
ヘブル語の詩文の読みかた
2025年09月24日(木)
預言書の読みかた
2025年10月11日(木)知恵文学の読みかた
編集者注:これはテーブルトーク誌の「解釈学」というシリーズの第五章の記事です。
「主を恐れることは知恵の初め」(箴言9:10; 参照・ヨブ28:28; 詩篇111:10; 箴言1:7)です。歴史の中には、クリスチャンでなくとも深い洞察力を持つ教師が多く存在してきたかもしれませんが、すべての真の知恵は究極的には「上から」——すなわち三位一体の神から与えられるものです(エペソ1:17; コロサイ2:3; ヤコブ3:15, 17)。そしてこの唯一の真の神を畏れ、礼拝する人々の中においてこそ、知恵は真に完成されます。
しかし、ここで語るべきことは他にもあります。というのも、すべてのクリスチャンがその生きかたにおいて知恵を示しているとは言えないからです。実際のところ、クリスチャンであっても愚かで無責任な行動を取り、自らを辱め、神の御名を汚しているのです(例・エゼキ36:20; ローマ2:24; 一コリ6:5; 15:34)。知恵はそれを求める者に与えられると、聖書は教えています(ヤコブ1:5)。特に聖霊は霊感によって、箴言、ヨブ記、伝道者の書といったさまざまな知恵文学をこの目的のために与えてくださいました。では、クリスチャンはこれらの知恵文学をどのように読めば、実りあるものとなるでしょうか?
1. 自分を知恵のある者と考えるのがいかにたやすいかを認める
まず、知恵文学は、「自分を知恵のある者と考える」ことがいかにたやすいかを認めつつ読むべきです。箴言はこの深刻な問題について繰り返し語っています(箴言3:7; 12:15; 26:5; 28:11; さらにイザヤ5:21)。実際、「自分を知恵のある者と思っている人」は聖書が語る「愚かな者」よりもさらに状態が悪いとされます(箴言26:12)。この霊的に深刻な問題の兆候として、敬虔な助言者の言葉に耳を傾けなくなること(箴言26:16)——特に両親の助言(箴言1:8; 4:1; 23:22; 30:17)——、そして常に議論に勝とうとする態度(伝道者7:15-16)などがあります。霊的に成熟した信仰者から忠告を受けたとき、反射的に自分の考えに固執する態度には注意しなければなりません。むしろ、クリスチャンは常にへりくだって学ぶ心を示すべきです。
2. 一般的なパターンを探す
第二に、知恵文学は、この世界がどのように機能しているかという一般的なパターンを学ぶために読み、自身もそれに沿って行動するべきです。一般的に言えば、「主を恐れ」(詩篇1:3)、神の教えを実践しようとする人は「流れのほとりに植えられた木」のようになります。伝統的知恵(conventional wisdom)という言葉はもはや非難の対象になる傾向にありますが、実際は聖書そのものが、神の民が世代を超えて受け継ぐべき、そのような豊かな知恵の宝庫なのです。読者は、このような伝統的知恵に耳を傾け、これを軽んじたり、自分は世間一般のルールには当てはまらない例外だ、などと考えてはいけません。例えば、教会での共同体としての集まりを避けながらでも霊的に成長していけると考えるクリスチャンは、聖書の勧めに背くばかりか、キリストの名によって集う群れの中でしか得られない祝福を体験してきた、歴史上の数々の信仰者たちの知恵までをも無視することになるのです(参照・マタイ18:20)。
3. 「法則」の例外に目を留める
第三に、知恵文学は、「法則の例外」と言える印象的な事例に目を留めるために読むべきです。このような例外は、私たちに見極める力と、常に主により頼む姿勢が必要であることを教えてくれます。ヨブの体験や、伝道者の書で繰り返される教えなどは、人生の一般的なパターンが当てはまらない場合もあるということを証ししています。そのため、正しい人が繁栄する代わりに苦難を受けることもあれば、愚かな人が苦しむ代わりに成功を楽しむこともあるのです。このような例は新約聖書にも見られます。例えば、危機的な状況にある場合は、信仰者は結婚を控えるべきだと聖書は勧めています(一コリ7:25-26)。これは、多くの信仰者が「ふさわしい助け手」を見つけてともに家庭を築き、地を支配し管理するようにという一般的な聖書の勧めとは対照的です(創世1:26-30; 2:18-25)。このように、一般的なパターンには例外が存在するということを理解することで、信仰者は一つひとつの状況をふさわしく受け止める必要性に気付き、祈りを通して、神の栄光のために最善の応答ができるよう、主の知恵と見極める力を求めるようになります。
4. どのように見極め、主により頼むかを学ぶ
第四に、知恵文学は、特定の状況において何が「良い」または「最も良い」選択肢かを見極めることを学ぶために読むべきです。これは、必ずしも唯一の「正しい」または「誤った」一連の行動を選ぶということではありません。聖書は、数々の絶対的な法則として、何が正しくて何が誤りか、あるいは何が命じられ何が禁じられているかを提示しています。しかし、人生における多くの決断には、単なる正か誤かの判断を超えた複雑な要素が関わっているものです。例えば、信仰者が聖書の教えである「主にある」結婚を求めたとしても(一コリ7:39; 二コリ6:14と比較)、配偶者となり得る人が一人に絞られるわけではありません。その信仰者は知恵と見極める力を働かせ、よりふさわしい、結ばれるべき相手を絞っていかなければなりません。人生における他の多くの決断(進学、就職、居住地など)も、正か誤かの単純な基準で選べるものではなく、「良い、より良い、最も良い」といった幅の中で選択していかなければなりません。感謝なことに、神は聖書の中に豊かな知恵の教えを備えてくださり、へりくだって求める者には聖霊の祝福を与えると約束しておられます(ルカ11:13)。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

