パウロ書簡におけるキリストとの結合
2022年10月20日(木)
クリスチャン同士の結合
2022年10月27日(木)
パウロ書簡におけるキリストとの結合
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クリスチャン同士の結合
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結合のしるしと証印

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリストとの結合」というシリーズの第五章の記事です。

神がことばによってこの世界を造られたように(創世33:6-9; ヘブル11:3)、神は福音の召命の力によってご自身の教会を生み出されます(二テサ2:13-14; 一ペテロ2:9-10)。この召命は、三位一体の神のもとにある一つの民として、私たちを信仰によってキリストと結び合わせます(エペソ4:4-6)。教会は、私たちがキリストとの交わりに召され、また互いの交わりに召されることによって形造られています。パウロも、コリントの信徒たちにこのことを思い起こさせています。「コリントにある神の教会へ。すなわち、…キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。…神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです」(一コリ1:2a, 9)。

キリストにある神との交わりは、キリスト教における体験の中核です。教会の喜びが満たされるのは、互いの交わりと、御父と御子との交わりです(一ヨハネ1:3-4)。キリストのからだである教会の一員として(エペソ1:22-23)与えられているキリストとの結合ゆえに、かしらであるキリストのうちに住まわれるキリストの御霊は、キリストの教会に属するすべての人のうちに住んでおられます(ローマ8:9)。

御霊の内在は、私たちの御父と御子との交わりの本質です(二コリ13:13; エペソ2:18)。ジャン・カルヴァンはこう言っています。「聖霊は、キリストが我々を御自身に結び付ける絆である」(『キリスト教綱要』3.1.1)[訳注:ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要改訳版 第3篇』渡辺信夫訳、新教出版社、2008年、9頁] 夫と妻が「一体」であるように、私たちは主イエスと「一つの霊」なのです(一コリ6:16-17)。もし友人にあなたの魂そのものが住むとしたら、その友情はどれほど親密なものになるでしょうか。内在する聖霊を通して、教会に属する一人ひとりに与えられているキリストとの親密な関係も、それと同じです。この同じ御霊によって、私たちはバプテスマを受け、キリストの一つのからだに加えられ、信仰、生活、礼拝、奉仕において一つになるのです(一コリ12:12-13; ベルギー信仰告白第27条)。

したがって、教会の聖礼典がキリストとの結合、そして信じる者同士の結合を確認し明らかにしていることは驚くことではありません。ガラテヤ人への手紙3章26-28節にはこうあります。

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

ここで3章26節は、私たちがいかなる行いによるのではなく、信仰によって救われていることを明確に示しています。救いは、十戒の遵守などの道徳的な行い、または割礼やバプテスマ、聖餐などの儀式的な行いによるものではありません(2:16; 5:2も参照)。しかし、27節には、バプテスマを受けた者はみな「キリストを着た」とあり、したがって、彼らは「キリスト・イエスにあって一つ」だといいます。これはどう理解すべきでしょうか。バプテスマ自体は、キリストとの結合をもたらすものではありません。その信仰によってキリストと結合し、キリストにおいて互いに結合していることのしるしとして捉えられるべきです。カルヴァンは、1545年の教理問答でこの教理を次のように定義しています。

聖礼典とは何ですか。

それは私たちに対する神の慈しみの外的な証しであり、神の約束を私たちの心に証印するため、霊的な恵みを目に見えるしるしによって表し、この約束の真実であることをいっそう固く信じさせたもうものであります。(問310)[訳注:『改革教会信仰告白集 ― 基本信条から現代日本の信仰告白まで ―』(関川泰寛・袴田康裕・三好明編集、教文館、2014年、132頁)]

もし、バプテスマという聖礼典自体が私たちのキリストとの結合をもたらし、救いを与えたのなら「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を…宣べ伝えるためでした」とパウロが書くことはあり得ません。すべての人にバプテスマを授けることで望んでいる結果が得られるなら、なぜ福音を宣べ伝える必要があるでしょうか? 「救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)は、バプテスマではなく、福音にこそあるのです。カルヴァンはこう記しています。

私たちは見えるしるしに固着して、そこから救いを求めてはならず、あるいは、そこに示される恵みの力がそこに結び付けられ、また含められた力があるかのように想像してはなりません。むしろ、このしるしは私たちが真直にキリストに向かい、彼から救いと確かな祝福とを請い求めるための支えであります。(ジュネーブ教会信仰問答 問318)[訳注:同上、134-135頁)]

だからこそ、パウロはコリント人への手紙第一10章1-5節で、私たちは聖礼典を受けながらも信じず、回心せず、最終的には神に見放されるということを警告しているのです。

兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

ここでパウロが、バプテスマや食べること・飲むことについて語ることによって、新約の聖礼典を暗示していることに注目してください。聖礼典による救いはなく、聖礼典は人を救うことができません。

それでは、バプテスマや主の聖餐は単なる記念の儀式に過ぎないでしょうか? 決してそんなことはありません。使徒たちは、死んでよみがえられたお方との結合のしるしとして、バプテスマを振り返るようクリスチャンに勧めています(ローマ6:3-4; ガラテヤ3:27; エペソ5:25-26; コロサイ2:12; 一ペテロ3:21-22)。共にパンをさき、杯を祝福するのは、キリストのからだと血における交わりです(一コリ10:16)。信仰によって、これらはキリストに近づき、キリストの贖いの御業の恩恵にあずかり、それを自分自身に適用し、神のために生きる恵みを見出すための手段です(ローマ6:1-14)。

聖礼典は、キリストが御霊の働きによってご自分を私たちに差し出し、私たちがこのお方を信仰によって受け入れるための手段なのです。パウロが、キリストから「霊的な」食べ物と飲み物を受けること(一コリ10:3-4)、御霊によってバプテスマを受け、御霊を飲むこと(12:13)、そして御霊に満たされること(エペソ5:18)について語ったのは、そのためです。

カルヴァンはこのように書きました。「聖霊の力なしでは聖礼典は糸一筋ほどの益もない」(『キリスト教綱要』4.14.9)[訳注:ジャン・カルヴァン『キリスト教綱要改訳版 第4篇』渡辺信夫訳、新教出版社、2009年、308頁。] カルヴァンはさらにこう記しています。

心を揺り動かし、感動させ、精神を照らし、良心に確信を持たせ、また静穏にするのは、ただ御霊の真の効力によってであります。これらはすべて御霊の固有の御業と考えるべき、また御霊に帰すべきであり、他のものにその誉れを移してはなりません。けれども、神が聖礼典をいわば二次的な器具とし、よしと見たもうところに従って、それの使用を付加したもうのは少しも差し支えありません。そして、このようになされても御霊の力を差し引くのではないのです。(ジュネーブ教会信仰問答 問312)[訳注:同上、133頁)]

教会がキリストの名によって集まり、主を覚えて聖餐を行うとき、私たちはキリストと真の交わり、霊的な交わりをもっているのです。コリント人への手紙第一10章16-20節で「交わり」(ギリシャ語でコイノーニア:「交わり、参加する、共有する」)という言葉が様々なかたちで何度も繰り返されているのを確認してみましょう。

私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わり(koinōnoi)にあずかることになるのではありませんか。私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる(koinōnous)者になってもらいたくありません。

パウロが、パンと杯にあずかることはキリストのからだと血との「交わり」であると言っているのは、どういう意味でしょうか? 一つには、私たちが「一つのからだ」として結び合わされているという意味があるでしょう(17節)。私たちは互いに交わりをもっています。しかし、これだけではありません。カルヴァンはこのように言いました。「しかし、わたしは、あなたがたにおたずねしたい。『わたしたちの間に交わりが生じるためには、キリスト…と一つになる…ことなくして、ありうるのか』と」(一コリ10:16の注解より)[訳注:ジャン・カルヴァン『カルヴァン新約聖書注解 コリント前書』田辺保訳、新教出版社、1960年、238頁]

パウロは、旧約聖書の礼拝者についても、コイノーニアという同じ言葉を使っています。彼らはささげ物を食べ、祭壇の交わりにあずかりました。彼らは血のささげ物にもとづいて、また按手を受けた祭司を通して、神と食事を共にしていました。教会は主との契約の食事を分かち合い、主の臨在の中で血で贖われた恵みを享受するのです。

パウロはまた、異邦人の礼拝者についても同じ言葉を用いました。彼らは悪霊と交わりをもっています。彼らは、汚れた霊の前に礼拝を献げているのです。パウロは、礼拝者がその礼拝している堕落した存在とつながっていると指摘しました。私たちが悪霊と交わるなら、それは主のねたみを引き起こす、霊的な姦淫の罪です(22節)。この「交わり」は、霊的現実として明らかに大きな意味を含んでいます。パウロはこの異邦人の礼拝を主の聖餐と直接対比させ、いかにこれらが相反するものであるかを提示しようとしているのです(21節)。

このように見ていくと、「キリストの血による交わり」「キリストのからだによる交わり」というパウロの言葉の意味がわかってきます。私たちは悪霊の力と断絶し、私たちのために十字架で死んでよみがえり、今は天のかしらとして、また大祭司として栄光を受けておられるキリストご自身と、霊的交わりをもつのです。私たちは、キリストの贖いの死と永遠のいのちの力が与える恩恵を享受します。カルヴァンは、聖餐についてこう記しました。「その晩餐においてキリストは御自身こそ命を与えるパンであると証しし、これによって我々の魂が真のまた祝福された不死の生に養われると示したもう(ヨハネ6:51)」(『キリスト教綱要』4.17.1)[訳注:同上、391頁] 

私たちは、聖礼典をキリストへの信仰によって用いるべき、神からの尊い儀式として重じようではありませんか。もし「単なるしるしを自ら誇り、その内実を何も持たない偽善者」として聖礼典を用いるなら、私たちの確信は間違っており、形式的な象徴はまったく空しいものとなります。しかし、真の信仰によってキリストに結び合わされた者として聖礼典にあずかるなら、私たちはそれが「聖霊の恵みを約束する」のを見ることができます(ガラテヤ3:27の注解より)[訳注:ジャン・カルヴァン『カルヴァン新約聖書注解 第10 ガラテヤ・エペソ書』森井真訳、新教出版社、1962年、89頁]  そして、信仰によって、私たちの心のうちにキリストがますます住まわってくださいます(エペソ3:16-17)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ジョエル・R・ビーキ
ジョエル・R・ビーキ
ジョエル・R・ビーキ博士は、Puritan Reformed Theological Seminaryの組織神学・説教学の教授、ミシガン州グランド・ラピッズのHeritage Netherlands Reformed Congregationの牧師、またReformation Heritage Booksの編集責任者でもある。彼の著書は多く『Living for God’s Glory: An Introduction to Calvinism』『Reformed Systematic Theology』などがある。