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ジャン・カルヴァンと教会改革の必要について

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今から450年以上前、ジャン・カルヴァンのもとに、教会の性質と改革の必要について書いてほしいという依頼が舞い込みました。当時の状況は、カルヴァンの他の著作を生み出したものとは全く異なっていたため、この著作では彼の宗教改革に対する弁明の別の側面を見ることができます。1544年、皇帝カルロス五世は神聖ローマ帝国議会をシュパイアーに招集していました。シュトラースブルクの偉大な改革者マルチン・ブツァーは、カルヴァンに宗教改革の教理とその必要性についての執筆を求めます。その成果は驚くべきものでした。カルヴァンの友人であり、ジュネーブの後継者でもあるテオドール・ド・ベーズ(ベザ)は、「教会改革の必要について」を当時の最も力強い著作と呼びました。

カルヴァンはこの著作を、大きく三部構成にしました。第一部は、改革を必要とした教会の悪についてです。第二部は、これらの悪に対して改革者たちによって取り入れられた、具体的な改善策を詳述し、第三部は、なぜ改革を遅らせることができないのか、むしろ状況がいかに「即刻の改善」を求めているかを示しています。[訳注:ジャン・カルヴァン「教会改革の必要について」『カルヴァン神学論文集』赤木善光訳、新教出版社、1967年、17頁。]

それぞれのセクションで、カルヴァンは四つのテーマに焦点を当てています。これらを彼は、教会の魂とからだと呼んでいました。教会の魂とは、礼拝と救いのことです。教会のからだとは、礼典と教会政治です。カルヴァンの改革の大義は、これらのテーマに集約されています。このように、礼拝、救い、礼典、教会政治に関わる諸問題、その解決策、そして迅速な行動の必要性が指摘されているのです。

カルヴァンの改革の大義は、これらのテーマに集約されています。特に、そもそもカルヴァンがこれら四つの分野の攻撃に応えるためではなく、自ら、宗教改革の最も重要な側面として選択したことを思い起こすとき、これらのテーマの重要性が浮き彫りになります。正しい礼拝は、カルヴァンにとって第一の関心ごとであったのです。

礼拝

カルヴァンは、人間が神の知恵ではなく自分の知恵で簡単に礼拝してしまうことを受け、礼拝の重要性を強調しました。そして、礼拝は神の言葉によってのみ規定されなければならないと主張しています。「神の言葉に反してたてられたすべての礼拝が、神に善しとされるものでないということを、世の人々に説得することがどんなに困難であるかということをわたしは、知っています。むしろ、『神の栄光のための何らかの熱心を口実にしさえすれば、どんな行いでも神から十分正しく嘉納されているという確信が、万人の骨や髄の中にしみこんでいる』とさえ言えましょう。だが、もし神が、彼の命令に反してわたしたちが神礼拝への熱心から企てることを、すべていとわれるだけでなく、あからさまに憎みたもうとしたら、そのような神に反することをして、わたしたちは何の得る所がありましょうか。次のような神の明確な言葉があります。『従うことは犠牲にまさる』」[訳注:19頁。] この確信こそが、改革を必要とする理由の一つでした。なぜなら、「…神は他の多くの箇所で、神の言葉のほかに新しく彼のために礼拝を定めることを禁止してい(ママ)られるし、そのような大胆な振舞いには激しい怒りを発すると断言し、また軽くない罰を加えられるのですから、わたしたちが示しました改善策が必要欠くべからざることは明白な事実であります」[訳注:38頁。] 神の言葉の基準に従い、カルヴァンはローマ・カトリック教会について、「今日一般に行われている神礼拝の形式が腐敗以外の何ものでもない」[訳注:22頁。] と結論付けています。

カルヴァンにとって、中世の教会の礼拝は「馬鹿馬鹿しい迷信」[訳注:34頁。](偶像礼拝)となっていたのです。偶像礼拝の問題は、彼にとって、義認における行いによる義と同じくらい深刻な問題でした。これら二つの問題は、神の啓示を人間の知恵と置き換えたものです。どちらも神を喜ばせ、神に従おうとするのではなく、人間の罪の傾向に付け込むものです。カルヴァンは、偶像礼拝者との礼拝に一致は存在し得ないと主張しています。「しかしながら、彼らはこう言うかも知れません、『使徒たちや預言者たちは教理の点で不敬虔な祭司たちとは立場を異にしていたが、犠牲や祈祷においては依然として彼らと共通の儀式をとり行った』と。もしこの言葉に『使徒や預言者が偶像礼拝を強制されるようなことはなかった』という条件をつけるなら、わたしはこの事を認めます。しかし、預言者の中の誰がかつてベテルにおいて犠牲をささげたでしょうか」[訳注:86頁。]

改革者たちは、かつての預言者たちと同様に、当時の偶像礼拝と「外面的華美」[訳注:38頁。] になっていた礼拝を攻撃する必要がありました。カルヴァンの時代の教会は、そのような派手な礼拝に対して、ジュネーヴの教会の礼拝秩序に反映されているように、敬虔かつ簡素な礼拝をすることが必要でした。このような簡素な礼拝は、礼拝者が自らのからだだけでなく心を捧げることを教え促します。「なぜなら、真の神礼拝をする人々は心と魂とをささげねばならないのに、人々は常にこれとは全くかけはなれた神に仕える方法を発見しようとし、その結果、彼らは、礼拝のためにからだを服従させる義務を果たしていますが、魂は自分自身に確保しているからです」[訳注:38頁。]

義認

次にカルヴァンは、義認の問題に目を向けます。ここで彼は、意見の相違が最も鋭かったことを認めています。「義認の問題、すなわち〈わたしたちがそれを獲得するのは信仰によってであるか、それともわざによってであるか〉という問題にまさって、より大きな争点、わたしたちの敵対者たちが頑強にわたしたちに反対しているところの争点はありません」[訳注:24頁。] この教理に「教会の救い」[訳注:25頁。] がかかっており、この教理の誤りのために教会は「致命的な傷」[訳注:25頁。]、すなわち「瀕死の傷を受けた」[訳注:25頁。] のです。

カルヴァンは、義認は信仰のみによるものであると主張します。「どんな種類の人間のわざにせよ、それが神の前で義と見なされるのは、ただ神が、全然を顧慮しないで、彼を恵みによってキリストにおいて受け入れ、キリストの義を彼自身の義として彼に転嫁したもうという無償のあわれみによってのみである」[訳注:44頁。]

この教理はクリスチャンの生活と経験に深い影響を与えます。「わたしたちは、人間をして彼自身の窮乏と無力とを自覚せしめ、より良く真の謙虚を教え、自己自身への信頼をことごとくなげ捨てて、全く神によりたのむように仕向けるとともに、彼を感謝へとみちびいて実際彼がそうすべきであるように、彼が持っているすべての善いものを神の恩恵に帰せしめるのであります」[訳注:44頁。]

礼典

カルヴァンの第三のテーマは礼典であり、彼はこれについて詳細に検討しています。カルヴァンは、「人間が考え出した祭儀が、キリストによって立てられた奥義と同じ程度に考えられて」[訳注:26頁。]いること、特に主の聖餐が「芝居気たっぷりの演技」[訳注:26頁。] に取って変わっていることを不満に思っています。神の聖礼典をこのように乱用することは耐え難いものです。「この事の第一の過誤は〈祭儀の見せ物が民衆に示されるだけで、それの意味や真理については何も語られない〉ということです。なぜなら、礼典の執行は、しるしが(人々の)目に表示することが、神の言葉によって説明されるとき、始(ママ)めて意味を持ってくるからです」[訳注:27頁。]

カルヴァンは、初代教会で広まっていた、簡素な礼典の教理と実践が失われてしまったことを嘆いています。これは、主の聖餐に最もはっきりと現れています。聖体の犠牲、化体説、聖別されたパンとぶどう酒の礼拝は聖書的ではなく、礼典の真の意味を損なうものです。「なぜなら、聖礼典は、敬虔な心を天にまで高めるための手段でなければならないのに、世の人々は聖餐の聖なる象徴を全く反対の目的、すなわち、〈それらの象徴を見物したり、またその儀式に満足して、心をキリストまで高めない〉という目的のために濫用したからです」 聖体の犠牲という考え方に見られるように「キリストがわたしたちのために一旦死なれたことが不十分であったかのように、彼が毎日何千回も犠牲にされる」[訳注:50頁。] ことによって、キリストの業が損なわれていると述べました。

聖餐の真の意味は、カルヴァンが次のようにシンプルにまとめています。「第一にわたしたちはすべての人に、(聖餐に)信仰をもって近づくようにすすめています。…わたしたちは、主のからだと血とが聖餐において主からわたしたちに与えられ、またわたしたちがこれを受けとるものであることを、宣べ伝えます。このようにわたしたちは、パンとぶどう酒とが象徴であることを、教えますが、それとともに常に、それらが指し示している真理が同時にそれに結びつけられることを必ずつけ加えます」[訳注:72頁。] キリストは、信仰によって聖餐に与る人々に、キリストご自身、そしてキリストのすべての救いの恩恵を、真に与えてくださるのです。

ここに取り上げたカルヴァンの礼典に関する議論は、この重要な主題に対する議論全体のほんの一端に過ぎません。カルヴァンは洗礼にもかなりの注意を払い、さらに五つの礼典(秘跡)があるとするローマ教会の立場に反論しています。

教会政治

最後に、カルヴァンは教会政治という主題に目を向けます。このテーマはかなり重要なものになり得ると、彼は指摘しています。「わたしは教会政治の悪弊について、その諸点を数え上げたいのですが、これを言えば、際限がないでしょう」[訳注:51頁。] 彼は牧師職の重要性に着目しています。教えるという特権と責任は、この職務の中心です。「教師の任務を果たす者でなければ、だれも教会の真の牧師ではないわけです」[訳注:28頁。] 宗教改革の大きな成果の一つは、神の民の生活において、説教が本来あるべき場所に回復されたことでしょう。「わたしたちの間では、神の言葉の秩序正しい説教をしない教会は見受けられません」[訳注:28頁。] 牧師職はその教えに聖さを結びつけなければいけません。「教会を治めている者たちは他の人々よりもきよい生活の模範を示さなければならない」[訳注:52頁。] のです。

カルヴァンは、ローマ教会の指導者たちが聖さを教え、追求する代わりに、神の民の魂に対して、神から与えられていない権力と権威を主張し、「最も残酷な独裁政治」を行使していると訴えています。宗教改革は、教会を縛っていた非聖書的な伝統からの輝かしい解放をもたらしたのです。「このように、信者の良心をかたくしばっている不当な束縛を取り去ることが、わたしたちの任務でありましたので、わたしたちは、良心が人間の律法から解き放たれていること、また、キリストの血によって買い取られたこの自由が汚されてはならないことを教えました」[訳注:28頁。] 

ローマ教会は使徒継承、特に聖職に就くことを重要視していました。カルヴァンは、改革派の按手は、キリスト、使徒、古代教会の純粋な教えと実践に従うと主張しています。彼はこのように述べています。「従って、教理の純粋さで教会の統一を守らない者は、決してこの権利を確保することはできません」[訳注:56頁。]

改革

カルヴァンはこの論考の最後で、改革の経過を振り返っています。改革の始まりはルター がまず「注意を促しただけ」ことに帰する、と記しています。これに対してローマは、「力と暴力で真理を抑圧」しました。カルヴァンは、この戦いに驚かなかったといいます。「この世が福音の宣教に対して激しい反抗をもって答えるということは、福音が初めから終わりまで、常に蒙るべき運命でありました」[訳注:55頁。]

カルヴァンは、教会生活におけるこの戦いは、問題の重要性ゆえに正しいものであると述べています。「キリスト教のすべての重要な点」[訳注:64頁。] が脅かされることを、彼は決して軽視を許しませんでした。改革者たちが聖書に従って行動したことを踏まえ、カルヴァンは彼らが分派主義者であるという非難を一切拒否しています。「何よりも先ず大切な事は、教会をそのかしらであるキリストから分離してはならない、ということです。わたしがキリスト(という言葉)を口にするとき、わたしたちは、彼がその血によって捺印された福音の教えを含めて理解しているのです。…従って〈わたしたちが純粋な教理において一致し、ひとりのキリストに向かって成長していくとき、初めてわたしたちの間に聖なる統一が確立される〉ということはたしかであります」[訳注:86-87頁。] 一致をもたらすのは教会という名前ではなく、神の言葉にとどまる真の教会の実態なのです。

最後に、カルヴァンは、誰が教会の改革を正しく導くことができるのかという現実的な問題に目を向けます。彼は、ローマ教皇が教会や改革を導くことができるという考えを最も強い言葉で否定しています。「わたしは、恐るべき背教以外の何ものも見られないような教皇座が使徒的座であること、を否定します。わたしは、気違いのように福音を圧迫し、故意に自分が反キリストであることを証明している者がキリストの代理者であることを否定します。また、わたしは、ペテロが建てたすべてのものを破壊するために全力を集中している者がペテロの後継者であることを否定します。また、わたしは、真実で唯一のかしらであるキリストから離れて、その横暴な支配によって教会を切りきざんでいる者が教会のかしらであることを否定します」[訳注:91頁。] カルヴァンは、多くの人が教会の問題を解決するために教会の公会議を求めていることを知っていますが、そのような公会議は開かれることがなく、たとえ開かれたとしても、教皇によって支配されるだろうと懸念を示しています。教会は古代教会の慣習に従って、管区公会議を召集し問題解決に努めることを、彼は勧めています。いずれにせよ、この問題は最終的に、すべての改革の努力にふさわしいとされる祝福を与えてくださる神に委ねられなければなりません。「なるほど、わたしたちは、わたしたちの奉仕のわざが、当然そうあるべきであるように、この世を救うものとなることを願っています。しかし、わたしたちがそれを達成できるかどうかということは、神が決定されることであって、わたしたちのできることではありません」

この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。
W・ロバート・ゴッドフリー
W・ロバート・ゴッドフリー
W・ロバート・ゴッドフリー博士は、リゴニア・ミニストリーズの専属講師であり、Westminster Seminiary Californiaの名誉学長ならびに同校の教会歴史の名誉教授である。彼はリゴニアによる『A Survey of Church History(教会歴史の概要)』全六回シリーズの講師も務めた。著書も多く、『God’s Pattern for Creation』、『Reformation Sketches』、『An Unexpected Journey』、『Learning to Love the Psalms』などがある。