三位一体の神との結合
2022年10月18日(木)
結合のしるしと証印
2022年10月25日(木)
三位一体の神との結合
2022年10月18日(木)
結合のしるしと証印
2022年10月25日(木)

パウロ書簡におけるキリストとの結合

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリストとの結合」というシリーズの第四章の記事です。

パウロの書簡であるエペソ人への手紙の書き出しの部分は、聖書の中でも最も私たちに驚きを与える箇所の一つです。使徒パウロは、この書簡の最初に、文字通りに「初め」から書いています。「神は…私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」(1:4-5)。パウロはクリスチャンに与えられるあらゆる祝福を解き明かしていくのですが、彼は「キリストにあって」というフレーズを繰り返すことで、救いのいかりを「キリスト」におろしています。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。…一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。…キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。…キリストにあって、あなたがたもまた、…約束の聖霊によって証印を押されました」(7-13節、強調筆者)。パウロの繰り返す「キリストにあって」というフレーズは、キリストとの結合の教理を示しています。では、キリストとの結合とは、実際何を意味するのでしょうか?

ルイス・ベルコフ著『Systematic Theology(組織神学)』で、著者はキリストとの結合をこのように定義しています。「キリストと民とのあいだにある、親密で、いのち溢れる、霊的な結合。この結合のおかげで、キリストは民のいのちと力、祝福と救いの源である」 クリスチャンがキリストと結び合わされていることは、聖書のあらゆる箇所で明らかにされています。私たちは枝で、イエスがぶどうの木(ヨハネ15:5)、キリストはかしらであり、私たちはキリストのからだ(一コリ6:15-19)、キリストは土台となる要石であり、私たちは土台に築き上げられる生ける石(一ペテロ2:4-5)、そして夫と妻の婚姻関係は究極的にはキリストと信者たちの結合を指し示しています(エペソ5:25-31)。聖書的に描かれているこれらの表現に加えて、パウロの書簡には「キリストにあって」というフレーズが25回も出てくるのです。キリストによる贖罪によって私たちに与えられる恩恵はすべて、キリストとの結合に含まれていると言っても過言ではないでしょう。例えば、ウェストミンスター大教理問答の第69問は「目に見えない教会の会員がキリストと持つ、恵みにおける交わりとは、どのようなものですか」と問いかけています。その答えは、次の通りです。「目に見えない教会の会員がキリストと持つ、恵みにおける交わりとは、彼らの義認・子とすること・聖化・その他、この世で彼らがキリストと結合していることを表すすべてのこと、において、彼らがキリストの仲介の効力にあずかることです」。[訳注:『改革教会信仰告白集 ― 基本信条から現代日本の信仰告白まで ―』(関川泰寛・袴田康裕・三好明編集、教文館、2014年、586頁)]

大教理問答の答えは、聖書から簡単に検証することができます。例えば、上述したように、私たちは世界の基が据えられる前から、「この方(キリスト)にあって」選ばれました(エペソ1:4)。パウロは、ローマの教会宛てに「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と書いています(ローマ8:1)。これは、言い換えれば、キリストと結合されている人は義と認められているということです。私たちはみな、信仰により「キリストにあって」神の子どもです(ガラテヤ3:26)。さらに、クリスチャンがキリストにとどまるなら、その人は多くの実を結び、良い行いをします(ヨハネ15:5)。救いを与えてくださるのは、救い全体であれ、義認や聖化といったそれぞれの恩恵であれ、ただキリストのみなのです。

クリスチャンがキリストに結合しているという事実には、どのような意味があるのでしょうか。改革派神学者たちは、歴史的に、キリストとの結合には様々な側面があると主張してきました。例えば、キリストとの結合は、私たちが「キリストにあって」選ばれたことによります。選ばれた時点では、私たちにはまだ聖霊の内在はありませんし、キリストと結合してもいませんでした。まだ神の思いの中にしか存在していなかったからです。しかしそれでも、堕落した罪人を選び、御子を通して彼らをあがなうという御父による決定によって、私たちはキリストに結ばれています。したがって、その意味で、私たちは選びの聖定において、キリストに結合しているのです。

キリストとの結合の二つ目の側面は、契約的または代表的結合と呼ばれるものです。キリストの地上での宣教において、キリストがなさったことはすべて、花嫁である教会を代表してなされました。キリストがヨルダン川でバプテスマを受けられたときも同じです。これは悔い改めのバプテスマでしたが、キリストは個人的な罪を告白したのではなく、汚れのない子羊として、バプテスマを受けられたのです。キリストに罪はなかったからです(マルコ1:4; 一ペテロ1:19)。キリストは、人々の代表として、彼らのためにバプテスマを受けられました。その結果、バプテスマだけでなく、律法の一点一画までも含む戒めを守り、キリストの完全なる受難、復活、昇天を含むすべては、キリストの花嫁のためになされたことでした。キリストが完全に律法を守られたこと、そして受難は、信仰を通して私たちのものになりました。すなわち、私たちに転嫁された、または帰されたのです。キリストの復活もまた、そうです。からだがよみがえったように、からだである教会もまったく同じようによみがえるという意味で、キリストが代表的になされたものです。そして今、キリストが天の父の右の座に着いておられるように、私たちもまた、天上でキリストと共に座に着き、支配するのです(エペソ1:20-21)。

キリストとの結合の三つ目の側面は、神秘的または人格的結合と呼ばれるものです。これは、聖霊の位格とその御業を通して、信仰によって与えられる人格的内在です。この側面についても説明している箇所が多くありますが、その一つがエペソ人への手紙2章です。使徒パウロは、私たちが使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた神の家族であること、そしてその土台の要の石がキリストであることを教えています。この壮大かつ最終的な神殿について、パウロは、私たちが「主にある聖なる宮」になり「キリストにあって、…ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」と記しています(22節)。

結婚式で、男性と女性が牧師の前に立つとき、彼らは二人別々の人間です。しかし、式の終わりには、彼らは「夫と妻」として宣言されます。彼らは一つになりました。二人が「一体」となるのです(創世2:24; エペソ5:25-31)。それぞれの所有物は、今や二人の所有物となりました。しかし、私たちがキリストの花嫁としてキリストに結び合わされるとき、そこで栄光に満ちた交換は、はるかに素晴らしいものです。私たちの罪と罪責はキリストに転嫁され、キリストの完全な律法の遵守と受難とが私たちに転嫁されます。私たちのものはキリストのものとなり、キリストのものは私たちのものとなるのです。キリストと共有する代表的結合によって、御父は私たちをもはや罪人として見ず、キリストの正義と聖さのみを見るようになります。

ハイデルベルク教理問答の第60問にはこうあります。「あなたは、どのようにして、神の御前に、義となるのですか」 その問いに対し、教理問答は実に心強い答えを示しています。

イエス・キリストを信じる真実の信仰によってのみです。わたしの良心は、わたしを訴えて、わたしが、神のすべての戒命に背く、重い罪の下にあり、どの戒命も守らず、依然として、悪への傾向性を持っていると、責めるのですけれども、神は、わたしたちの義の業によってではなく、ただ神の恩恵のみによって、わたしに、完全なキリストの償いと義と聖を贈ってくださるのです。わたしが、このキリストの恩恵を、信じる心をもって、受けさえすれば、あたかも、わたしが、罪を犯したことも、持ったこともないかのように、あたかも、キリストが、わたしに代わって、成し遂げてくださった完全な服従を、わたし自身がしたかのように、償いと義と聖を、わたしのものとしてくださるのです。[訳注:同上、260-261頁]

では、私たち自身の聖さ、そして良い行いはどうなるのでしょうか。もう必要ないのでしょうか? クリスチャンは義と認められているため、良い行いをする必要はなくなったのでしょうか? 罪を犯すも自由なのでしょうか?

この疑問は、パウロがローマ人への手紙3-5章で、ただ恵みのみによって、ただ信仰のみを通して、ただキリストのみにあって与えられる私たちの栄光に満ちた義認について議論した後に、彼もまた同様に直面した疑問でした。クリスチャンは義認のゆえに自由に罪を犯すことができるかという疑問に対して、パウロは、よく知られる「決してそんなことはありません」という強い否定で答えています。私たちがなぜこれ以上罪のうちに生きることはできないかという理由として、パウロが示すのはキリストとの結合という現実です。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6:4-5)

つまり、キリストとの結合において、私たちは義認という恩恵だけではなく、聖化という恩恵をも受けているのです。聖化、つまり霊的な変化、そしてキリストの聖なるかたちに造り変えられることは、ただひたすらに努力し、自力でどうにかして聖くなろうとすることだと考えている人が非常に多くいます。しかし、イエスが明確に言っておられることが一つあります。それは、私たちが実を結ぶためには、キリストのうちにとどまることが唯一の方法であるということです。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」(ヨハネ15:5)。

私たちは、いのちのために生きるのではなく、いのちを得て生きているということに気がつかなければなりません。私たちはキリストとともに十字架につけられました。もはや私たちが生きているのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられるのです(ガラテヤ2:20)。クリスチャンは、信仰によってキリストと結び合わされるとき、キリストのすべてと、贖いの恩恵の一部ではなくすべてを受けるという素晴らしい確信を得ています。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

J・V・フェスコ
J・V・フェスコ
J・V・フェスコ博士は、ミズーリ州ジャクソンにあるReformed Theological Seminaryの組織神学・歴史神学の教授。『The Christian and Technology』の著者でもある。