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2025年08月02日(木)ゼカリヤ書について知っておくべき三つのこと
1. ゼカリヤ書について知るべき第一のことは、著者についてである
旧約聖書においてゼカリヤはよく見られる名前ですが、ゼカリヤ書の最初の一節には「イドの子ベレクヤの子」と、著者の身元が具体的に記されています。ネヘミヤ記12章1-4節によると、イドはバビロン捕囚の後ゼルバベルとともにパレスチナに戻った祭司たちの一人でした。捕囚からユダへ帰還した人々の最初の仕事は、バビロンによって破壊された神殿を再建することでした。ゼルバベルの指導の下、当初は順調に進んでいましたが、外部からの圧力や内部の無関心が原因で停滞してしまいます(エズラ4-5章)。ゼカリヤの祖父であるイドは、この神殿再建事業の初期段階に関わっていたと考えられます。ゼカリヤはその仕事が完成に至るまでの中心的な役割を果たしました。しかし皮肉なことに、イエスによると(マタイ23:35-37)、ゼカリヤは再建に大きく貢献したその神殿で殺されたのです。
しかし、ゼカリヤが殺される前、彼は長い期間預言者として働いていました。ゼカリヤの最初の預言(ゼカリヤ1-6章)はダレイオス王の第二年と記されており、すなわち紀元前520年ということになります。次に続く預言は(7-8章)、二年後のダレイオス王の第四年(紀元前518年)です。9-14章については具体的な年代は記されていませんが、ギリシャへの言及があることから(ゼカリヤ9:13、[訳注:新改訳聖書2017では「ヤワン」、ギリシャを意味する])、より後の年代、おそらく紀元前480-470年ごろと考えられます。これらを総合すると、ゼカリヤはおよそ50年間にわたって預言活動を行っていたことになります。
2. ゼカリヤ書について知るべき第二のことは、そのメッセージである
バビロン捕囚は終わっていたものの、民は期待していた祝福や繁栄を体験してはいませんでした。彼らはサマリヤ人からの反発、荒れ果てた土地、過酷な労働、そして困難に直面していたのです。民の状況は絶望的に見え、主に忘れられていたかのように感じられました。しかし、ゼカリヤの名前は「主は覚えておられる(The Lord remembers)」という意味です。その名前を聞くだけでも、民にとっては主が彼らを決して忘れておられないことを思い起こさせたことでしょう。
ゼカリヤの語るメッセージの主要テーマは、神の変わることのない目的への希望でした。希望とは、信仰における将来への展望です。そして、すべての真の信仰がそうであるように、希望も客観的なものであり、何を希望の土台とするかによってその価値が決まります。希望とは、震えながら、遠慮がちに、ただ幸運を願うようなものではありません。それどころか、希望とは、神の約束は必ず成就されるという確信に満ちた期待なのです。神を見上げることが希望の秘訣であり、ゼカリヤはそのことを神の民に示しました。つまり、神の力、神の権威、神の契約への誠実、そして神のキリストを指し示したのです。
このように希望に焦点を当てていることから、ゼカリヤ書は旧約聖書の中でも最も具体的かつ明確にメシアについて語っている書の一つであることは驚きではありません。キリストによって、またキリストを通してのろいが覆されるという、神の贖いの計画に焦点を当てた預言は、当時落胆の中で希望を失いかけていた民に希望を育ませ、再び燃え立たせるために、鍵となるメッセージでした。キリストに目を向けることは、神の約束の核心に目を向けることであり、神の他のすべてのことばに確信を得ることに繋がります。なぜなら、神の約束はことごとく、キリストにおいて「はい」であり「アーメン」であるからです(二コリ1:20)。
ゼカリヤが民の目を来たるキリストに向けさせたことについて、最も特筆すべき点は、キリストの仲介者としての役割、すなわち理想の預言者、祭司、そして王としての役職に注目させた点です。キリストの神の代表としての預言的役職は、ゼカリヤ書13章7節に明確に示されています。万軍の主はメシアを「わたしの羊飼い」と呼び、ご自身と等しく強い「仲間」であると語られます。さらに、主ご自身がこのメシアを打つ、と言われています。これは、マタイの福音書26章31節でキリストと十字架に直接結びつけられています。また、キリストが良い羊飼いとして表現されていることにも対応しています。キリストは羊のためにいのちを捨てられること、そしてキリストと父なる神とは一つであることを教えています(ヨハネ10:30)。キリストの祭司としての働きは、ゼカリヤ3章8節と6章12節で大祭司ヨシュアになぞらえて呼ばれる「若枝」という重要なメシアの称号に最もよく現れています。さらに、天の宮の前に立つヨシュアの幻は、神が罪人を赦し、義とされる様子を描く美しい描写です。義認の必要は実に大きく、義認の行為は恵み深く、義認の根拠(若枝)は揺るがず、義認が要求することは論理的です。キリストの王としての役職は、ゼカリヤ書10章4節(かしら石、杭、戦いの弓、指揮する者)に表現されています。また9章9節の預言は、しゅろの聖日(Palm Sunday)に文字通り成就しています。キリストの再臨に伴う王権もまた、希望の一側面です(ゼカリヤ14章)。この預言を「ゼカリヤの福音書」と名付けたとしても、まったく過言ではないでしょう。
3. ゼカリヤについて知るべき第三のことは、預言の方法である
ゼカリヤ書1章1節には、「預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった」と記されています。その主のことばが彼に与えられた一つの方法が、幻でした。最初の6章はこれらの一連の幻を記録しており、神がご自身の民のために抱いておられる計画——当時の状況から最終的な完成まで——の全体像を描いています。
ゼカリヤ書は、その啓示されたメッセージ自体とは別に、神が幻を通してご自身のことばを伝えられる方法の実例集とも言えます。まず、幻は個人的で内的なものでした。幻は預言者にしか見ることはできません。次に、幻を受け取る人は、その幻に能動的に参加します。ゼカリヤは解釈する御使いと会話をし、御使いは幻の意味とそれに対する指示を伝えました。最後に、幻は非常に象徴的なものでした。色のついた馬、四人の職人、燭台とオリーブの木、空中を飛ぶ巻物、そして数頭の馬がつながれた戦車など、それらはすべて霊的真理を指し示しているのです。
ゼカリヤの預言のもう一つの特徴は、黙示的な語り口です。つまり遠い将来、特に終末的な完成に焦点を合わせた預言です。したがって、ゼカリヤのメッセージは捕囚後のイスラエルより先のことを見据えています。ゼカリヤは教会に対して、神がすべてを支配しておられ、すべての出来事が神の永遠のご計画と目的の成就に向かって進んでいることを保証しています。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

