったり、その人にとって不利なことであったりするからです。通常、陰口とは、自分ごとであったら共有されたくないニュースです。

今自分が共有しようとしている情報によって、どのような良いことが成し遂げられるでしょうか?

陰口は、人を引きずりおろしながら自分のことを高めるための手段です。私たちは「真実の」陰口を使って、気に入らない人を悪く言います。「ほら、だから言っただろう、あの人はああいう人なんだよ」 また陰口を使って、自分の立場を正当化します。「ほら、これで私の言うことが本当であることが証明されるでしょう」 私たちが陰口を使うのは、重要な情報の疑うべくもない情報源になるためです。私たちは、最新のニュースを誰よりも早く友人たちに知らせるという名誉を手にしたいのです。私たちの言い分はともかく、神はこれを、私たちが最も悪しき悪と考えるものと同等の罪として、恐ろしい罪と呼んでおられます。今回私は、テーブルトーク誌の編集者からこのトピックについての執筆依頼をいただいて感謝しています。なぜなら、このテーマを学んでいると、私自身こそが頻繁にこの暗黒の世界に溺れ、自分の舌が悪魔的な目的に仕える罪深さを思い知らされたからです。

では、私たちはどのようにすれば、この狡猾な罪から離れることができるのでしょうか? 陰口を耳にするとき、何をするべきでしょうか? 陰口を次に受け渡さないために、何をしなければならないのでしょうか?

第一に、私たちは耳にしたことの真偽を確かめなければなりません。もしそれが真実ではないにも関わらず繰り返し語るなら、私たちの罪は増長され、中傷となります。もしそれが真実なら、私たちは罪を犯した人に対して恵みの管となったり、不当な扱いを受けた人に対して慰めの管となったりすることができるでしょう。陰口が真実でないなら、その嘘を語った人と話し合わなければなりません。決して、良心の呵責を感じずに堂々と陰口を広めるために真理を求めようとしてはいけません。

第二に、私たちはこう自問すべきです。「私の言葉は、周囲の世界を祝福するものとなっているだろうか? その言葉は慰めと癒しと平和をもたらす言葉だろうか?」 箴言の著者はこう言いました。「親切なことばは蜂蜜。たましいに甘く、骨を健やかにする」(16:24)。私たちが日々語り合う言葉は、聖霊によって、愛、喜び、平和、忍耐、親切、善意、誠実、柔和で満たされるべきです。陰口で満たされるべきではありません。そのためには、私たちは言葉を発する前に、いくつかの重要な質問を自分自身に問いかける必要があるでしょう。今自分が共有しようとしている情報によって、どのような良いことが成し遂げられるでしょうか? この情報は秘密にしておくことが最善でしょうか? この情報を共有することは、自分の誠実さをどのように映し出すでしょうか?

ここまで書いてみると、私は「生涯沈黙を貫くことを誓う」とでも言いたくなります。しかし、そのような誓いを立てるなら、私は人を助け、慰め、癒し、警告する言葉さえも語ることができなくなります。もちろん、警告の言葉は、ときに必要かつ聖い言葉になり得ます。善意あるクリスチャンが、肝心なときに必要な情報を隠していたために大きな弊害が生じることがあります。しっかりとした判断力を持つ相手が正しい決断をするために、その人は愛をもって真実を語る必要がありました。しかし、否定的な情報を共有することを望まず、その人は沈黙を守ったのです。私たちは、あるグループや個人に対する評価を求められることがあります。重要な決断が私たちの証言に基づいて下されるというのです。そのような評価を行う場合は、陰口にはなりません。このような状況下で真実を語らないなら、壊滅的な結果をもたらすことになるかもしれません。

読者の皆さん、自分自身の会話をコントロールすることは、簡単ではありません。ぜひ、このヤコブの手紙のみことばを覚えるべきです。

どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。(3:7-9)

陰口は日常に溢れる誘惑であり、それに打ち勝つには、聖霊の力による絶え間ない集中的な意志を持つこと以外に方法はありません。祈りの中で、陰口を少しだけイエスに言ってみるのも大きな助けになるかもしれません。イエスにその陰口を言うとき、私たちは主がこのように問いかけられるのを聞くからです。「さばくあなたが同じことを行っているのではないか」、と(ローマ2:1参照)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョン・P・サーテル・シニア
ジョン・P・サーテル・シニア
ジョン・P・サーテル・シニア牧師は、テネシー州メンフィスにあるChrist Covenant Reformed Churchの主任牧師である。著書に『What Christian Parents Should Know about Infant Baptism』がある。