至聖所について

2026年10月22日(木)

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預言の成就


[訳注:この記事では、prophecy = 預言、prediction = 予言と訳しています。預言は神から預かった言葉、予言は将来のことを予め言う、という区別です。]

新約聖書の中で、旧約聖書の預言の成就が言及されている箇所は多数あります。そのような箇所を読むとき、多くのクリスチャンは、これらの預言はまさに新約聖書に書かれてある特定の人物や出来事をそのまま予言していたのだろうと考えます。確かに、将来起こる現実を直接的に予言する預言もあります。しかし、預言はもともと旧約聖書の時代の出来事や人物について語っており、その後、新約聖書においてさらに深い意味を持つようになる、というものも多くありました。このような預言を、私たちはどのように理解すればよいのでしょうか。

「成就する(fulfill)」を意味するギリシア語の言葉は、他にも「満たす」「完全にする」「完了する」「完成する」と訳すことができ、さらには「律法を守る」という文脈での「守る」という意味もあります。いずれの訳語も、「成就する」ということは、それ以前にあったもの——部分的な意味、連続した出来事、従順な生涯など——を土台として、その上に築くことを意味します。聖書における「成就」は、預言が一つの特定の出来事のみを予言することに限定されません。むしろ、それ以前の意味が後の展開によって拡大した、あるいは完成されたことを指し示すのです。

わかりやすく例えると、私たちが個人的に「満たされた(fulfilled)」と感じるとき、それは何を意味するでしょうか。決して以前の人生がまったく無意味なものだった、ということではないはずです。むしろ、以前と比べて今は深みが増し、完全さを実感している、という意味でしょう。旧約聖書の預言の「成就」について新約聖書が語るときも、同じようなことが言えます。新約聖書で「成就した」というとき、旧約聖書での意味がより豊かで深いものとなったことを意味する傾向があります。

何を「預言」として捉えるべきか?

成就について理解する上でもう一つ重要なのは、「預言」という言葉の意味の幅を認識することです。現代の読者のほとんどは、預言とは将来のことを予言することだと考えがちです。聖書的な預言には、確かに予言も含まれています。しかし同時に、歴史上の出来事の記録、神の律法を思い起こさせる言葉、悔い改めと従順への招き、神への賛美、嘆き、預言的な幻の描写など、さまざまな要素が含まれています。何より重要なのは、預言とは、預言者が神の代弁者として語ったこと、あるいは書き記したものすべてを指すということです。

これに対応して、新約聖書が預言の成就について語るとき、その預言がどのような形であれ、一般的には、神のご計画が成し遂げられる(成就する)ことが前提となっています。別の言い方をすれば、預言の成就の多くは、予言が実現する(成就する)ことではありません。むしろ、預言者のメッセージに、さらに大きくより豊かな意味がもたらされることなのです。

例えば、ホセア書11章1節で、預言者ホセアは、神がイスラエルをエジプトでの奴隷状態から救い出したことを思い起こしています。後にマタイの福音書2章15節で、イエスがヘロデ王が死んだ後にエジプトからガリラヤへ移ったことが記され、ホセアの預言が成就した、と伝えられます。ホセアは、当時の読み手に対して、過去の救いを振り返って「あなたも救われる」と励ましました。おそらく、ホセア自身も当時の読み手も、この救いのパターン——あるいは、型——が、将来どのように成就するかなど考えつかなかったでしょう。しかし、キリストの時代の後に福音書を執筆したマタイは、神が出エジプトで成されたことと、イエスの生涯を通して成されたことの対応関係を見出したのです。そのため、マタイは、イエスによってホセアの言葉の意味が拡大され、完成されたと正しく語りました。

予型論

先ほど述べたような成就は、しばしば「予型論的」なものと表現されます。この言葉は、過去に起こったことが、その後に起こったことと同じ種類、あるいは同じ型であるという考えを指します。これは旧約聖書に登場する人物や事柄が将来起こるより優れた事柄を予示あるいは予見していることを表す、便利な言葉です。例えばパウロは、ローマ人への手紙5章14節で、アダムはキリストの「ひな型」だと記しました。というのも、アダムは、神の民に対する契約のかしらとして、キリストと対応する役割を担っていたからです。

予型論は、預言の成就において非常に多く見られます。特に、新約聖書が旧約聖書を引用する際に見られる大きな特徴です。例えば、マタイの福音書2章17節では、ヘロデ王が子どもたちを虐殺した後、ベツレヘムで母親たちが泣き悲しんだのは、エレミヤ書31章15節の成就だと書かれています。この箇所がもともと語っていたのは、紀元前8-7世紀にかけて、イスラエルの民が約束の地から捕囚に連れて行かれたときのことです。他の例として、ヨハネの福音書13章18節で、イエスは弟子たちの足を洗いますが、それは詩篇41篇9節の言葉が成就するためでもあったと語りました。詩篇の文脈では、ダビデが友から不当な扱いを受け裏切られたことを嘆いています。同様に、ヨハネの福音書19章28節で、イエスは渇いて酸ぶどう酒を飲まれました。これは、ダビデが自身の苦しみを嘆き、救いを求めた詩篇69篇21節の言葉の意味を満たすものでした。

新たに成就した予言と、まだ成就していない予言

新約聖書で言及されている成就の多くは予型論的なものですが、中には、初めて直接的に予言を成就するものもあります。例えば、ヨハネの福音書12章38節では、ユダヤ人がイエスを拒んだのは、イザヤ書53章1節の預言(予言)が成就するためであったと記されています。この箇所は、キリストの民が、キリストご自身とそのメッセージを拒むことを語っています。メシアの予言は他にも多くありますが、いずれもキリストの受肉以前には成就することができませんでした。イエスご自身を通してのみ、成就されるのです。

さて、旧約聖書の予言の中には、直ちに成就されなかったものもありますが、そのような予言も当時の読み手には価値のあるものでした。古代のイスラエル人やユダの人々は、神が贖い主を遣わし、彼らの生活を回復させ祝福してくださるという予言を希望としていたからです。この約束は、エデンの園から(創世3:15)神の民を支え続け、彼らの歴史を通してなおも支えとなり続けました。こうした希望によって、彼らは困難に直面しようとも神に忠実であり続けることができたのです。それは、彼らの忠実さが、やがて予告された祝福によって報われることを知っていたからです。

不思議なことに、これは今日の私たちクリスチャンが置かれている状況と同じとも言えます。例えば、イザヤ書65-66章は、私たちが住むための新しい天と新しい地を神が創造されることを語っています。しかし、ペテロの手紙第二3章13節によると、私たちがそれを見るのはイエスが再び来られるときです。このペテロの手紙の何年も後、ヨハネが自身の見た幻を記録し、ヨハネの黙示録21章1節-22章5節を書き記しました。ここでヨハネは、イザヤの言葉を改めて確信させ、私たちにさらなる希望を与えています。これらは、私たちの将来に関する予言です。もしかすると、遠い将来についての予言かもしれません。では、私たちには無関係でしょうか? もちろん、そうではありません。この予言があるからこそ、私たちは最終的に報いを受けることを思いつつ、忍耐をもって歩み続けることができます。

旧約聖書の預言は、理解するのが困難なこともあります。しかし、新約聖書が旧約の預言をさまざまな形で解釈しているのを理解していくことで、私たちは希望をもってこれを読み、注意深く解釈し、そして残りの聖書箇所と一貫して適用していくことができるよう、整えられるでしょう。



この記事はリゴニア・ミニストリーズブログに掲載されていたものです。

 

ラ・マクロフリン

ラ・マクロフリン

ラ・マクロフリン師は、Third Millenium Ministries の運営および財務担当の副代表を務める。著書に『The Nature and Work of the Holy Spirit』がある。