見える教会における奉仕の働き
2024年03月21日(木)五つのソラは今日の教会においてもなお重要か?
2024年12月28日(木)五つのソラとは?
編集者注:これはテーブルトーク誌の「五つのソラとは?」というシリーズの第一章の記事です。
五つのソラは、宗教改革のスローガンというわけではありませんが、改革派信仰の良い要約となっています。マルティン・ルターもジャン・カルヴァンも、その他のプロテスタント改革者たちも、自らの教えを、聖書のみ、キリストのみ、信仰のみ、恵みのみ、神の栄光のみといった整然としたリストにまとめたことはありません。この五つのソラの要約は19世紀から20世紀にかけて広まり、いわゆる改革派神学を短くまとめたものとして知られるようになりました。改革派信仰に関するこの説明は後に生まれたものではありますが、聖書に明らかにされているとおり、福音のあらゆる恵みとキリスト中心主義の核心をよく捉えています。この五つのソラは、神の恵み深い救いの方法に現される栄光を示し、それが真の神学の基調を定め、この世界における私たちの考えかたや生きかたに響き渡っています。
聖書のみ
神学は聖書に基づいていなければなりません。いのちを与える神のことばは、私たちに神の救いを明らかにし、信仰と悔い改めを呼びかけます。私たちは以前は暗闇でしたが、今は主にあって光となりました(エペソ5:8)。サタンは信じない者の思いを暗くし、キリストの栄光に関わる福音の光を見えなくしています(二コリ4:4)。しかし、闇から光が輝き出るよう命じる神は、私たちの心を照らし、「キリストの御顔にある神の栄光」を与えてくださいます(二コリ4:6)。神は常に、みことばを通して働く聖霊によってこれを行います。聖霊は聖書の著者であり、聖書を通して語ります(ヘブル3:7)。聖書は、私たちがキリストを信じる信仰を通して救いに導く知恵を得るため、また、あらゆる良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるために、必要なことをすべて教えます(二テモテ3:15–17)。聖書の規則にしたがって語らない者に光がないのは、そのためです(イザヤ8:20)。しかし、御霊なしには、聖書でさえも私たちを助けることはできません。私たちは背きと罪の中に死んでおり(エペソ2:1–2)、私たちの知性と心は暗くなっています(エペソ4:18; ローマ1:21)。私たちを死からよみがえらせ、光を灯してくださるお方が必要なのです(エペソ5:14)。もし聖書が、キリストを信じて生きるための知恵を私たちに与えるのに十分であるならば、聖書のみが神と共に歩むための指針となります。それ以外はすべて無駄であり、余計なものです。しかし、神の国を見るためには、私たちは御霊によって生まれなければなりません(ヨハネ3:5)。聖書によって、また聖書とともに、御霊が私たちの心に働きかけることによってのみ、私たちは光である神とともに光の中を歩むことができるのです(一ヨハネ1:7)。
キリストのみ
神学はキリストに焦点を当てたものでなければなりません。聖書は神のことばですから、聖書が教えることはすべて信じるべきです(ヨハネ8:47)。キリストは聖書の中心であり、聖書全体がキリストについて証ししています(ヨハネ5:39; ルカ24:27; 一ペテロ1:10–12)。御霊なしには、私たちは聖書にある神の証言を受け取ることができません。さらにキリストなしには、神のことばでさえ私たちを救うことはできません。神学はキリストに焦点を当てます。なぜなら、キリストから離れては誰も父のみもとに行くことはなく(ヨハネ14:6)、御霊は私たちの救いのためにキリストをほめたたえることを望んでおられるからです(ヨハネ16:8–14)。イエスは真の神であり、真の人です。イエスのみが、神と人間を和解させ、敵意を消し去り、友情を生み出すことができます(創世3:15)。御父はご自分の御子を喜ばれます(マルコ1:11)。そして、私たちが御子の中にいるならのみ、御父は私たちを喜んでくださいます(エペソ1:6)。イエスのみが、ご自身の民を罪から救うことができます(マタイ1:21)。なぜなら、イエスのみが彼らの預言者であり、みことばと御霊によって彼らの救いのために神のみこころを啓示してくださるからです。またイエスのみが、彼らのためにご自身をいけにえとして献げ、神の正義を満足させた祭司であり、イエスのみが、彼らをご自身に従わせ、治め、守り、あらゆる敵を抑えて征服してくださる王であるからです(ウェストミンスター小教理問答 24–26)。キリストを離れては、神との交わりはありません。私たちは、私たちの主キリスト・イエスを知る知識のすばらしさに比べれば、すべてを損とみなします(ピリピ3:8)。
信仰のみ
神学は信仰に基づいていなければなりません。信仰がなければ、神を喜ばせることはできません(ヘブル11:6)。何も持っていない物乞いの手のように、信仰はキリストを受け取ろうと手を伸ばします。信仰によって、私たちは、約束した方はその約束を果たすことができると信じます(ローマ4:21)。神はその目的を果たされますが、私たちが信じなければ、私たちは堅く立つことはできません(イザヤ7:9; 45:17)。信仰は、神の御前では一切功績とは見なされません。私たちは、律法の行いによらず、信仰によって義と認められるのです(ローマ3:28)。私たちは良い行いによって救われるのではなく、良い行いのために救われるのです(エペソ2:8–10)。聖書を通してキリストを知り、心の中でこれらの真理に同意し、そして御霊によって心から信頼すること、これが救いに至る信仰の特徴です。私たちは、私たちを愛し、私たちのためにご自身をささげてくださった神の御子を信じる信仰によって生きているのです(ガラテヤ2:20)。
恵みのみ
神学は恵みに満ちたものでなければなりません。もし私たちが信仰によって救われるのであれば、私たちは行いによってではなく、ただ恵みによって救われています(ローマ11:6)。恵みとは、私たちが受けるに値しない良いものを惜しみなく与えてくださる神の寛大なご性質です。日々の糧から最終的な肉体の復活に至るまで、私たちが神から受け取るものはすべて恵みによるものです(詩篇145:8)。神の恵みはキリストに与えられており、キリストのみが、父なる神の憐れみを受ける人々に救いの恵みを与えてくださいます(詩篇103:13)。使徒パウロの手紙が「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」と始まるのは、そのためです(二コリ1:2; ガラテヤ1:3; エペソ1:2; ピリピ1:2)。聖霊は聖書を通して、救いはキリストへの信仰のみによるものであるため、救いは恵みのみによるものであると教えています。恵みは、私たちの罪を無視し、どのように生きるかを考慮しないように導く感傷的な概念ではありません。「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです」(テトス2:11–14)。
神にのみ栄光あれ
神学は神が支配するものでなければなりません。三位一体の三つの位格はそれぞれ、調和のとれた一致のうちに私たちを救い、三位一体の神すべてを礼拝するように導きます。私たちは、恵みにおいて御子と、愛において御父、力と慰めにおいて聖霊と交わりを持っています(二コリ13:14; 使徒9:31)。私たちは受けていないものは何も持っていませんから(一コリ4:7)、すべてのことを主イエス・キリストの名において行い、キリストを通して父なる神に感謝をささげるべきです(コロサイ3:17)。私たちは御霊によって生き、御霊によって進みます(ガラテヤ5:25)。もし私たちが神の栄光のために生きるべきであるなら、神のみことばのうちに語る御霊に耳を傾け、キリストを信じる信仰のみを通して神の恵みを受け、すべて神の栄光のためのみに生きるべきではないでしょうか。
結局のところ、五つのソラは、改革派神学の単なる要約ではありません。これは、福音を守り、明らかにし、不信仰な世界に対して友好的な攻撃を仕掛け、キリストの敵をキリストの友に変えるものです。「のみ」という言葉は、五つのソラにおいて重要です。「のみ」という言葉が、神を中心とする福音とクリスチャン生活を保証するからです。五つのソラは、真の神学、信仰、人生について語るべきことをすべて語っているわけではありません。しかし、私たちを正しい道に導くための良い出発点であり、明確な指針です。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。