
牧会書簡の読みかた
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2025年09月24日(木)聖書の律法の読みかた
編集者注:これはテーブルトーク誌の「解釈学」というシリーズの第二章の記事です。
神の律法、あるいはモーセ五書としても知られる書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、必ずしも理解しやすいものではありません。律法を正しく理解していくには、旧約聖書のすべての律法から学ぶことができるという視点が重要になってきます。中には、キリストが成就してくださったために今は実際に守る必要がなくなった律法もありますが、それらも含めて、です。この聖書の律法というジャンルを理解するために役立つ原則がいくつかありますので、紹介しましょう。
1. 律法には三つの重要な区分がある
律法の三つの区分は、一般的に道徳律法、儀式律法、司法的律法として定義されます。道徳律法は十戒によって要約されています。道徳律法は絶対的かつ普遍的な命令であり、特定の罰則は伴っておらず、神ご自身の指で書き記されたものです(出エジ31:18)。これらは旧約聖書の他の律法の基礎となっており、使徒たちもこれを引用し、これらがクリスチャンにとって今なお有効であることを示しています(ローマ13:8-10; エペソ6:1)。
儀式律法は、イスラエルの礼拝と「きよいこと・汚れていること」に関する問題に焦点を当てています。これは、人が汚れている状態にあるなら、その人は幕屋で礼拝を献げることができないからです。儀式律法にはいけにえに関する律法(レビ1-7章)、食べ物に関する律法(レビ11章)、そして汚れに関するさまざまな状態についての律法(レビ12-15章)が含まれます。
司法的律法は、イスラエルの統治に関するものであり、裁判官が律法を適用する場合の規定(申命17:8-13)、奴隷制度や年季奉公などのさまざまな社会状況に関する規定(出エジ21:1-11; レビ25:39-55)、その他人間の行動を規制するために必要な状況に関する規定(出エジ21:12-26; レビ24:17-23; 申命19:1-22:8)などが含まれます。道徳律法、儀式律法、司法的律法という区分は絶対的なものではありませんが、旧約の律法を学ぶうえで有益な教育的手段であり、新約聖書においても使徒たちが旧約の律法に言及する際の扱いによって裏付けられているものです。
2. 律法には三つの重要な用法(use of the law)がある
神の民の生活と律法との関係を説明する一般的な方法として、「律法の三用法」というものがあります。律法にはのろいが伴っており、神の民が神に信頼せず、頑なに不従順であり続けるときに、こののろいが適用されます。これは第一の用法と呼ばれるもので、律法が私たちに贖いの必要性を映し出す鏡のように働くというものです。律法の第二の用法は、律法の抑制的な機能を指し、民が律法に背いた場合に司法的報いが下されることを警告する役割を果たします。律法の第三の用法は、神の律法に伴う祝福を強調します。律法は、贖いの文脈の中で(出エジ20:2)神の民に与えられ、それは彼らが神に喜ばれる生きかたを知るためでした。その意味で、律法は私たちの聖化において働き、神との関係が深まるための助けとなるものです。
新約聖書が律法の三用法を承認している例として、「殺してはならない」という第六の戒めを新約聖書が三つの用法で用いていることが挙げられます。第一の用法はヤコブの手紙2章9-11節、第二の用法はテモテへの手紙第一1章9-10節、そして第三の用法はローマ人への手紙13章9-10節です。私たちは律法を破ったことによって律法により罪に定められますが、良い知らせ(福音)は、キリストが律法を完全に守られたことによって、律法の要求を満たしてくださったということです。私たちがさばき主である神の御前に立つとき、キリストが私たちのために成し遂げられたことを信じる信仰によって、神は私たちを義と宣言し、私たちを義と認めてくださいます。私たちは聖化において、神を父として関係を持ち、律法はその関係を強めるための祝福となるのです。
3. 旧約聖書の律法はキリストの到来との関係の中で理解しなければならない
キリストが律法を成就されたとき、さまざまな変化が起こりました。この変化は、今日における神の民と律法との関係に影響を与えています。
道徳律法は今もなお私たちの義務ですが、それでも道徳法の中にも、キリストの到来によって影響を受けた儀式的な要素が含まれています。例えば、第四の戒めである休息と礼拝の日(安息日)は、創造と贖いを記念として第七日に守られていました(出エジ20:8-11; 申命5:12-15)。しかし新しい契約では、信仰者は第一日に礼拝を献げます。なぜなら、キリストの復活が新しい創造の幕開けとなったからです。私たちはキリストが罪と死に勝利してくださったことを喜び、キリストが再び来られるときにもたらされる終末的な安息を待ち望んでいます(黙示1:10; ヘブル4:1-11)。
旧約聖書の司法的律法は、国家としてのイスラエルに関わるものでした。これらの律法は、私たちの義なる王によって与えられた義の原則を確立するものであり、たとえこれらの律法が今日においてまったく同じかたちで定められる必要がなくとも、この世界の指導者やクリスチャン生活に対しても教訓的な意味を持つものです(司法的律法の「一般的公正さ」についてはウェストミンスター信仰告白19.4を参照)。使徒たちは、旧約の司法的律法における死刑の規定を、教会の戒規における除名の可能性として関連づけています。これは、神の純潔を保つという同じ目的を果たすものです(参照・一コリ5:13; 申命17:7)。
儀式律法は、いけにえの献げかた、きよい者と汚れた者の原則、神殿に関係する儀式などを定めるものです。これらの律法は、キリストのみわざによって廃止され、成就されました。キリストご自身が神に献げるいけにえとなられたので、私たちは礼拝の中でいけにえを献げる必要がありません(ヘブル10:11-14)。キリストご自身が神の臨在の現実をもたらす神殿となられたので、私たちは一つの地理的な場所で礼拝する必要はなく、あらゆる国々に広がって「御霊と真理によって」礼拝を献げます(ヨハネ2:19; 4:24)。また、特定の食物や血に関する規定も、もはや神の民を汚すものではなくなったため、ユダヤ人が異邦人にも福音を伝えることができるようになりました。これは大宣教命令の成就につながります(マタイ28:19-20; 使徒10:9-14)。キリストに従う者にとって、律法は良いものなのです。
どれほど私は あなたのみおしえを
愛していることでしょう。
それがいつも 私の思いとなっています。(詩篇119:97)
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

