牧会は三一の神に倣う働き
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2023年12月04日(木)キリスト者は完全に堕落しているのか?
編集者注:これはテーブルトーク誌の「イエスの時代のユダヤ文化」というシリーズの第十章の記事です。
かつてジョン・ニュートンは、キリスト者の罪の体験をこのように要約しました:
私はあるべき自分ではない。あぁ!私はなんと不完全で足りない者であろう!私はありたいと願っている自分ではない。私は悪を憎み、善を貫きたい。私はなりたいと望んでいる自分ではない。間もなく、間もなく、私は死すべき身体を脱ぎ捨て、死とともにすべての罪と欠けを捨て去るだろう。しかし、私はあるべき自分でも、ありたいと願う自分でも、なりたいと望む自分でもないが、かつてそうであった私—罪とサタンの奴隷であった私—ではないと、心から言うことができる。そして、使徒と共に「神の恵みによって、私は今の私になった」と心から認めることができるのだ。
これらの言葉は、真の信者が自分自身をどのように見るべきかを美しく示しています。つまり、福音を通して私たちを新生させる神の恵みに照らして、です。
私たちは、もはや以前の私たち(完全に堕落している)ではありません。しかし、私たちはまだ、いつかなる私たち(残りの堕落から完全に解放される)でもありません。キリスト者として成長するには、この真実を理解しなくてはなりません。
ウェストミンスター信仰告白は、全人類の全的堕落が何を意味するか、次のように説明しています。「わたしたちをすべての善に全くやる気をなくさせ、不能にし、逆らわせ、またすべての悪に全く傾かせているところのこの根源的腐敗から、すべての現実の違反が生じる」(ウェストミンスター信仰告白 6.4)。カルヴァン主義の特質を要約する逆頭字語「TULIP(T:全的堕落、U:無条件的選び、L:限定的償罪、I:不可抗的恩恵、P:聖徒の堅忍)」における全的堕落の教理を振り返って、ジョン・ガーストナーはこう述べました。「全的堕落は我々が唯一TULIPに貢献しているものだ。私たちは、汚れた土壌であるが、神が花を植えるための汚れた土壌であり、汚れた私たちから神が神秘的な美を生み出されるのだ。」私たちを贖ってくださる神の恵みの必要性に気が付くためにはまず、自分が生まれながらにして、すべてにおいて堕落しており悪である、という聖書の教えを受け入れなければなりません。
イザヤは旧約のイスラエルを非難した時に、その堕落の度合いをこうまとめましました。 「足の裏から頭まで健全なところがない」(イザヤ1:6)。エレミヤは人間の罪深い心の欺瞞を「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレミヤ17:9、口語訳)と説きました。使徒パウロは詩篇を引用して、「『義人はいない。一人もいない』」(詩篇14:1; 53:1; ローマ3:10)と証言しています。アダムから人間的に産まれた者はすべて「背きと罪の中に死んでいる」(エペソ2:1)のです。私たちの心、意志、感情、愛、良心は、罪によって徹底的に汚されているのです(エペソ4:17; テトス1:15-16)。私たちの能力はすべて、生まれながらにして不義の道具なのです(ローマ6:19)。
キリスト者はキリストとの結合によって罪の力から根本的な決裂を経験したのです。
(私たちの主イエスを除く)すべての人類は最初のアダムにあって堕落し、全く腐敗しているので、人々は最後のアダムに、その死と復活によって、主権的に義と認めていただく必要があるのです(ローマ5:12-21、二コリ5:21、ガラテヤ3:10-14)。キリストにあって、神はご自身の民を「暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(コロサイ1:13)。恵み深いことに、神は御霊の働きによって、信者を変えてくださいました。これは、御子によって確保された贖いに基づくものです。『Human Nature in Its Fourfold State(人間の四重の状態)』という本において、トーマス・ボストンは人を新生させる神の働きの力強さをこう説明しました。
原罪は病のように人間のすべてに影響する。人を新生させる恵みはそのための良薬であるが、恵みは原罪が人間に冒したところすべてに行き届く。真の信仰を知り、理解するための新しい頭だけではなく、それについて語るための新しい舌だけでなく、人生すべてにおいて真の信仰を愛し受け入れるための新しい心を与えられるのである。
信者は「あらゆる悪に傾いている」状態にあり続けるのでは全くなく、神の霊によって「御前でみこころにかなうこと」を行うために新たにされたのです(ヘブル13:21)。私たちは今や主にふさわしく歩むことができ(コロサイ1:10)、神を喜ばすことができるのです(一テサ4:1)。テトスに当てた手紙で使徒パウロは、贖われた者たちが神の恵みによって正しく生きることができる理由を説明しています。
実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、 祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(テトス2:11-14)
これは眩いばかりの真実ですが、キリスト者は回心した後も、聖化の一環として、内住する罪と戦い続けます。ウェストミンスター信仰告白はこう述べています:「この本性の腐敗は、この世にある間は、再生した者の中にも残存する。それは、キリストによってゆるされまた殺されはするものの、それ自体もそのすべての活動も共に、まことにまさしく罪なのである」(6.5)。
ローマ人への手紙6-8章は聖化の過程を明らかにしています。6章1-23節においてパウロはキリスト者はキリストとの結合によって罪の力から根本的な決裂を経験したのだと言います。7章13-25節において、内住する罪との継続的な戦いを説明します。そして8章1-11節において、聖霊の力によって、残る罪を殺化するように命じます。使徒パウロはキリスト者はもう「全的」堕落の状態にはないということと、キリスト者にはまだ「本性の腐敗」が内に残っていると同時に教えているのです。
キリスト者とその人の罪の関係について聖書全体が語っていることを考慮するとき、私たちが過去どのような者であり、現在どのような者であり、将来どのような者になるか正しく理解することができます。私たちはニュートンと声を同じくして言うことができます。
「私はあるべき自分ではない。私はありたいと願っている自分ではない。私はなりたいと望んでいる自分ではない。」しかし使徒と共に「神の恵みによって、私は今の私になった」と心から認めることができるのです。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。