神の子羊なるイエス・キリスト
2023年06月03日(木)
心のきよい者は幸いです その人たちは神を見るからです
2023年06月08日(木)
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マルティン・ルターの神学が意味する四つのこと


神の主権、恵みによる救い、信仰義認、キリストとの結合による新しいいのちはキリスト者として生きることとどう関係があるのでしょうか。マルティン・ルターによれば、4つの意味合いがあります。

1. キリスト者は義と認められているが罪人でもある

一つ目の点は、キリスト者は義と認められていると同時に罪人でもある、(ラテン語でシムル・ユストゥス・エト・ペカトール、simul iustus et peccator)という点です。もしかしたらマルティン・ルターはヨハン・タウラーのドイツ神学大全(Theologia Germanica)に触発されて見出したのかもしれませんが、ともかくこの原則は、とても安定をもたらす原則です。私自身は、罪人です。しかし、キリストの中にある自分を見るとき、私はキリストの完全な義によって義と認められた人を見るのです。そのような人は、イエス・キリスト特有の義を纏うからこそイエスと同じように正しい者として神の前に立つことができるのです。この揺らぐことのない土台の上に、私たちは安心して立つことができます。

2. キリストにあって神は私たちの父となられた

二つ目の点は、キリストにあって神が私たちの神となられたという点です。私たちは神に受け入れられているのです。ルターの『卓上語録(テーブルトーク)』の中で最も美しい記録は、特筆すべきことに、ややメランコリックでありながら、多くの人に愛されたジョン・シュラギンハウフェンによる記録でしょう。

神様は、私のケイティがマーティンちゃんにするよりも、ずっと親しく、私に語りかけてくださるに違いありません。ケイティも私も、故意に子どもの目をえぐり取ったり、頭を引きちぎったりすることはできません。神様もそうでしょう。神様は私たちに忍耐を持っておられるはずです。その証拠に、神様は、私たちが神様に私たちの最善を求めることができるように、御子を私たちと同様の肉体のうちに遣わされたのです。

3. キリスト者の生涯は初めから終わりまで十字架を背負ったものである

第三に、ルタはーキリストにあるいのちは十字架の下にあるいのちであると強調します。キリストと結び合わされているなら、私たちのいのちはキリストのいのちに倣うはずです。真の教会、真のキリスト者の道は「栄光の神学(theologia gloriae)」ではなく、「十字架の神学(theologia crucis)」なのです。このことは、私たちが自分に死ぬという内面的な影響と、教会の苦難にあずかるいう外面的な影響を与えます。中世において顕著だった栄光の神学は十字架の神学によって克服されなければならないのです。ルターとカルヴァンは、聖餐の本質が何なのかについての理解の相違はありましたが、この点においては一致していました。もし私たちがキリストの死と復活においてキリストと結ばれ、(パウロがローマ人への手紙6章1-14節で教えているように)洗礼によってそのように印を押されたのなら、キリスト者の生活全体は十字架を背負うものなのです。

キリストの十字架は、キリストが肩に担ぎ、その後釘付けにされた木片を意味するのではなく、その苦しみがキリストの苦しみである、信仰者のすべての苦難を意味するものです。コリント人への手紙第二1章5節:「私たちのうちにキリストの苦難があふれている」また 「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしている。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしています(コロサイ1:24)。したがって、キリストの十字架は、教会がキリストのために受けるすべての苦難を意味します。

ルターにとって、キリストの死と復活における信者のキリストとの結合と、それが日々の体験の中で発揮されることは、キリスト者が人生のあらゆる体験を見るために学ぶためのレンズなのです。この「十字架の神学」こそが、すべてのものをより鮮明にし、キリスト者の生活の浮き沈みを理解することを可能にするのです。

私たちに敵対する人々が私たちを残酷に迫害し、破門(除名)し、殺すのを見て、悲しみに飲み込まれたり、絶望に陥ったりしないように、これらのことを知ることは私たちにとって有益なことです。しかし、パウロの例にならって、私たちは、自分の罪のためではなく、キリストのために負う十字架を栄光としなければならないと、考えようではありませんか。私たちが耐えている苦しみを、自分自身だけを通して考えるなら、それは悲しむべきものであるばかりか、耐え難いものです。 しかし、「(キリストよ)あなたの苦しみは私たちのうちに満ち溢れています」、あるいは詩篇14篇にならい「あなたのために 私たちは休みなく殺され 屠られる羊と見なされています(22節)」と言う時、これらの苦難は楽であるばかりか、甘美でもあります: 「私の重荷は軽く、私のくびきは甘い」(マタイ6:30)のです。

4. キリスト者の人生は確信と喜びがその特徴である

第四に、キリスト者のいのちは確信と喜びがその特徴です。これは宗教改革の特徴の1つであり、そうであるのも当然のことです。義認をめぐる宗教改革の再発見は、義認に到達するために努力するのではなく、キリスト者の人生は実際には義認から始まるという事実ありで、この事実は圧倒的解放をもたらし、人の心と意志と感情を喜びで満たすものです。それは、栄光の中にある、揺らぐことのない未来の光の中で生き始めることができることを意味します。その光は、必然的に現在の生活に反射し、強い安心と解放をもたらします。

義認をめぐる宗教改革の再発見は、義認に到達するために努力するのではなく、キリスト者の人生は実際には義認から始まるという事実ありで、この事実は圧倒的解放をもたらし、人の心と意志と感情を喜びで満たすものです。

ルターにとって、キリスト者の生活は、福音に根ざし、福音によって建てられ、福音を拡大する生活です。それは、神の自由で主権的な恵みを示すものであり、死が勝利に飲み込まれ、目に見えないものが目に見えるものとなるその日まで、私たちのために死んでくださった救い主に感謝し、キリストに結び合わされ十字架を背負って生きるものなのです。

1552年のある日曜日、ボルナにある教会の座席に座ってルターの説教を聞いていた何人かは、「マルティン修道士をこんなにも興奮させている、否、変えてしまった『福音』とは何なのだろうか」と疑問に思ったかもしれません。「福音とは修道僧ではない平信徒の私たちにも何か関係あるのだろうか」と。ルターは彼らの心を見透かしていました。ルターは彼らの疑問に答えるために万全の備えをして教壇に立ったのでした。

しかし、福音とは一体何であろうか。福音とは、神が罪人を救い(ヨハネ3:16)、地獄を潰し、死打ち勝ち、罪を取り除き、律法の要求を満たすために、御子を世に与えられたという事実である。しかし、救いのために私たちは何をすべきなのか。このことを受け入れ、贖い主を仰ぎ見て、贖い主があなたのためにすべてを行い、あなたのものとしてすべてを惜しみなく与えてくださることを固く信じる以外にない。これは、死と罪と地獄の恐怖の中で、あなたが自信を持って、大胆に頼って、こう言うことができるようにするためである: 「私は律法を満たしておらず、罪もまだ存在し、死と地獄を恐れていますが、それでも私は福音から、キリストがそのすべての業を私に授けてくださったことを知りました。私は、キリストが嘘をつかず、その約束は必ず果たされると確信しています。そして、そのしるしとして、私は洗礼を受けたのです。このことに私は信頼を置いています。私の主であるキリストが、私のために死、罪、地獄、悪魔に打ち勝ったことを、私は知っているからです。ペテロが、「キリストは罪を犯したことがなく、 その口には欺きもなかった」と言うように、キリストは無実であったからです(一ペテロ2:22)。それゆえ、罪と死はキリストを殺すことができず、地獄はキリストを捕らえることができず、キリストは彼らの主となり、これを受け入れて信じるすべての人にこの勝利を与えたのです。 これはすべて、私の働きや功績によるものではなく、純粋な恵み、善意、慈悲によるものです。」

ルターはかつて、「もし神が私に怒っていないと信じることができたら、私は喜びのあまり逆立ちするだろう」と言いました。おそらくその日、ルターの説教を聞いた人の何人かはそれに応え、ルターが語った「確信」を経験したことでしょう。もしかしたら若い聴衆の中には、後に友人たちに順番に手紙を書いて、「家に帰って喜びのあまり逆立ちをした」と報告した人がいたかもしれませんね。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン
シンクレア・B・ファーガソン博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Reformed Theological Seminaryの組織神学の総長教授。以前はサウスカロライナ州コロンビアのFirst Presbyterian Churchで主任牧師を務めていた。彼の著書は25冊を超え、『The Whole Christ』、『The Holy Spirit』、『In Christ Alone』、『Devoted to God』などがある。