神の不可受苦性
2023年08月01日(木)
神の遍在
2023年08月09日(木)
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神の愛、正義、怒り

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている神の属性」というシリーズの第五章の記事です。

フランシス・シェーファーは、あるとき、このような場面を想像してみるよう促しました。あなたが道を歩いていると、若い暴漢が老女を殴っているところに出くわします。男は老女を何度も何度も殴りますが、老女は男が奪おうとしているバッグにしがみついて離しません。シェーファーはこう問いかけます。「この状況で、あなたの隣人を愛せよ、とはどういうことを意味しますか?」 言うまでもなく、隣人を愛するとは、必要な力(正義の怒り)を使って、暴漢(悪)を制圧し、老女(無実の人)を救う(愛する)ことを意味するでしょう。愛と正義、善と聖、恵みと怒りは、相反するものではありません。これらは、相補うものです。究極的には、互いに依存し合っています。正義のない愛は、ただの感傷主義にすぎません。愛のない正義は、単なる執念深さです。しかし、神においては、「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」(詩篇85:10)。愛は、愛する者のために正義を求めます。正義は、愛する者を守り、報復し、正当性を主張します。キリストの十字架は、救いに値しない罪人を救う神の愛と、正当な救いの代償が支払われることを要求される神の義とを、完全に表現したものです。

神の統一性

さまざまな神の属性のあいだには、私たちが緊張として捉えるものの中にも、完全な調和があります。厳密に言うならば、数多くの属性があるというより、一つの栄光ある神の本質があるというべきでしょう。古典的な神学者たちは、神の属性を論じるときに、神の統一性を第一に考えて、あらゆる属性を正しく理解するためには神の統一性の理解が欠かせないと主張します。神は統一性のあるお方です。神は霊であり、分離されることなく、単数で、合成されたものではありません。神は、体も部分も欲情も持たず、唯一であられます。神の属性について学ぶとき、私たちは神の違う部分について考えているのではありません。私たちの推論の力の限界から、それぞれの属性を別々に考えます。ピューリタンのルイス・ベイリーは、古典的有神論の見解を代弁して「神には数多くの属性はない。ただ一つである」と宣言しました。「それは神の本質そのものに他ならない。あなたがそれを何と呼ぼうとも」 神の属性(attributa divina)は神の本質(essentia Dei)と分離できないのです。

神の属性が本質的に統一されていることを前提とすると、神の性格において柔らかい表現と厳しい表現があるように見受けられること、また愛と怒り、憐れみと正義について、私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。この問いに答えるためには、議論と論争が渦巻く、愛という属性に焦点を当てるのが良いでしょう。「神は愛である」というのは、聖書も、一般的な意見も同意する点です。では、神の正義と怒りについては、どのように理解するべきでしょうか?

数多くの属性があるというより、一つの栄光ある神の本質がある

愛以上の神

第一に、神は愛ですが、神は愛以上のお方です。愛は、過去の神学者たちによって、善の一部分として扱われています。スティーブン・チャーノックが言うところの「属性の長(the captain attribute)」である神の善は、愛、恵み、憐れみ、親切、忍耐を種とする属です。この分類方法自体が、「神は愛である」というのは他の神の属性を排除して神が愛であるという意味ではないことを示しているのがわかります(一ヨハネ4:8)。使徒ヨハネは「愛は神である」とは書いていません。この方程式を逆転することはできないのです。聖書はまた、神は「光」であるといい(一ヨハネ1:5)、そして神は「焼き尽くす火」であるともいいます(ヘブル12:29)。これらは、すべて同じ文法構文を用いています。愛である神は、「真実」で「正しい」方でもあると、ヨハネはいいます(一ヨハネ1:9)。19世紀長老派教会のJ・W・アレクサンダーは、こう述べています。「神は限りなく慈悲深いお方であるが、限りなく慈悲深くあられることが神のすべてではない」 神の愛は正しい愛であり、神の正義は愛ある正義です。私たちは、神の一つの属性が他を圧倒し、残りを無効にすることを許してはいけません。チャールズ・スポルジョンはこのように表現しました。「神は…愛がないかのように厳しく正義であられるが、正義がないかのように熱烈な愛に満ちたお方である」

愛を定義せよ

第二に、愛は聖書によって定義されなければなりません。神の愛が、神の道徳的資質を否定するような形で理解されていることが少なくありません。「私は愛なる神を信じます」と言いながら、さばきの日を撤廃し、地獄の火を消そうとする人もいるでしょう。愛の名のもとに、道徳的なあらゆる基準がすべて投げ捨てられています。「愛に満ちた神なら決して〜しないはずだ」という、善意の主張が始まり、その後には神が決してなさらないであろうとされている、生活習慣の判断や道徳的な要求などが挙げられるのです。神は私の罪を責めたり、私に不幸になって欲しいと思ったり、私の行動を否定したり、私の選んだアイデンティティに異議を唱えたりすることなど、決してないだろう。どうして、神がそうされないことがあるでしょうか? なぜなら、この主張の言うことには、神はいつでもすべての人やすべてのものを受け入れてくださる唯一のお方であるからです。神は、形のない愛の理解によって再定義され、神のきよさや聖書そのものから完全に切り離されてしまっています。使徒たちが「神は愛である」と言ったとき、神は(ギリシャ語で)eros(エロス)ではなく、agape(アガペ)であると言ったのです。、また、神は(ラテン語で)caritas(キャリタス)であり、amor(アモール)ではありません。つまり、神の愛は自己犠牲の愛、犠牲的な愛です。ロマンチックな愛でも情欲の愛でも、温かく感傷的な愛や、無批判で受け入れてくれる愛でもありません。神の愛は区別する愛、矯正する愛、義なる愛です。

聖書は、神が善であると同時に正義であられることを明らかにしています。神は「あわれみ深く、情け深い」お方でありながら、「罰すべき者を必ず罰」せられるお方です(出エジ34:6-7)。使徒パウロはこう言います。「ですから見なさい、神のいつくしみ厳しさを」(ローマ11:22; 強調(斜体部分)は著者による)。もし神が正義でなければ、神は善ではありません。もし神が罪に目をつぶり、悪を無視し、不正を容認し、罪のない者を不義をなす者に引き渡し彼らを救わず、復讐せず、彼らの正しさを立証されないまま、永遠に悪人と区別することなく、同じ空間、同じ運命、同じ報い、そして同じ罰を与えられるなら、神は善でも、親切でも、義でも、聖でも、正義でもあられません。イアン・ハミルトンはこう言いました。「神の愛は、盲目で甘やかすものではないと同時に、そうなることはできない。神の正義ときよさが、冷たく気まぐれなものではないと同時に、そうなることはできないのと同じである」 繰り返しますが、愛には正義が必要です。

愛することを願う神

第三に、神は愛することに傾くお方です。愛が神の他の属性を覆い隠してしまうのを許すべきではないとはいえ、愛は、そして愛とともに神の善は、ある意味で、神にとって怒りよりも「自然」であるということができます。神は、ご自身の性格のより厳しい現れよりも、愛することを好まれます。この時点で、私たちは言語の限界に近いことを言っておきます。神の属性は、前述したように、調和のうちに統一されたものです。愛と正義は、神の本性または意識において互いに対立するものではありません。しかし、聖書は、神が「unchanging love(変わらない愛)」(英訳聖書NASB)または「steadfast love(恵み)」(ヘブル語でhesed)を「喜ばれる」ことを教え、怒りを表すことを喜ばれるとは教えていません(ミカ7:18)。トマス・ワトソンはこのように言いました。「神は、怒りよりも、憐れみに傾倒される。神の厳しい行為は、いわば神から強制されるものである」 「主が…意味もなく、苦しめ悩ませることはない」とありますが、神は進んで、喜んで、愛してくださると聖書は教えています(哀歌3:33; 参照・申命7:6-7)。神は「怒るのに遅く」、赦すのにはやく、「恵み豊かで」あられます(詩篇103:8; 参照・出エジ34:6)。イザヤは神のさばきについて「そのみわざは不可思議」と述べ(イザヤ28:21)、神学者はそれをopera aliena、神の「異なる働き」と呼びます。神は渋々さばかれるお方なのです。神は、怒り、憤り、さばきを示すことよりも、愛すること —— 親切、恵み、憐れみを示すことのほうを、願われます。愛の表現は、神の怒りの表現よりも、神の傾倒や神の本性の方向性を示すものであり、神の好まれることが何かを表しています。ピューリタンのウィリアム・ガーナルが言うように、神の愛は「神の他のすべての属性を働かせる」のです。

私たちが神の属性について語るときは、常に謙遜に表現する必要があります。私たちがいかなる言葉にしようと、そこにはさらに語るべきことがあるからです。有限の者は、無限の存在を包括的または徹底的に知ることはできません。しかし、私たちは神を真に知ることができ、聖書の語るところを語ることができます。聖書は、愛であり正義である神を明らかにします。そして、カルバリの丘の上で成し遂げられた御業こそ、この神を証言してくれます。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

テリー・L・ジョンソン
テリー・L・ジョンソン
テリー・L・ジョンソン牧師は、ジョージア州サバンナにあるIndependent Presbyterian Churchの主任牧師。著書に『The Case for Traditional Protestantism』『Reformed Worship』がある。