
イエスはいかにしてよみがえりでありいのちであるか
2025年12月12日(木)
イエスはいかにしてまことのぶどうの木か
2025年12月25日(木)イエスはいかにして道であり真理でありいのちであるか
編集者注:これはテーブルトーク誌の「イエスによる「わたしは〜です」」というシリーズの第四章の記事です。
何年か前のこと、ある著名な学者が、自身の歴史あるキャンパスにおける寛容な環境づくりを訴えているのを聞きました。そのとき、彼はこのようにも言いました。「わが大学は、不寛容に対する寛容を許さない」——この言葉の皮肉を聞き逃さないでください。皮肉なことながら、私たちは今、「寛容」を誇る時代に生きています。しかし同時に、どんな排他的な主張に対しても激しく嫌悪感を表す時代でもあります。そしてこの現象は、クリスチャンがキリストと救いについて排他的な主張をするとき、特に顕著に現れます。
聖書は、排他的な主張で溢れています。いのちと死の対極は、キリスト教信仰の根幹をなすものです。いのちの道と死の道が聖書全体を貫いており、それはカインの不信仰によるいけにえとアベルの信仰によるいけにえ、またエサウとヤコブの対比などに表れています。イエスご自身もまた、いのちと死を狭い門と広い門という表現で語られました。一方はいのちに至らせ、もう一方は滅びに至るのです(マタイ7:13-14)。狭い道はイエス・キリストご自身によって具現化されます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)。このような排他的な主張は、2世紀の『十二使徒の教訓(ディダケー)』、歴史的な信条や信仰告白、そして現代に至るまでのさまざまな聖書外の文献にも見られます。
ここで、一つの疑問が生じます。イエスはいかにして「道であり、真理であり、いのち」なのでしょうか? この問いに対する答えは二つありますが、その二つは互いに切り離せません。一つは客観的な答え、もう一つは主観的な答えです。客観的に、イエスは受肉された神であるゆえに、唯一の道であり、真理であり、いのちであられます。主観的には、イエスの救いは、イエスの人格とその御業を信じる信仰によって、一人ひとりに適用されるのです。
客観的に考えるなら、イエスは、その人格と御業において「道」であられます。それは、イエスが神であるからです。イエスの時代に生きたユダヤ人の指導者たちにとって、これは扇動的な概念でした。「わたしは〜です(I am)」という宣言は神性を表明する確固たる主張であり、彼らもそのことを理解していました(ヨハネ10:10-33)。イエスが道であるのは、イエスが神であると同時に、人となられたからでもあります。イエスは肉を取り、アダムによって私たちが陥った混乱から救い出す「道」となってくださいました(ローマ5章)。アダムが従わなかった正しくきよい道を、イエスは完全に従われました。イエスは「女から生まれた者」であったので、アダムの代わりを務めることができました(ガラテヤ4:4)。イエスは神であったので、完全ないけにえとして多くの人の罪を負うことができました(イザヤ53:12; 一ペテロ2:24)。イエスにあって、人は神と和解することができます(ローマ5:11; 二コリ5:18-21)。神であり人である方だけが、道となることができるのです。
客観的に、イエスはまた「真理」です。同じ福音書の中で、イエスはご自身のことばが真理の源であり(ヨハネ8:31-32)、真理が罪の束縛から人を自由にすると言われます(ヨハネ8:34-35)。イエスはこう言われます。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(ヨハネ8:36)。ここで、「人を自由にするのはイエスのことばではないか?」と疑問に思う人がいるかもしれません。しかし、生けることばであり、真理を与える方であるイエスご自身から、語られたことばと真理を切り離すことはできないのです。このような書き記されたことばの擬人化は、ヘブル人への手紙4章12-13節にも見られます。イエスは、真理です。それは、イエスが生けるまことの神であられるからです(エレミヤ10:10)。
ここで、「わたしはいのちです」というキリストの排他的主張に辿り着きます。聖書の冒頭から、神が語る方であり、万物は神のことばによる行為によっていのちを得たことがわかります。当然のごとく、キリストについてもこのように記されています。「万物は御子によって造られ、……万物は御子にあって成り立っています」(コロサイ1:16-17)。イエスは創造主です。しかし同時に、イエスはご自身の民のために新しい創造をもたらされました。つまり、イエスは罪人の救い主でもあります。もしキリストがことばによって万物を造られたのなら、ことばであるイエスは、永遠のいのちをも与えることができます。
詩篇には、まさにこれらの真理が記されています。いのちの道は、神の御前にあります(詩篇16:11)。同じ詩篇では、真理は聖徒を教える「助言」として示されています(詩篇16:7)。そしていのちは、聖徒を守る主にある避けどころとして描かれています(詩篇16:1)。詩篇119篇では、主は道を照らす光であるだけでなく、人生の道に真の意味を与えることばでもあられます。まさに、主こそが道なのです。
客観的に、受肉された神であるキリスト・イエスは、「道であり、真理であり、いのち」です。しかしこれは、いかにしてイエスが私たち一人ひとりにとって「道であり、真理であり、いのち」であるのかという問いには答えていません。イエスが「道であり、真理であり、いのち」であることは、なぜ私たちにとって意義深く、人生を変えるほどのことなのでしょうか? ただの史実にすぎないのはどうしてでしょうか? イエスの人格と御業は、どのようにして私たちの人生に適用されるのでしょうか? 答えは、恵みによって、信仰を通して、ただキリストのみにあってなされる、ということです。イエスは信仰によって、御父に至る道となられます。イエスの真理は、信仰によって私たちのものとなります。いのち、それも豊かないのちは(ヨハネ10:10)、信仰によって私たちのものとなります。イエスは罪人にとって、主観的に、信仰によって、これらすべてであられます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。イエスは遠く離れた神ではありません。信仰によって、私たちとともにおられる神です。
私たちの住む世界は、進むべき道、真理の現実、そしていのちの意味について、絶対的な疑いと不確実性に満ちています。しかし教会は、これらの疑問に希望をもって応答するのです。客観的に、イエスは道であり、真理であり、いのちです。それはイエスが、受肉された神であられるからです。ただ神のみが、これらすべて——道、真理、いのち——であることが可能です。主観的に、信仰という恵みの賜物によって、イエスは道であり、真理であり、いのちです。この信仰は、キリストとの結合をもたらし、キリストが父なる神との和解を与えてくださいます。これは絶対的な真理です。キリストにあるすべての人は、確信をもって、この真理を喜び楽しむことができるのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

