神の摂理の中で
2023年02月08日(木)
ウェストミンスター信仰告白に要約された神の摂理
2023年02月14日(木)
神の摂理の中で
2023年02月08日(木)
ウェストミンスター信仰告白に要約された神の摂理
2023年02月14日(木)

聖書に啓示された神の摂理

編集者注:これはテーブルトーク誌の「摂理」というシリーズの第二章の記事です。

ノンクリスチャンの人が「すべての出来事には理由がある」と言うのを聞いたことがありますか。私はあります。数えきれないほどです。私はこの言葉を聞くとき、どう反応したらよいのかわかりません。一方では、ノンクリスチャンが「目的のないことが起こるのはおかしい」と疑問を呈するのは嬉しく感じます。人は「物事にはなんの意味も無い」と信じることから、「人生には何の意味も無い」と信じることへ、そして自殺や反社会的行動という形で実を結ぶ完全な虚無主義(ニヒリズム)へと、あっという間にあっという間に転げ落ちかねないからです。他方で、ノンクリスチャンが「すべてには理由がある」と言うとき、適切な理由を念頭に置いていないことを私は知っています。ほとんどの場合彼らは、盲目で非人格的な力が全てを支配していると信じている、と告白しているのです。しかしながら、盲目で非人格的である「運命」がすべてについて理由を持ち合わせていると言えるのでしょうか。目的は、計画を立て、それに従う人格的な主体からしか生じません。もしすべてのことに理由があって起こるのなら、何かが、いや、むしろ誰かが、その理由を定めなければないのです。

クリスチャンとして、私たちは、人格的な三位一体の神がすべてのものを創造し、すべての出来事について計画を持っておられる故に、すべての出来事には理由があることを知っています。一羽の雀も御心なしでは地に落ちることができないほど、主はすべてを支配しておられます(マタイ10:29)。主は、ある事柄だけでなく、すべての事柄を御心のままに成し遂げられます(エペソ1:11)。これこそが神学者が言うところの「摂理」です。神はこの世に計画と目的を持っておられ、最小のものから最大のものまで、すべてがその計画と目的の達成に貢献するよう歴史を支配されるのです。神は単に歴史の受動的な観察者ではなく、特定の目的を達成するために歴史を設計し、その目的に必ず到達するように歴史を導いておられるのです。

運など存在しない

中身はどうであれ、全てのクリスチャンは神の摂理の教理を持ち合わせています。聖書は神が全てを支配しておられる、と明確に教えるからです。例えば大統領選挙、台風、世界大戦などの大きな出来事が主の支配の下にある事を否定するクリスチャンを私は知りません。しかし、聖書の教える摂理の教理は神の支配を歴史上の大きな出来事に限定しません。サイコロの出目のような些細な事まで神の支配下にあるのです。箴言16章33節には「くじは膝に投げられるが、 そのすべての決定は主から来る。」とあります。「サイコロを振る」ことは、古代の「くじを投げる」の現代版ですが、その結果は全く無為に思われます。しかしそうではありません。サイコロの出目は主がお定めになった通りの結果なのです。

しかし、当然ながら、神が定めたサイコロの目を出すにはいろいろなことが起こらなければなりません。ちょうどよい力加減で投げられなければなりません。力が強すぎると、サイコロは定められた目を超えて転がってしまいます。弱すぎればまったく転がらないかもしれません。だから、神はサイコロを投げる人の腕を制御して、ご自分の望む結果を得なければなりません。もし、少し風が吹いていたり、エアコンの吹き出し口の下でサイコロを投げていたらどうでしょう。どちらにしても、空気の力はサイコロの結果にわずかながらでも影響を与えることになります。これはもう一つ、主が定めた結果を得るために、支配しなくてはいけない事柄です。しかし、空気の動きは部屋の温度と関係があり、空気の動きは、空気中の分子の動きと関係していて、分子の動きは、分子の中の原子、そして究極的には素粒子によって決定されます。これらが、サイコロが主の選んだ数字を出すために必要な条件を作り出すための、ちょうどよい温度を作り出すために、ちょうどよい動き方をしなければならないのです。素粒子のレベルになると、物事は本当に複雑になってきます。

何が言いたいかというと、R・C・スプロール博士がよく言っていたように、すべての被造物の中には、主の主権的な支配と命令の外で動ける「独立独行な分子(Maverick Molecule)」は一つもない、ということです。もし、ほんのわずかなものでも狂えば、その影響は連鎖的にすべてを変えてしまうからです。結局のところ、スプロール博士が言われたように、運など存在しないのです。

日常的摂理

運など存在しないという事実は、私たちの日常生活の捉え方を劇的に変えるはずです。はっきり言ってしまいますが、私たちのほとんどは世の中の尺度で言えば重要な人物ではありません。両手で数えられるくらいの人達には、もしかしたら強い影響を与えるかもしれませんが、それでも死んであっという間に忘れ去られてしまうでしょう。そのため、私たちの行動は重要でない、あるいは、神は私たちの行動には関わっていないと考えるのは簡単です。神は世界の指導者には関わっておられても、それ以外の私たちが、おむつをとり替えたり、子供たちが悪さしないようにしたり、ローン返済のために長時間労働したり、近所の人と話したり、毎週教会に行くのに苦労したり、夜はひととき休んだり、赤ちゃんと何度も何度も何度も全く同じ遊びをしたり、次の試験のために一夜漬けしたりすることには関わっておられない、と考えてしまうかもしれません。

しかし、神の摂理という真理は、そうではないと私たちに教えてくれます。そもそも、摂理とは神が全てを支配し導いておられるだけでなく、全てを保たれている事をも意味します。例えばヘブル人への手紙1章3節は神が御子を通して「その力あるみことばによって万物を保っておられ」ると明らかにしています。神は万物を創造されただけでなく、万物を保っておられるのです。(ネヘミヤ9:6)最近、私が子供たちに話している事ですが、もし主が世界の存在を維持することを止められたら、私たちを含むすべてのものはたちまち無に帰してしまうのです。私たちはどの瞬間も、神様が被造物を保ち続けることに完全に依存しているのです。宇宙は自らの力で存続しているわけでは無いのです。

神が被造物を摂理的に保持されるという真理から、主は、私たちが平凡にすぎないと思っているものも含めて、あらゆる被造物に、大切な何かを見出している、と推測するのは適切な事です。私たちの創造主はつまらないことに時間と労力を浪費する方ではありません。私たちの平凡な生活や決断を含めて、主がすべてを保持しているということは、それらに価値がある事を意味します。この価値は、当然、私たちから得られるものではありません。神が私たちの益と神の栄光のために万物を働かせ、その主権的な計画の内にすべてを織り成すことから、価値は生み出されるのです。(イザヤ43:6-7; ローマ8:28)ローマ人への手紙11章36節にあるように、「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

つまり、神の統治と保持は、人生の比較的小さな出来事に現れるのです。夕食に魚ではなく鶏肉を選ぶこと、前庭に植える花を選ぶこと、野球ではなくサッカーを好むこと、近道の高速道路ではなく景色の良い回り道を選ぶこと、スタイリストに髪の毛を1インチではなく半インチ切ってもらうこと、娘にサッカーではなくバレエを習わせること、すべては究極的には主によって支配され、導かれているのであり、主の計画の中で価値があるのです。この真理は、私たちを萎縮させるものではありません。魚よりチキンを選んだからといって、神の王国がおかしくなるわけではありません。むしろ、そのような決断は、全ての条件が同じであれば、どうでも良いことなのです。鶏肉を食べることも、魚を食べることも、本質的に罪深いことでも、本質的に正しいことでもありません。しかし、そのような一見些細なことでさえ、私たちの選択は、私たちには理解できないほど、御国に影響を及ぼすのです。

別の言い方をするならば、神の摂理は日常生活の現実なのです。聖書は神が被造世界に全く関心を持たず、なんの関与もしない理神論を啓示してはいません。聖書が私たちに示す唯一の真の神は、私たちのすぐそばにおれるのです(エレミヤ23:23-24)。このことは、神が被造物とともにどこにでもおられるということを意味するだけでなく、被造世界の出来事や被造物の決定の内に、またそれらを通して、そばにおられるということを意味するのです。神の御手がこれらのことを保持し、ある事柄だけではなく、すべてのことが御心に従って、成されるように導いておられるのです(エペソ1:11)。

非日常的摂理

私たちのとるにたらない決断は神の計画を狂わせたりしないでしょうが、もっと大きな、より重大な決断や行動はどうでしょうか。これらも神の計画をダメにすることはありません。なぜなら、神の摂理は、日常的なことだけでなく、非日常的なこと-世界史の流れや神の国の広がりに影響を与えるようなことにおいても働かれるからです。主の摂理が日常的な事を支配しているなら、非日常的な事も支配している、と言わなければなりません。

ダニエル書2章21節には神が「王を廃し、王を立てる。」とあります。世界の為政者ほど歴史の趨勢(すうせい)に直接影響を与えるものはそう多くありません。王の台頭と没落は、神の歴史と民のための計画が成就するために、神の意図に従って寸分狂わずに起こるべき特別な出来事の一つです。この事を説明するため、ここでは紀元前538年にペルシャ王となったキュロス大王を取り上げます。

この出来事より200年前、キュロス王は生まれてすらおらず、ペルシャも世界の政治の表舞台に立つはるか前、ユダがバビロンに捕囚される前に、預言者イザヤは、キュロスが権力を手にし、バビロンを平定し、ユダの捕囚民を解放して、祖国に戻れるようにすると予見しました。(イザヤ45:1-13)しかしもちろん、こうなるためには、膨大な数の出来事と決断が特定の方向に進み、キュロスがペルシャの王となり、ユダヤ人が帰還できるように国を統治する必要がありました。まず、ユダがバビロンに捕囚されなければなりません。しかし、このことは、イザヤの時代世界に君臨し、無敵にも思える力を誇っていたアッシリア帝国を、バビロンが滅ぼさなければ起こりませんでした。ただ、バビロンがこのことを達成するためには、アッシリアの王たちが稚拙な判断を続け、バビロンがアッシリアよりも戦場で優位に立つようにならなければなりません。そのためには、バビロン内で優秀な軍師が台頭し、アッシリア王がお粗末な参謀の助言に従う、あるいは自ら誤った決断をしなければなりません。しかし、ふさわしい軍師がバビロンに出現するには、彼らがふさわしい教育を受け、経験を積まなければなりません。そのためには、その教育や経験を提供できるふさわしい家族のもとに生まれる必要があります。そして、その家庭は、正しい結婚の決断によってのみ形成されます。そしてこれらの必要条件をあげ始めると、きりがありません。そして、もう一方のアッシリアでも、お粗末な人物を要職につけるために似たような出来事の連鎖が必要です。

キュロスが力を得るには、まず存在しなくてはなりません。そのためには子供を産むためにふさわしい二人が夫婦にならなくてはなりません。そのためにはキュロスの父と母の家族がそれぞれ結婚を承諾しなくてなりません。キュロスを身籠るためには、父も母も出産適齢期まで生きなければならないので、事故、病気、その他キュロスが生まれる前に死んでしまうかもしれない出来事から守られなくてはなりません。そのためには、キュロスの祖父母が、キュロスの父母を育てる上でふさわしい決断をしなくてはなりません。そのためにはキュロスの曽祖父母がキュロスの祖父母を育てる上でふさわしい決断をして、、、これが延々と続くのです。

話を単純化していますが、要は、キュロスのような人物の台頭やユダヤ人の解放を、神が定め、支配するには、親の決断や個々人の経歴のような微細な事柄まで支配する必要があるということなのです。この支配は遺伝子レベルにまで及びます。キュロスが権力を握ることができるまで、彼の免疫系が彼を生かさなければ、王になれないからです。もし、ほんのわずかでも狂いが生じれば、例えば致命的な病気に至る遺伝的傾向をキュロスが受け継いでしまえば、すべてが失われてしまうのです。

意思を決定し、行動をとることは連鎖的な影響があります。ある特別な出来事に関わった人々の歴史を遡ると、その出来事を引き起こす決断をするためにちょうど良い人物が、ちょうど良いタイミングで、ちょうど良い状況に置かれるために、無数の異なる人々による何百万もの小さな決断が収束して初めて、その出来事とその人が現実のものとなることがわかります。預言の通りにメシアがダビデの家系から生まれるためには(イザヤ11:1-10)、ダビデの血筋がメシアの誕生まで生き残らなければなりません。そして、ダビデの家系に属す人々の無数の決断と、彼らがコントロールできない他の要因が、何らかの形で寄与しなければ、ダビデの家系は途絶えてしまうのです。 このことは、ルツ記を読めば明らかです。一見偶然のような出来事の連続が、ダビデの先祖であるボアズとルツの結婚に繋がっているのです。つまり、神の摂理は、日常的な事柄も支配してこそ、非日常的な事柄にも作用し、神の計画を実現させるということなのです。すべての出来事には理由があります。なぜなら、神はすべてのことを、理由があって手配されるからです。

私たちの内に、そして私たちを通して働かれる摂理

このことから私たちが学ぶべきなのは、鶏肉料理か魚料理を選ぶことは、それ自体普段は倫理的な、あるいは直ちに影響がある決断ではなくても、究極的には無意味な決断ではない、と言うことです。例えば、この決断が、将来の子孫がアレルギーを持つ遠因となるかもしれません。そして、その子孫がシーフードレストランではなく、コーヒーショップに足を運び、そのコーヒーショップのコーヒーが大好きな近所の女性に出会い、結婚し、影響力のある伝道者、裁判官、あるいは世界の歴史を作る大統領を産むかもしれないのです。もし、その先祖が魚よりチキンを選んでいたら、あるいはその逆であったら、このリーダーの両親は決して出会うことがなかったのです。

同時に、神は摂理によって全てを支配していながら、世界を操る大いなる人形師ではありません。私たちの決断は本当に私たちのものであり、私たちの動機は重要なものであり、私たちは歴史の流れに影響を及ぼすのです。主は私たちの決断、行動、そして動機の内に、そしてそれらを通して、働かれます。これらは私たちの決断、行動、動機であり続けながら、神の目的の成就に向かって働くのです。私たちの決断、行動、動機は、神が定められたことを実現するために、人間と神、それぞれの行為者の性質に従って、共に働くという意味で、神の決断、行動、動機と合致するのです。神学者はこれを「合致の教理(Doctrine of Concurrence)」と呼びます。聖書中のいくつかの例を見て、学ぶのが一番良いでしょう。

典型的な例として、ヨセフの生涯、特にヨセフが自分の経験を総括している場面を挙げることができます。兄たちに奴隷として売られ、エジプトでのひどい仕打ちに耐え、ファラオの右腕にまで上り詰め、家族と和解したヨセフは、兄たちに「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」(創世記50:20)と言いました。ヨセフの兄弟がヨセフを奴隷として売ったとき、兄弟にはヨセフを始末したいという罪深い思惑しかありませんでした。それが彼らの動機であり、行動の理由でした。しかし、主は別の計画をお持ちでした。主はヨセフをエジプトに連れて行き、ヨセフがやがてファラオの宮廷に入り、世界を飢饉から救うだけでなく、特に選民であるアブラハムの血筋を救おうとされたのです。この善意を達成し、有益な結果を得るために、神はヨセフの兄弟たちが悪意を持ち、罪深い行いをすることを許可し、ヨセフがエジプトに入ることができるようにされたのです。神は、自らは悪意を持たず、悪を行わずに、このようなことをされました。しかし、兄たちと主の意図と行動は根本的に異なりながらも、ヨセフがエジプトに送られるように合致したのです。

スプロール博士は、摂理について教えるとき、しばしばヨブ記1章を取り上げて、合致(concurrence)について説明しました。その章において、サタンはヨブを滅ぼそうとし、主はサタンがヨブを攻め狙うことを許され、カルデア人はヨブのラクダを奪います。 すべてが重なり、ヨブは大きな損失を被りますが、登場人物はそれぞれ違うことをし、違う動機を持っています。サタンはヨブが主の忠実なしもべであることを否定しようとし、ヨブに対して陰謀を企てます。主はヨブを忠実なしもべだと証明するために、サタンがヨブに対して行動することを許します。カルデア人は神とサタンの対話を知らず、ただ裕福な人物を見て、その富を自分のものにしたいと思い、ヨブから奪います。これらは全て異なる理由で起こります。しかし、サタンがヨブの信用を貶めようとし、神がサタンの働くのを許可し、カルデヤ人がヨブの富を見て欲しがらない限り、ヨブは経済的な損失を被ることはないのです。ヨブの苦しみは三つの要素が重なってもたらされますが、神は終始、聖なる、正しい存在であり続けるのです。

この教理の最も良い例は、私たちの主であり救い主なる方が十字架に掛かったことでしょう。この出来事に関わった様々な人物を調べてみると、様々な動機と行動があることが分かります。(後述の例では、三位一体の三位格が最終的には同じ動機を共有し、それぞれが他の位格の行為にも関っていることに留意する必要がありますが、救いの実現において、それぞれの位格がが特定の働きをになっていることを強調することもできます。)ユダがイエスを裏切ったのは、金銭的な動機があったからです。ユダヤの権力者たちは、イエスが賞賛されていることを好まず、イエスからの批判を脅威に感じていました。ローマ当局は、ユダヤ人たちの論争が反乱に発展しないように、論争を止めさせたかっただけです。サタンは、キリストの宣教と悪魔の王国に対する攻撃に終止符を打ちたかったのです。イエスは、ご自分の民の罪を贖うため、そして父に従うために、進んで十字架にかかられました。御父は、ご自分の民を救うという約束を果たすために、イエスを十字架に遣わされました。聖霊は、贖いが有効に成し遂げられ、救い主が栄光を受けるように、十字架上のイエスを支えられました(イザヤ53; マタイ26:3-5, 14-16; 27:24-26; ヨハネ3:16; 11:45-49; ローマ8:32; ヘブル9:14; 黙示12:4)。救済史上最も重要な行為である贖罪が成されるために、すべての者が行動しなければなりませんでした。それぞれが動機と行動を異にしながらも、すべては主の計画と目的を実現するために合致したのです。神は、個々の行為者の意志に反したり、悪を行うことなく、このすべてを支配されたのです。ペテロがペンテコステの日に聴衆に向かって言ったように、「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺した」(使徒2:23)のです。

全てには理由がある

神の摂理とは、大きなことも小さなことも、善いことも悪いことも、すべて理由があって起こるということです。なぜなら、神は摂理において、ご自分の完全に良い御心の計画に従ってすべてのことを働かせておられるからです(エペソ1:11)。 神の摂理についてさらに多くのことが言えるでしょうし、これに続く記事で、さらに多くのことが語られるでしょう。しかし、私たちは聖書の教えの基本を確認しました。神の摂理は、日常的なものにも非日常的なものにも及び、被造物が行うことの中にも、またそれらを通しても働くのです。実際、神はすべての出来事に主権を持ち、たとえ私たちが見分けることができなくても、すべてに目的を与えているのです。しかも、そのすべてを支配する主権的な摂理は、私たちの行いを無意味にするものではありません。むしろ摂理なしには、何も意味を持たないのです。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル牧師は、テーブルトーク誌の副編集長、リゴネア・ミニストリーズのシニアライター、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeの非常勤教授を務めている。2021年のテーブルトーク誌のコリント人への手紙第一、第二の日課の学びを執筆。