礼拝における罪の告白とは何か?

2026年07月30日(木)

礼拝における罪の告白とは何か?

2026年07月30日(木)

ヨエル書について知っておくべき三つのこと


ヨエル書について多くの人が知っていることといえば、ヨエル書2章28-29節の偉大な預言の言葉でしょう。これは、神がすべての人にご自分の霊を注ぐという約束であり、その結果、神の民の共同体に属するすべての人が預言するようになるというものです。しかし、この箇所の意味は、ヨエル書全体のメッセージから切り離して理解することはできません。ヨエル書のメッセージを理解するために、まず知っておくべき三つのことがあります。

1. ヨエル書の執筆時期は不明

第一に、多くの預言書において、その書物の歴史的文脈がそのメッセージを理解するうえで重要ですが、ヨエル書の執筆時期は不明です。神殿が機能していることから、それが捕囚前のソロモン神殿(紀元前586年に崩壊)である可能性と、捕囚から帰還後に奉献された神殿(紀元前516年)である可能性があります。また、王の名前は一切登場せず、イスラエルやユダの主要な敵についても言及されません。学者らはさまざまな執筆年代の可能性を挙げてきましたが、決定的な見解として受け入れられているものはありません。書物に含まれる、第一神殿の崩壊前後に関係するさまざまな出来事は、この書物が捕囚前の見解を反映しているという印象を与えます。例えば、ささげ物が断たれたこと(1:9)、「北から来るもの」の脅威(2:20)、そして将来の救いの記述(2:23-29)などです。また、ヨエル書の執筆時期の特定が難しいのは、この書物が国全体に影響するわざわいが起こった際に典礼的な文章として読まれるようになったからではないかと考える学者もいます。

2. ヨエル書の背景はいなごのわざわい

ヨエル書について知っておくべき二つ目のことは、この書物の背景がそのメッセージと結びついているということです。ヨエル書の背景は、いなごのわざわいです。1章は、これまでに見たことがないほどの壊滅的ないなごの被害に対し、共同体的な嘆きへの呼びかけが記されています。このわざわいは、ヨエル書1章4節で描かれており、いなごの群れが食べられるものをすべて食い尽くしてしまった様子が記されています。また、その結果としてさまざまな人の集まりが嘆くように呼びかけられています。酔いどれたちはぶどうの木が滅ぼされたことを嘆き(1:5-7)、祭司たちはささげ物が断たれたことを嘆き(1:8-10)、農夫たちは収穫するものが無いことを嘆きます(1:11-12)。また祭司たちは、泣き叫び断食をする嘆きの礼拝へ、神の民を導くように召されます(1:13-14)。

いなごのわざわいによる混乱は、主の日の描写へと発展していきます。その日は、神を拒む者にとってはさばきの日となり、神に立ち返る者にとっては祝福の日となります。いなごのわざわいは、その日の来るべきさばきを指し示しています。主の日について最初に言及されるのは、ヨエル書1章15節です。

ああ、その日よ。

の日は近い。

その日の破滅はヨエル書1章16-20節に描かれ、続くヨエル書2:1-2ではその日に対する緊急の警告が呼びかけられています。この警告は、「その日」が「闇と暗闇の日」、「雲と暗黒の日」であるという表現において頂点に達します。この暗闇は山々の上に広がり、戦いの備えをした大いなる力強い軍隊を指し示しています。その軍隊の戦士たちは、誰にも止めることができません。この戦士たちの前に立つ民の顔は青ざめます。なぜなら、彼らは単なる地上の軍隊ではなく、主の軍隊だからです。主がこの軍勢の先頭に立って声をあげられると、その声に被造物は震え、太陽も月も暗くなります(2:10-11)。だれも、その声に耐えられる者はいません。なぜなら、「の日は偉大で、非常に恐ろしい」からです(2:11)。

ヨエル書において、「主の日」は単なる一つの歴史的出来事にとどまりません。むしろ、歴史そのものの終わりをもたらす終末論的な出来事を指しています。ヨエルは、主の日にもたらされる来たるべき神のさばきによる破滅を用いて、神の民に悔い改めを呼びかけます(2:15-17)。ヨエルは、いなごのわざわいによる破壊が逆転されるかたちで与えられる物質的な祝福を民に約束し(2:21-27)、さらに神の聖霊の注ぎによる霊的な祝福をも約束しています(2:28-32)。

3. 使徒ペテロはヨエル書を引用し、ペンテコステの日の出来事を説明している

ヨエル書について知っておくべきことの三つ目は、ペテロが使徒の働き2章17-21節においてヨエル書2章28-32節を引用し、ペンテコステの日の出来事を説明しているということです。ヨエルが預言した霊的な祝福は、神がご自分の御霊をすべての人に注がれ、それによって主の名を呼び求める者がみな救われるようになったことによって、実現しました。

加えて、神の言葉を語るという預言的な働きは、社会のあらゆる階層へと拡大し、異邦人をも含むようになりました。彼らは、御霊が語らせるままに、自分たちの言語で互いに理解し合いながら語りました(使徒2:4)。神の敵に対する最終的なさばき(ヨエル3:1-8)や、神の民の完全なる回復(3:17-21)がただちに起こる代わりに、神の救いの計画は、イエス・キリストの福音が全世界に宣べ伝えられることを通して実現したのです。その結果、私たちはイエス・キリストにおいて救いの保証(手付金)をすでに経験しています。私たちの救い主が再びこの世に来られ、神の敵に対する最終的なさばきにおいて主の日が完成し、神の民に完全な回復が与えられるとき、私たちの救いはついに完成します。私たちは、その日を待ち望んでいるのです。そのとき、私たちは永遠に神の完全な臨在を経験し、その臨在から流れ出す豊かな霊的・肉体的祝福にあずかるでしょう。


この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

リチャード・P・ベルチャー・Jr.

リチャード・P・ベルチャー・Jr.

リチャード・P・ベルチャー・Jr. 博士は、アトランタおよびニューヨークにあるReformed Theological Seminaryにおいて、旧約聖書のジョン・Dおよびフランシス・M・グウィン記念教授、さらに学部長として務めている。アメリカ長老教会(PCA)の教職長老。著書に『The Fulfillment of the Promises of God: An Explanation of Covenant Theology』『Prophet, Priest, and King』などがある。