改革派神学を理解するための重要な文脈
2024年01月11日(木)

TULIPとは何か


チューリップと神の愛と何百年も受け継がれてきた救済論にはどんな共通点があるのでしょうか。それはカルヴァン主義の5特質として知られるものにあります。

これらのことはどう繋がっているのでしょうか。TULIPという言葉は、神の愛を中心とする、救いについての特別な理解を要約する折句(acrostic)を形成しています。その仕組みを見てみましょう。

全的堕落(Total Depravity)

Tは全的堕落(total depravity)の略です。全的堕落とは、罪が人間にどのような影響を及ぼすかを表しています。しかし、これを理解するには、世に罪が入る前から始めなくてはなりません。三位一体の私たちの神は永遠に父、子、聖霊として存在され、力と栄光において等しく、始まりも終わりもない聖なる愛の関係を喜んでおられました。この聖なる愛が、世界を創造し、神と互いを愛するように、ご自身のかたちとして男と女を創造するという神の自由な決断の原動力でした。しかし、アダムは創造主を拒むことを選び、アダムの不従順によって、人類は罪に堕ちました(創世記3章; ローマ5:12-21)。全的堕落とは、罪が私たちのすべてを捻じ曲げ、私たちは神の恵みなしには、神を愛せず、他のものを愛してしまうことを意味します。私たちの知性、身体、情愛、霊魂も含む私ちのすべてが罪の影響下にあり、自分の力によってはこの窮状から逃れることはできないのです。しかし、神はお造りになった世界を愛することをやめてはおられません(ヨハネ3:16)。神は愛によってこの世の罪を抑制し、私たちが悪の限りを尽くす者とならないよう、私たちを止めてくださるのです。キリストを知らない者が、外面上は善い行いをすることができるのはこのためです。神の恵みによって、彼らは例えば良き隣人、子らを愛する親たり得るのです。しかし、神の恵みなしには誰もこれらのことを正しい動機で、つまり神を愛し神に栄光を帰すために、することはできないのです。

無条件的選び(Unconditional Election)

Uは無条件的選び(unconditional election)の略です。無条件的選びは、私たちの全的堕落に対する神の解決策の一部です。私たちが罪に堕ちたことは、神にとってサプライズではありませんでした。神は終わりから初めを知っておられ、万物に対する計画と目的の達成の一部として、歴史を定められました(イザヤ46:8-11; エペソ1:11)。たとえ、神が私たちを罪と神との離別の状態にとどめておいたとしても、神は正しいお方です。しかし、主はご自分の民に特別な愛を注ぐことにされました。彼らを贖い、神の子としての地位を回復させることを選ばれたのです。無条件的選びとは、神が特定の罪人を、救いのために、その罪人の持つ善の有無に関わらず、愛をもって選ばれることです(ローマ9:1-29)。私たちを救う神の愛は、私たちの知性、容姿、優しさ、社会的地位、その他の何にも左右されません。神がご自分の民を愛されるのは、彼らが他の者より罪深くないからではありません。アダムとエバの子孫は皆(キリストを除いて)罪人です。無条件的選びは、神が、ある人々は救いのために選び、他の人々は見過ごされることを意味します。神はある人々に対して持っておられる愛をその他の人々に対しては持っておられないのです。もしあなたがクリスチャンなら、それはあなたが生まれるずっと前の永遠の過去に、神があなたを救う愛で愛することを決めてくださったからです。神があなたを選んでくださったのは、あなたが他の人よりも優れていたからではありません。神があなたを選ばれたのは、機会があればあなたが神を信じることを神が知っておられたからでもありません。神があなたを選ばれたのは、神があなたを愛すると決められたからです。神は決してあなたを愛することをやめません。あなたに対する神の愛はあなたの中にあるものに影響されることはないからです。

限定的贖罪(Limited Atonement)

Lは限定的贖罪(limited atonement)の略です。限定的贖罪とは、救いのためにキリストが死なれることの背後にある神のみこころを表します。キリストはこれまで生きてきたすべての人の罪を贖うつもりだったのでしょうか。それとも、選民の罪だけを贖うつもりだったのかでしょうか。別の言い方をするならば、神は人を個人的ではなく、人類として愛し、個人の救いの可能性を提供するために、キリストを死ぬために遣わされたのでしょうか。それとも、神は特定の個人個人を愛し、彼らのためだけに御子を死ぬために遣わし、彼らの罪を完全に贖ってくださったのでしょうか。つまりキリストの死は特定の人々の救いを(可能性を提供するだけでなく)実現し保証するものなのでしょうか。

クリスチャンは、自分がキリストを救い主として信じているのは神のみわざだということに安らぐことができます。絶えることも果てることもない神の愛による神のみわざは達成されないことがないからです。

限定的贖罪は神の義の必然的帰結です。もし罪が償われたなら、罪はさばかれ、神はもう私たちにその罪を負わせることはありません。しかし不信仰は罪です。ですから、もしキリストがすべての罪人のために死なれたのなら、どうして神は人々の不信仰をさばくことができるのでしょう。何しろキリストはその罪を償ったのですから。しかし、実のところ神はキリストを救い主として信じない者を地獄へ送ります。もし彼らの罪が(不信仰の罪さえ)償われているのなら、これは不義です。キリストが償い、もう彼らに負わせることのできない罪を神は彼らに負わせておられるからです。

聖書は明確に限定的贖罪を教えています。旧い契約において、宥めの日(大贖罪日)にイスラエルの祭司はイスラエルの民のためだけに宥めのいけにえをささげました(レビ記16章)。地球上の全人類のためではありません。新しい契約においてイエスは、ご自身の羊のために、ご自身の羊のためだけにご自身のいのちを捨てると語られました(ヨハネ10:1-18)。ある人たちはイエスの羊ではなく山やぎです。イエスはやぎではなく羊のために、ご自分の民のために死なれたのです。ところで、ある人たちはヨハネの手紙第一2章2節にイエスが「私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物」であると書いてあるのを引き合いにして限定的贖罪を否定する人がいます。しかし、この箇所は贖罪の意図についてではなく、救いの道について書いているのです。神はキリストという道しか私たちに救いの道を与えておられません(ヨハネ14:6)。もしこの世で救われる人が起こされるなら、それはイエスを通して救われるのです。他に救いの道はありません。ヨハネの手紙第一2章2節の意図はキリストだけが人を救うことができる贖罪の方法であることであり、キリストが全人類の罪を償ってくださったということではないのです。

不可抗的恩恵(Irresistible Grace)

Iは不可抗的恩恵(irresistible grace)の略です。不可抗的恩恵は救いにおける神の愛なる力を指します。もし神があなたを愛しておられ、あなたを神の家族に加えたいのなら、神はそうする力があり、それを発揮されるということです。神はあなたの内に信じる心を確実に起こすほどあなたを愛し、あなたの信仰を保証できるほど力があります。私たちは人生において、愛する人が間違った道を歩むのを見ますが、彼らがその道から離れるように説得することができません。彼らが正しい道を歩むようにする力を持ち合わせていないのです。私たちは無力です。しかし、神の愛は私たちを確実に正しい道に歩むようにさせる力があります。神は私たちの反抗すべてを克服してくださいます。また、選民がご自分を信じるように説得できないということもありません。確かに、私たちは一時的にキリストに反抗するかもしれません。福音を信じる前に、何年も拒絶するかもしれません。ですから、最終的には抗うことのできない恵み、あるいは有効の恩恵、と言ったほうが良いかもしれません。何はともあれ、神はご自分の子どもたちすべてを信仰に導かれるのです。

不可抗的恩恵が無条件的選びの必然的帰結であることがわかるでしょうか。もし神がある人たちを救いのために選び、神のみこころが妨げられることがないのなら、神の恵みは最終的には不可抗的なのです。このことは例えばヨハネの福音書6章37-40節に見ることができます。救いのために父が子に与える人はみなキリストのもとに確実に来るのです。エペソ人への手紙2章1-10節には神が罪の中に死んでいる人を生かしてくださるとあります。死からの復活には有効な力が必要です。なぜなら死んでいる人は信仰という応答ができないからです。私たちが信じるには、まず神が有効に働き、私たちに新しい心を与えなければなりません。罪の中に死んでいた間、私たちは神と協働することはできなかったのです。最終的には抗うことのできない恵みを指し示す他の聖書箇所には創世記12章1-3節があります。神はアブラハムにウルを離れ約束の地へ向かうよう命じられます。父祖アブラハムは躊躇することなくウルを離れます。神は物事を定め、みこころの通りになるのです。

聖徒の堅忍(Perseverance of the Saints)

Pは聖徒の堅忍(perseverance of the saints)を指します。聖徒の堅忍は、ご自身の民に対する神の愛は変わることがないことを教えてくれます。主はご自身の民を救いに至る、有効の愛で愛することを止めません。したがって、主を本当に信じた者は誰も最終的に信仰を捨てることはありません。本当に信じた者はひと時主から離れたように見えるかもしれませんが、もし本当に信じたのなら、必ず主のもとに帰るのです。信仰告白したものの信仰を捨てるものは、最初から本当に信じてはいなかったのです。彼らが出て行くのはもともと私たちの仲間ではなかったからなのです(一ヨハネ2:19)。

聖徒の堅忍もまた、無条件的選びなどの神学的点の必然的帰結です。もし神が選民を救うのなら、必然的に選民は堅く忍ぶのです。このことも聖書は明確に教えています。誰も私たちを父の御手から奪い去ることはできない、とキリストは言われます(ヨハネ10:28)。「誰も」は私たち自身も含みます。私たちですら自分自身を父の御手から奪い去ることはできないのです。ローマ人への手紙8章28-30節には、神は義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになると書いてあります。私たちは信仰によってのみ義と認められるのですから(ローマ4章)、もし神は義と認めた人すべてに栄光をお与えになるのなら、救いに至る信仰を持つ人すべてに栄光をお与えになるのです。つまり、私たちを愛する神は、私たちがご自分の恵みからこぼれ落ちることをお許しにならないほど私たちを愛しておられるのです。私たちがご自分の恵みからこぼれ落ちないように私たちを保たれるのです。

このように、TULIP、あるいはカルヴァン主義の5特質は神の救いの働きを要約し、神の全能の愛を強調します。クリスチャンは、自分がキリストを救い主として信じているのは神のみわざだということに安らぐことができます。絶えることも果てることもない神の愛による神のみわざは達成されないことがないからです。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル
ロバート・ロスウェル牧師は、テーブルトーク誌の副編集長、リゴネア・ミニストリーズのシニアライター、フロリダ州サンフォードにあるReformation Bible Collegeの非常勤教授を務めている。2021年のテーブルトーク誌のコリント人への手紙第一、第二の日課の学びを執筆。