ペテロの手紙とユダの手紙にある希望
2023年01月20日(木)
キリストの神性と教会
2023年01月25日(木)
ペテロの手紙とユダの手紙にある希望
2023年01月20日(木)
キリストの神性と教会
2023年01月25日(木)

今こそヘブル人への手紙の(再)発見を

編集者注:これはテーブルトーク誌の「新約聖書書簡」というシリーズの第五章の記事です。

新約聖書の書簡の中でも、ヘブル人への手紙は多くのクリスチャンにとって奇妙で異質なものであるようです。読者は、この書簡の中で、メルキゼデクやアロン、御使いやモーセ、いけにえや祭司の世界に足を踏み入れます。非常に旧約聖書的であり、複雑で、しかも混乱させられるようです。

もしそうなら、今こそヘブル人への手紙を(再)発見すべきではないでしょうか。しかし、どのようにすれば良いのでしょう?

全体像を見る

聖書の中の書物を学ぶとき、最初にすべきことの一つは、「全体像」を捉えることです。これをするために、2番目に簡単な方法(しかし大抵はこれが最善策)は、その書をざっと通読し、自然に分けられる区分をメモし、メインテーマを切り取り、議論や筋書きの簡単なアウトラインを書き出すことです。

テーブルトーク誌の読者の方々に最も簡単な方法(しかし大抵はこれが2番目の策!)は、(当然ですが)お手持ちの宗教改革スタディバイブル(Reformation Study Bible)を参照することです。これを読めば、簡単にヘブル人への手紙のアウトラインを読むことができます。

しかし、自分でアウトラインをまとめ、スタディ・バイブルを参照し、それらを見比べてみる、というのが、結局いいとこ取りの手段として最善でしょう。

事実、ヘブル人への手紙の全体像はかなり単純明快です。簡単に言うならば、「イエスこそ最もすぐれたお方」というのが全体像です。

イエスは、御使いよりもすぐれた方であり(1-2章)、モーセよりもすぐれた方であり(3:1-4:12)、祭司や大祭司よりもすぐれた方であり(4:13-7:28)、旧約聖書のいけにえよりもすぐれた方です(8-10章)。

それゆえ、メシアの到来を待ち望んでいた信仰のヒーローたちのように、私たちもイエスから目を離さずに信仰を保ち(11-12章)、新しい契約の民として共に生きる必要があります(13章)。

細かい部分に迷い込むと、ヘブル人への手紙は冗長で迷路のような書物かのように見えてきます。しかし、全体像を捉えることができれば、この手紙の著者がなぜ「わたしは手短に書いた」と考えたのかがわかるでしょう(13:22)。

きらめくダイヤモンド

この枠組みの中には、価値の計り知れない宝が隠されています。ここで5つの宝石を挙げてみましょう。

第一に、ヘブル人への手紙は、イエスに満ちた手紙であり、イエスの栄光を示しています。この手紙を読めば読むほど、その内容は御使いやモーセ、メルキゼデク、アロン、また旧約の礼拝に関するものではないことがわかってきます。神は、救済の歴史を定められるうえで、そのすべてがイエスに関するものとなるように命じられました。これが真理なのです。

第二に、ヘブル人への手紙は、旧約と新約の関係が、いかに統一と多様性の関係であるかを私たちに教えてくれます。著者は冒頭でこのことについて語っています。「神は昔」、多くの時と多くの方法で、神は預言者たちを通して、先祖たちに語られました。「この終わりの時には」、神は御子にあって私たちに語られました。これらの二つのフレーズに、聖書のメッセージ全体が要約されています。すなわち、旧約聖書の啓示は断片的で複合的であり、イエスは完全で最終なのです。イエスは神を完全に現されます。なぜなら、イエスは「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」であられるからです(1:3)。

旧約聖書は写しや影に満ちています(9:23; 10:1)。イエスは原型であり、現実です。

第三に、ヘブル人への手紙は、イエスの人性の現実を感動的に描いています。一読したところでは —— 馴染みのないレビ族のしきたりに行き詰まってしまうと —— この点に気がつかないかもしれません。しかし、もう一度読んでみてください。きっと明瞭に見えてくることでしょう。

神の御子は私たちと同じようになり、私たちの人間的な起源を共有し、誘惑され、苦しみを経験し、死を味わってくださいました(2:10, 11, 14, 18)。イエスは私たちの兄弟となられたのです(17節)。ですから、イエスは試みられている者たちを助けることができます(18節)。

神の御子は、私たちの弱さを共有し、それを味わった人性を持ったまま天に昇られました。この方を通して、私たちは確信をもって神の御座に近づくことができ、そこには私たちの弱さに対する憐みと罪深さに対する恵みがあることを知っているのです(4:14-15)。

神の御子は、祈りと涙の人となられました。イエスの従順は苦難の中でこそ実践されました。私たちは、イエスを救いの源として信頼することができます(5:7-9)。

第四に、ヘブル人への手紙は、イエスの栄光について素晴らしい説明を施しています。すべての章が、このことを指し示しているのです。主要な節(1:3; 2:9; 3:3; 4:14; 5:9; 6:20; 7:22; 8:1; 9:15; 10:12; 11:40-12:2; 13:8)を読むだけでも、時間を取る価値があります。イエスは「昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」 すなわち、旧約聖書で断片的かつ前段階的に啓示されたイエスは、新約で完全に啓示され、終末(終わりの日)で最終的に啓示されるお方です。

第五に、ヘブル人への手紙は、牧会的な配慮で私たちに語りかけます。結局のところ、この書簡は「勧めのことば」(13:22)、つまり励ましのことばです。苦難、迫害の恐れ、落胆の危険性、罪との戦い、堕落に後戻りする可能性、良心の咎めによって生じる霊的麻痺、そして確信に欠ける可能性を、実に現実的に語っています。あらゆる霊的な病いに対する解決策は、豊かな複雑さと結びついた、非常にシンプルな神学に示されています。それは、私たちが告白する使徒であり大祭司であるイエス、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないことです(3:1; 12:2)。イエスがどのようなお方であるか、何を成されたか、そして今日何を成し続けてくださっているかに照らして、すべてを見ることです。そこで間違うことはありません。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Reformed Theological Seminaryの組織神学の総長教授。以前はサウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchで主任牧師を務めていた。彼の著書は25冊を超え、『The Whole Christ』、『The Holy Spirit』、『In Christ Alone』、『Devoted to God』などがある。