あなたがたのただ中に
2024年02月15日(木)聖霊による義と平和と喜び
2024年02月22日(木)この世のものではない国
編集者注:これはテーブルトーク誌の「神の国」というシリーズの第九章の記事です。
十字軍、異教徒の抑圧、国家転覆、教育、そして世俗的な社会正義の概念などが神の国の建設の手段として用いられてきましたが、いずれも虚しいものでした。誤った行動は誤った概念から発しますが、イエスはご自身の支配が地の上に現れるのはまず魂の上に現れてからだと明らかにされました。神の福音はアダムの堕落を逆転させるのであるなら、人のいのちと地に対する支配は、罪の問題に対する霊的解決によってのみ取り戻すことができるのです。ダニエル書は世界の支配者たちが栄光に満ちている天上の人物に従えられていることを明らかにしています(ダニエル7:13-14)。将来におけるダビデの支配は時空によって制限されることがない、と詩篇と預言書は明らかにしています(詩篇8:1-9; 72:17; イザヤ9:6-7)。
ヨハネが書いた福音書の目的は一貫して霊的なものです。読者がキリストを信じ永遠のいのちを得るように(ヨハネ20:30-31)、ヨハネは精選したしるしと教えを通して、受肉されたみことばを提示します。神の国に関する明確な言葉使いはヨハネの福音書にはほとんどありません。ヨハネは、神の国がこの世的な政治によるものであるという誤解を避けるために、「永遠のいのち」などの言い回しの方を好みます。神の国に入るには、御霊が主権的に与える新生が不可欠です(ヨハネ3:3-8)。神が求める霊的な礼拝は地理的制約を取り払います(4:19-24)。民族主義的な熱狂が沸点に達した時、王となるべき方は見当違いの群衆を冷静にさせます(6:14-15)。羊飼いたる王はローマ帝国を撃退することによってではなく、ご自分のいのちを捨てることによって羊を救ってくださいまます(10:10-18)。王の王冠は十字架であり、王は地の上に吊るされます(12:32-34)。王の復活の後、栄光の座に着かれるとき、聖霊の注ぎが福音宣教を活気づけます(16:7-14)。王はご自身の群れの信仰の一致のために御父を求めます(17:16-23)。ペテロは真理をもって羊を飼うことによって王への愛を証明します(21:15-18)。
主が捕らえられ裁判にかけられたことはこの世的な希望を完全に打ち砕きます。ペテロは剣を振りますが、イエスはすぐさま鞘に収めるように命じマルコスの耳を癒します(18:10-12)。メシアは不当な人間の法廷におとなしく従います(18:13-19:16)。ピラトは、イエスが本当に反逆罪を犯しているのか、もしそうでないなら、イエスの支配の本質は何なのかを知りたがります(18:33-37)。イエスが治めておられる領域がユダヤでもエルサレムでもないこと(18:36)、つまり「この世のものではない」、「ここから来たものではない」ことは、これまでの言葉とわざによって十分に証明されています。もし「イエスが王である」とすべての耳が聞かなければならないとすれば、それは信じる者がこの邪悪で消えゆく運命にあるこの世の支配から解放されるためだけです。この世的な王国の概念はすべて、徹底的に否定されているのです。なぜなら起源にも帰結においても、キリストの御国は超越的であり、異世界的であり、霊的であり、永遠であるからです。
したがって、キリスト者は確かに個人的働きとして真理を広めなければなりません。福祉的な働きは真理に沿うことで果たされます。ですが、キリストの共同体の主な働きは、この世におけるみことばの宣教です。教会の時間は、十字架につけられ聖礼典によって証されるキリストを(必要に応じて、戒規を通して徹底的に)宣べ伝えることに使われなければならないのです。祈りに満ちた宣教の働き、伝道、聖書翻訳、教理を教えること、キリスト教文書の配布は、罪を明らかにし、真理を納得させ、罪人を回心させ、聖徒をキリストに似せる、御霊に導かれる働きです。いのちのみことばはイエスがご自身の支配を広げるための手段です。人の子はいのちのみことばによって、魂を墓から呼び出し、羊を養い、反逆する者が喜びと信仰を持って従うように彼らの心を鎮めます。主は地上におられたとき湖や丘の上で教えられました。ですから私たちは屋上から叫び、主の王権を押し進めるのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。