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マタイの福音書18章20節
2022年11月22日(木)

マタイの福音書7章1節

編集者注:これはテーブルトーク誌の「この聖句って本当はどういう意味?」というシリーズの第四章の記事です。

今日、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」(マタイ7:1)よりも誤解されている聖句は少ないでしょう。会話のさなか、誰かが大胆にも他の人について、道徳的評価を下し、その人の神経を逆撫でしたときによく出てきます。そして「さばいてるあんたの方こそ何様だ」と言い返されます。

イエスは、どのような「さばき」について言っておられるのでしょうか。いつもそうであるように、イエスが言わんとしておられることの意味を理解するのには文脈が大きな助けです。この聖句は真の義と、表面的な宗教の本質をえぐり出す山上の説教に含まれています。この聖句でイエスはダブルスタンダードという偽善を取り上げています。イエスの主張は3-5節に続くたとえによって立証されます。

あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

原語のギリシャ語の言葉遣いでは、より鮮明です。英語標準訳(ESV)で「丸太(log)」と訳されている言葉は、(新改訳2017で「梁」と訳されているように)建物の根太として使われるような大きな丸太を指します。目の中に梁がある人が、他の人の目にある塵を取り除こうとしている光景は聴衆を含み笑いさせたでしょう。偽善者とは、他人を非難しながらも、それと全く同じ行動をとる人、あるいはその行動がさらにひどい人のことです。イエスの聞き手の中には、この種の偽善の専門家である律法学者やパリサイ人がいました。彼らは同じことをしながら、他人を非難することに熱心でした。これは間違った種類のさばきです。

しかし、人が他人を「さばく」こと、あるいは道徳的評価を下すことが正しいことはあるのでしょうか。もちろんです。実際、聖書は私たちにそうすることを要求しています。

別の場所で、イエスは「うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい」(ヨハネ7:24)と言われます。この「正しいさばき」とはどのようなものなのでしょうか。マタイの福音書では、イエスは、人は自分に対して罪を犯した人と直接話すべきだと教えておられます(マタイ18:15)。この聖書箇所が教えてくれる 「正しいさばき」にはいくつかの重要なポイントがあります。

第一に、この評価は個人の好みではなく、神の基準に基づかなければなりません。「罪」と認められるためには、神のことばに反するものでなければならないのです。ここに、「さばき」に対する現代的な反論の一つがあります。人々はその基準について意見が分かれるのです。「己の正義」に従って生きている同じ人々が、自分の行動を反映し承認する、絶えず変化する状況的基準に従って生きているのです。「もし私が正しいと思ったり感じたりすれば、それは正しいに違いない」と、彼らは主張します。しかし、絶対的な善悪の基準は確かに存在し、それは聖書にあるのです。

第二に、人を正す時の適切な動機は、常に違反者の回復でなければなりません。人の罪を正すのは、その人が神のものとなるためであって、その人を貶めたり、非難したり、優越感に浸るためではないのです。これは、律法学者やパリサイ人(そして時には私たち)が失敗するところです。ガラテヤ人への手紙6章1節にも、同じようなことが書かれています。「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」ここでも「何かの過ち」という言葉が使われていますが、これは神の基準に反することを指しています。そして、その目的は兄弟姉妹の回復であることがわかります。私たちは常に、迷い出た人の益に関心を持たなければなりません。ガラテヤ人への手紙に書かれているもう一つの点は、他人を正すときの自分の態度の重要性です。パウロは、違反者を「柔和な心で」正すように書いています。これは、罪人を、同じく罪人である私たちが正す時の謙遜な姿勢を表しています。また私たちは、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」とも教えられています。このような態度は、他人を非難して自分を高めることに熱心な独善的な人々は大違いです。

最後に、神が究極のさばき主であり、私たちは神に対して責任を負っていることを忘れてはなりません。イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」(マタイ7:1-2)。この最後の点は、先に述べたことを裏付けるものです。神がさばき主であるなら、さばきの基準は神のことばでなければならないことが分かります。またこのことは、私たち一人ひとりの心の中に偽善がたくさん残っていることを認識させ、私たちを謙遜にさせるはずです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ティモシー・Z・ウィトマー
ティモシー・Z・ウィトマー
ティモシー・Z・ウィトマー博士は、ペンシルベニア州ニューホランドにあるSt. Stephen改革派教会の牧師を務め、現在はウェストミンスター神学校で実践神学の名誉教授である。著書に『Mindscape』がある。