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2026年01月28日(木)どうすれば信仰は成長するか
編集者注:これはテーブルトーク誌の「クリスチャンの成長のための基本」というシリーズの第三章の記事です。
想像してみてください。嵐の海で溺れかけている男性に、命綱が投げられました。男性は必死の思いでそれを掴み、しがみつき、それに身を委ねました。恐ろしい波に揺られながらも、彼は何とか浮くことができました。それでも彼は恐怖と不安でいっぱいです。万が一、命綱が切れたら、彼は瞬く間に深い海に呑まれてしまうでしょう。ふとその時、命綱に小さな防水の冊子が付いていることに気付きます。不安に満ちた男性は——この状況にも関わらず——その冊子を読み始めます。そこには、自分が今掴んでいる救命具がいかにすばらしい製品であるかが記されていました。彼はその命綱の素材や設計の特徴を読み、それに備わった驚異的な浮力と信頼性を知りました。その製品がいかに入念に検査され、どんなに荒れた海の中でも重い負荷に耐えられるかを知りました。そして、この命綱を掴んでいる人で溺れた人は一人もいないということを読んだのです。これを読むうちに、彼は少しずつ自信を取り戻していきました。
男性はなおも、荒れ狂う海のただ中にいるでしょうか?——そうです。時折押し寄せる大波が、彼をまた不安にさせることもあるでしょうか?——もちろんです。これを読む前と比べて、彼の安全性や助かる保証は少しでも増したでしょうか?——いいえ、彼の安全性や助かる保証は、最初にその救命具を掴んだ瞬間からまったく変わっていません。ただ、その救命具があらゆる危険や困難の中でも自分を支え続けてくれるだろうという信頼が彼の中でよりいっそう深まり、増しているのです。そしていつか、海から引き上げられて安全に陸地へと辿り着くことができると信じられるまでになったのです。
このたとえ話は決して完璧なものではありませんが、信仰の成長との共通点がいくつかあるのではないでしょうか。罪人が最初にイエスを信じたとき、その罪人は救われ、守られています。誰にも、何ものにも、その人をイエスの御手から奪い取ることはできません。その人はこれ以上ないほどに安全です。しかしその人は、自分の安全を十分に理解していないかもしれません。キリストのもとに来るのに必要なだけのことは知っていますが、自分が近づいたこのキリストという方について、これからさらに知る必要があるのです。そして、自分が信じているこの救い主をより深く知れば知るほど、その信頼はどんどん増していきます。では、このような成長はどのようにして起こるのでしょうか?
まず第一に、霊的な成長は聖書を通して与えられます。この書物は、知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせるだけでなく、神の人を十分に整えられた者とさせます。クリスチャンは、いつでも福音が必要です。私たちはキリストから目を離さず、私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えるべきです(ヘブル3:1)。クリスチャンとしての歩みには、多くの罠や悲しみ、誤った教えによる妨げや惑わしがありますが、使徒たちは常にイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストを神の民の目の前に掲げ、彼らの信仰を励ましてきました。聖書に記されているキリストを学ぶとき、私たちは信仰の創始者であり完成者であるイエスを仰ぎ見ています。そのようにして、私たちの信仰は成長するのです。
信仰の成長のための第二の方法は、神に祈り、御霊が信仰をより強めてくださることを求めることです。信仰を与えるのは神であり、したがって信仰を強めてくださるのも神ご自身です。弟子たちは「私たちの信仰を増し加えてください」と祈りました(ルカ17:5)。悩める父親も叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」(マルコ9:24)。このような祈りは、真の信仰でも弱くも強くもなることを思い起こさせ、信仰が増し加えられる方法の一つはそれを求めることであることを示しています。その祈りに答えることを通して、キリストはさらにご自身を私たちに示してくださるのです。信仰の成長が与えられないのは、私たちが求めないからではないでしょうか?(ヤコブ4:2)
信仰が増し加えられるためのもう一つの美しい方法は、聖徒たちとの交わりです。この世は私たちの信仰を弱らせます。サタンは信仰を攻撃して私たちの目をキリストからそらし、真理を見えなくさせ、他のものに目を向けさせようとします。この攻撃に対抗する素晴らしい方法の一つが、神の民とともに時間を過ごし、神の国に属することについて語り合うことです(マラキ3:16-18)。そのような聖徒たちとの交わりの中で、天にあるものへの想いが新たにされ、回復し、互いに慰め合うことができます(一テサ4:18; 5:11)。
経験も、私たちの信仰を成長させます。。私たち自身の経験もそうですし、他の人々の経験もそうです。聖書を読むことで、神の民の信仰がさまざまな試練を通していかに増し加えられたかを目の当たりにすることができます。信仰の父アブラハムは、信仰の試練も勝利も経験しました(ローマ4:20)。詩篇の作者らは、神が昔に成し遂げてくださったことを思い起こし、自らを強めました。どの時代においても、他の信仰者たちがどのようにして主によって支えられ、助けられてきたかについて読んだり聞いたりすることは非常に価値のあることです。今までどんな荒波を受けても私たちを沈めることはなかったことを考えてください。その事実こそ、私たちの立つ岩が堅固である証拠であり、私たちの偉大なる「命綱」である方の力の証しです。
私たちを救うのは、単に私たちの信仰そのものではありません。主ご自身により頼むよりも、自分の信仰の強さを過信してしまう危険性もあります。私たちを信仰によって救ってくださるのは、キリストです。キリストこそが強い方であり、私たちの信仰はキリストにあるのです。私たちが信頼するのはキリストであり、私たちを救うのはキリストです。私たちがキリストに目を向けるなら、私たちの信仰は増し加えられるはずです。このことを、アイザック・ワッツは次のように表現しました。
あらゆる死の軍勢も
知られざる地獄の力も
怒りと憎しみの
恐ろしき姿が迫ろうとも
私は守られよう キリストゆえに
その力に勝るものはなく
守りの御手は慈しみ深い
1 聖歌『Join All the Glorious Names』、日本語訳は訳者による。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

