
預言の成就
2026年10月27日(木)神の民
旧約の預言者たちが、将来回復されるイスラエルについて語る箇所を読むとき、私たちは神がご自分の民をどれほど愛しておられるかに心打たれるはずです。そして、私たちもまたキリストの教会に属する者として、その預言の成就にあずかっていることを思うとき、励ましを受けるでしょう。このことを理解していくうえで、三つの要素が助けとなります。
第一に、神とその民の物語は、イスラエルから始まったのではなく、創造から始まりました。私たちの始祖が罪によって蛇(サタン)の側についた後でさえ、神は、女の子孫と蛇の子孫との間に敵意を置くことによって、ご自分の民を取り戻すことを約束されました(創世3:15)。この約束は、恵みの契約の始まりでした。この契約を通して、神はご自分の民を集め、彼らが神ご自身とこれから成し遂げられるみわざを信仰をもって仰ぎ見ることができるようにされるのです。アブラハムとの契約は、この恵みの契約をさらに拡大させたもので、神の救いの歴史のための道筋となりました。神はアブラハムの子孫を通して働き、彼を大いなる国民としますが、最終的な目標はすべての部族を祝福することでした(創世12:2-3; ガラテヤ3:8参照)。神がアブラハムとイスラエルに特別な焦点を当てられたのは、常に、全世界におよぶ目的のためだったのです。
第二に、預言者たちがイスラエルについて、さばきと回復の両方を語ることができるのは、それらが異なる契約に関わっているからです。出エジプトの後、神はシナイ山でイスラエルとモーセ契約を結ばれました。この契約は、民が救い主を必要としていること、そして救い主が彼らのために成し遂げてくださることを示していました。イスラエルは、シナイ山を去る前からすでにこの契約に背き(出エジ32章)、彼らの後の歴史も、神の律法に背き続けるパターンを繰り返すことになります。神は恵み深く、忍耐強くあられましたが、ついにイスラエルの民にモーセ契約の究極ののろいをもたらします。それは、約束の地からの追放でした。しかし、これが物語の最後とはなりませんでした。アダムとエバの罪が、物語の最後にならなかったのと同じです。ひな型である預言者のモーセは(申命18:15)、イスラエルが失敗すること、そして捕囚の後に神が新しいみわざを成されることをあらかじめ告げていました(申命4:25-31; 29:10-30:14; 31:14-32:43)。モーセの後に続いた預言者たちも、それに倣っています。イスラエルはモーセ契約に背きましたが、特にアブラハム契約において与えられた神の約束は、なお成就されることになっていました。
第三に、預言者たちは、新しい契約によってもたらされる将来の現実を描く際に、贖いの歴史の途上にある自分たちの状況——すなわち、型や影——をしばしば用いています(コロサイ2:17; ヘブル10:1)。また、預言者たちは、一つの描写の中にさまざまな段階や複数の次元にわたって実現する将来を含んで描くこともよくあります。いずれの要素も、預言的イディオム(prophetic idiom)と呼ばれているもので、回復されたイスラエルに関する預言を教会における成就として適切に解釈できる理由を説明しています。
この二つの要素が見られる例があります。エレミヤは、エレミヤ書30-31章で、イスラエルが捕囚から帰還した後、彼らが赦された従順な民として新しいダビデ王の下で安らかに住むことを預言しています。このことは、イスラエルがバビロンから帰還することで部分的に成就されましたが(エズラ1:1)、完全な成就は、イスラエルに対する預言をさらに超えたものとなります。エレミヤは新しい契約の時代について述べています(エレミヤ31:31)。この契約はキリストの最初の到来において幕を開け(ルカ22:20; ヘブル8:8-13)、キリストが再び来られるとき、新しい天と新しい地において完成に至るのです(二ペテロ3:13)。
預言者たちはときに、神がご自分の民に異邦人をも含めることを望んでおられることを明確に語っています(イザヤ42:6-7; 49:5-6)。ただし、そのことについても、預言的イディオムによって描かれているのです。例えば、エルサレムの神の神殿に国々が流れて来る、という描写などです(イザヤ2:1-4; ミカ4:1-3; ゼカリヤ8:20-23; 14:16)。他に、アモス書9章11-12が例として挙げられます。この箇所は、倒れたダビデの仮庵の再建に、すべての国々の者が加えられると預言しています。使徒の働き15章に記されるエルサレムでの議会で、ヤコブがこの言葉を引用しています。当時の教会は、神が異邦人の間で成されているみわざと、異邦人とモーセの律法との関係性についての解釈を巡って葛藤がありました。ヤコブは、神が異邦人の中からご自分の民を召されたことは、アモス書の預言と一致すると結論づけたのです(使徒15:13-18)。すなわち、ヤコブはこのイスラエルの将来に関する預言、つまりダビデの仮庵の再建についての預言が、キリストの新しい契約の教会において成就されたことを示しました。そしてそこには、ユダヤ人だけでなく、同じようにただ恵みによって信仰を通して救われる、異邦人も含まれているのです(使徒15:11)。
預言者は多くの場合、イスラエルの回復についてのみ語っています。しかしそれでも、その預言は教会にも適用されます。ホセア書1-3章で、神はご自身とイスラエルとの関係を、ホセアと姦淫の女ゴメルとの結婚関係、またその間に生まれた子どもたちになぞらえています。各章には、モーセ契約に対するイスラエルの不忠実さゆえに、神が下されるさばきが描かれ、その後、アブラハム契約の約束に基づくイスラエルの回復を、神がもたらされることが語られます。このように神の民の将来を描く描写は、預言的イディオムの良い例です。なぜなら、預言は祝福の地に住む回復されたイスラエルを描いていますが、ペテロはこれらを教会に当てはめ、これらの預言が新しい契約についての描写であることを示しているからです(一ペテロ2:10)。同じようにパウロも、救いにおける神の主権的なみわざを論じつつ、ホセア書2章23節と1章10節を引用し、ユダヤ人の中だけでなく、異邦人の中からも神が召しておられることを示しています(ローマ9:24-26)。
新約聖書は、イスラエルの回復を約束する預言が、もはやユダヤ人と異邦人の区別が存在しないキリストの教会において成就していることを示しています(エペソ2:11-3:6)。一方で、パウロは、ローマ人への手紙9-11章で、同胞であるユダヤ人からより多くの人がキリストへの信仰によって救いに至ることを願い、心を痛めています。パウロがこの箇所で示そうとしているのは、神の約束が失敗に終わったのではないこと、そして異邦人が感謝と謙遜をもって正しい態度を表すべきだということです。神はイスラエルを退け、異邦人と置き換えられたのではありません。そうではなく、異邦人は恵みによって神の民に加えられたのです。パウロはそれを、オリーブの木でたとえています(11:17-24)。25-27節については議論が交わされるところですが、パウロが、不信仰なユダヤ人もまた、異邦人とともに、キリストへの信仰によって神に立ち返るなら、神のあわれみを受ける者となることを示しているのは明らかです。どうか、ユダヤ人と異邦人の両方がキリストに立ち返ることを願うパウロの思いが、私たちの願いとなりますように。
この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。
