シオン
2023年11月01日(木)
栄光に満ち満ちた、私たちの救い主
2023年11月28日(木)
シオン
2023年11月01日(木)
栄光に満ち満ちた、私たちの救い主
2023年11月28日(木)

編集者注:これはテーブルトーク誌の「誤解されている聖書の言葉やフレーズ」というシリーズの第十二章の記事です。

例えばあなたが、シモン・ペテロのように、「イスラエルが慰められるのを」待ち望みながらイエスの公の宣教の時代に生きる、標準的で忠実なユダヤ人だとしましょう。あなたは多くの奇跡や驚くべき御業を目の当たりにし、卓越した教えを聞きました。このイエスとは一体どういうお方なのでしょうか? 預言者より優れたお方であることは間違いありません。モーセよりも優れています。ペテロはこのように結論付けざるを得なくなります——このお方はメシアに違いない、地上における神の国を再建する約束された王、油注がれたお方だ、と。イエスは、その通りだと言われます。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」(マタイ16:18)。

この「門」という一語が呼び起こすイメージがあります。いやむしろ、イメージや体験、そこに関連するさまざまな事がらの連なりが、本来この言葉から得られるのですが、現代の読者には伝わらないかもしれません。この預言的な言葉を黙想するペテロの脳裏には、二つの王国の間で行われる宇宙規模の戦争が映し出されていたことでしょう。王国の一つは死と闇で築かれ、大きな鉄格子の門で守られて包囲された王国、もう一つは生ける石で築かれた勝利の王国で、大きく開かれた門に囲まれ、その平和と光を享受せよと大勢の人々を招き入れています。

あなたの想像はこれほど豊かなものではなかったかもしれません。しかし聖書に出てくる「門」を学ぶことで、勝利の神の都をよりイメージしやすくなるはずです。

現代の読者は、よみの「門」という比喩的な表現を理解するにはやや不利な立場にあります。比喩は、実体験からしばしば描かれるものですが、現代の都市に字義通りの「門」はもう見られなくなりました。「門」という言葉を聞いても、古代の読者がただちに連想することを私たちも同じように想像することはできないのです。古代の都市は周囲から守られなければならなかったため、ほとんどの場合城壁のようなもので囲まれるようになっていました(申命3:5)。このような城壁の門は、主要な出入り口として機能したほか、人と会ったり談話したりする場所(二サム15:2; 詩篇69:12)、主要な市場(二列王7:1)、公の告知や法的な声明を宣言する場所(ルツ4)、都の住人の集まりや祝いの場として(士師5:11)用いられていました。つまり、古代の世界の「町の中心街」や「公共の広場」は、都市の中心ではなく、たいてい門のある端の方に位置していました。したがって、門は都市全体を象徴する存在であり、都市の住民、文化、ステータス、名声、暮らしのシンボルでした。ですから、神がご自身の民に安全と安心と平和と繁栄を約束されたとき、神は高い城壁と強い門のある都を約束されたのです(黙示21:9-27)。

そうだとすると、神が私たちのために描かれる天の都の門が大きく開かれているのは、非常に興味深いことです。「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入ってこられる」(詩篇24:7)。ここで詩篇の作者は、神の聖所を都のようなものとして表現しています。王が都に入るとき、門は大きく開かれて王を迎え入れます。詩篇の言葉は祝福と勝利に満ちています。「万軍の主」が都に入られ(詩篇24:10)、このお方が都の城壁を守り、その安全を保証してくださるからです。ヨハネの黙示録ではさらに強調した表現が見られます。新しいエルサレムの高い城壁には十二の門があり(これはかなり多い数です)、これらの門は「一日中、決して閉じられない。そこには夜がないからである」と記されています(黙示21:25; ヨシュア2:5参照)。十二の門は常に開かれており、誰もが「諸国の民の栄光と誉れを都に携えて来る」ように、自由で妨げられることのない行き来が許されています(黙示21:26)。なんとたくさんの門でしょうか! しかも、いつでも開いているのです。輝かしく堂々とした確信と、安心と、平和と、一致の現れです。

これと対照的に、よみの門は閉じられています。悪魔はそれこそが力のしるしだと思い込ませようとしますが、現実には、門を閉じさせているのは恐れに他なりません。キリストと、キリストの教会に対して、「よみの門もそれに打ち勝つことはでき」ないのです。ここには、サタンの都が包囲され、天の軍勢と神の民を前に崩れ落ちる門が描かれています(黙示12章参照)。正確には、よみは強い要塞でも繁栄した都でもなく、「牢」として理解されるべきです(20:7)。この都の姿をした牢がついに滅ぼされるとき、そこに住む悪霊の市民は「火と硫黄の池に投げ込まれ」、もう決して神の祝福された民を害したり妨げたりすることはできません(10節)。神をほめたたえようではありませんか! 主よ、すぐに来てください! 「門よ おまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ 上がれ。栄光の王が入ってこられる」(詩篇24:7)。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

トーマス・キーン
トーマス・キーン
トーマス・キーン博士は、ワシントンD.C.にあるReformed Theological Seminaryで新約聖書の准教授および学部長を務めている。