イエスの祈りの文脈
2022年09月15日(木)キリストの民
2022年09月22日(木)キリストの人格
編集者注:これはテーブルトーク誌の「大祭司としてのイエスの祈り」というシリーズの第三章の記事です。
クリスマスの際に、キリストが人となられたこと(受肉)と、キリストが王であることを強調するのは良いことです。しかし、この適切な強調を否定せずとも、クリスマスに祝われるキリストは王であると同時に、完全に祭司(と預言者)でもあられることを覚えるべきでしょう。
旧約聖書の祭司、特に大祭司は、人々のために、いけにえを献げ、祈りました(レビ16:15, 21)。彼らは神と人との間の仲介者でした(ヘブル5:1)。歴代の旧約聖書の大祭司は、イエス・キリストという唯一の栄光ある大祭司を予表するものでした。キリストは、単に神と人との間を取り持つ人間ではく、神と人との間を取り持つ神人(God-Man)だったのです(ヘブル8:6. 一テモテ2:5参照)。さらに、キリストは単に動物や穀物のささげ物を献げたのではなく、ご自身を唯一永遠のいけにえとして献げられました(へブル7:27; 9:12)。そしてキリストは、自分と他者のために、弱い、効果のない祈りを献げたのではありません。キリストは、栄ある、効力のある祈りを献げ、今もそうしておられるのです(5:7; 7:25)。
ヨハネの福音書17章にある、御父へのキリストのとりなしの祈りは弟子たちと、のちにくるすべての信者のための嘆願を含みます。しかし、それだけでなく、特にヨハネの福音書17章1-8節でキリストは仲介者としてのご自身の働きを明らかにし、それによってキリストが真に神であり真に人であることが強調されます。キリストはまた、御父との特別な関係も強調します。今回はヨハネの福音書17章1-8節の釈義の後、この仲介者としての役割と、キリストが「遣わされた者」と呼ばれることに関しての、御父とキリストの合意について詳しく述べたいと思います。そして最後に、キリストをより深く知り、信じることを勧めたいと思います。
ヨハネの福音書17章1-8節の釈義
キリストは、祈りを「父よ」で初め、ご自分のことを「子」と呼びます(17:1)。これらの言葉は、永遠の過去からキリストの地上での生涯を通して続いている、御父と御子の位格の間の三位一体内の親愛なる関係を素晴らしく反映しています。しかし、このような明るさの内にも関わらず、最初の発言は「時が来ました」という不穏な響きをもたらします。ヨハネの福音書では、これはキリストが十字架につけられることを指します(2:4; 12:23)。次にキリストは最初の願いを述べます。「子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」(17:1)。御父と御子のこの相互栄現(mutual glorification)は、これから起こる卑劣な十字架刑に関係があるので、一見驚くべきことです(この相互栄現は聖霊も含みます。16:14)。
相互栄現を求めるキリストの嘆願は、以前与えられたものが元にあります。御子が「すべての人[=選民]に、[…] 永遠のいのちを与える」(17:2)ために、御父は選民とすべての人の両方を支配する権威を御子に「お与えになった」のです。この祈りにおいて、「与える」という行為は顕著にあらわれます [訳注:新改訳2017では『下さる』とも訳出。希:ディドーミ]。御子が選民に与えるために、御父が御子に与えるということは、御父と御子の間の事前の合意を反映しています。さらに、御子は神として、永遠の昔からすべての権威を持っておられたので、このすべての権威の付与は、神人(God-Man)としての仲介者としての御子のことを指しているに違いありません。
次に、「永遠のいのち」が定義されています。選民は「唯一のまことの神であるあなた[御父]と、あなたが遣わされたイエス・キリストを知る」のです(17:3)。御父のことを「唯一のまことの神」と呼ぶのは、キリストが完全な神性を持つことを否定しているのではありません。なぜでしょうか。それはキリストが完全に神であることをヨハネが別の箇所で明らかにしているからです(例として1:1; 5:18; 10:30; 17:5; 20:28)。ここでの要点は、まことの神である御父を正しく知るには、御父と、まことの神であるキリストとの関係を知らなくてはならないと言うことです。キリストの二つ名が「あなた[御父]が遣わされた者」なのは興味深いことです。
17章4節では、キリストは以前の取り決め通りに事を成し遂げたと述べられます。「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」キリストは木曜日の夜にこれを言っておられますが、金曜日の十字架刑も含んでいます(「地上で」)。そしてもちろん、天に昇られたときには、成し遂げられたいけにえとしての働き(sacrificial work)を大祭司として、適用することになるのです。
「地上で」の働きについて述べた後、キリストは昇天後の、将来の栄光について語られます。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」(17:5)。ヨハネの福音書において再び、キリストの神性が明らかにされています。キリストは「世界が存在する前から」御父と共におられました。さらにここでは、栄光のさまざまな側面が示唆されています。永遠の過去には、キリストが子なる神であられたときの栄光がありました。キリストが地上におられる間はどうにかして、神人としてキリストが謙卑の状態で持っていた栄光という、別の側面がありました。そして、天国においても、永遠の過去と同じようなキリストの栄光があります。しかし、それは受肉前の永遠の子なる神としてのキリストではなく、神人としてのキリストです。
ヨハネの福音書17章9-19節はキリストの弟子たち関する明確な願いを含んでいます。17章6-8節には、御父がその願いを聞き届けるべき根拠や理由がいくつか書かれています。キリストは御父が世から選び出して与えてくださった人たちに、御父の「御名を現しました」(6)。そして、御父がキリストを遣わされた事を信じたのです(8)。ある進行があります。「[弟子たち]は[御父]のものでしたが、[御父]は[キリスト]に委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました」(6)。つまり、弟子たちの選びは御父により、弟子たちは御子に与えられ、弟子たちは適切に応答したのです。したがって、御父が御子に民を与え、弟子たちが信じる事を御父と御子(と聖霊)が保証することが、合意の一部であったのです。
御父と御子の合意
前述のように、ヨハネの福音書17章1-8節には、選民の救いに関する御父と御子の間の合意の側面があります。福音書の他の箇所でも、この合意には聖霊が関わっておられることがわかります(例えば、3:34; 14:26; 15:26; 16:13-15)。この合意はいろいろな名前で呼ばれています。改革派神学者は、主に贖いの契約、平和の計議(ゼカリヤ6:13)、またはパクトゥム・サルティス(羅:pactum salutis)という言葉を用いて、この合意について述べてきました。
聖書全体の意図を考え、手短にいうならば、贖いの契約は、選民を救うために永遠の過去に結ばれた三位一体内の合意です。この契約には、約束、与えられるもの、成し遂げられるべき働き、遣わす者(御父と御子)、遣わされる者(御子と聖霊)、キリストが受肉して選民を代表することに同意されたこと、相互に栄光を与えること、などが含まれます。この合意は永遠の過去になされたものですが、神人であるキリストの仲介者としての役割に関連するものです。
そして、この贖いの契約は、恵みの契約と密接に関連しています。恵みの契約は、三位一体の神と選民との間の時空内[訳注:時空外である「永遠」の反対として]における合意です。しかし、改革派神学者の中には、概念的に別々の二つの合意、あるいは契約を見るのではなく、一つの合意、あるいは契約と見なすことを好む者もいます。彼らは、贖いの契約の側面は、恵みの契約に含まれると考えています。この二つの見解の違いは、ほとんどの場合、意味論上(semantic)の違いです。
ヨハネの福音書17章1-8節から三位一体内の合意について何を学べるでしょうか。御父はいくつかのものをキリストに与えられました。その中には、特に選民が含まれています(17:2, 6. 6:39; 10:29 参照)。御父はまた、「すべての人を支配するする権威」(17:2)と選民たちに与える「言葉」(8節. 3:34参照)をキリストに与えられました。最後に、御父はキリストに「わざ」を与えました。これはキリストが「地上で」しなければならないすべてのことを言いまとめたものです(17:4. 4:34; 5:36-37参照 )。そして、キリストにものを与えることに加えて、御父はキリストを「遣わし」(17:3, 8)、栄光を与えることを約束されました(1節. 8:54参照)。
ヨハネの福音書17章1-8節では、キリストは選民を受け入れ、適切にその益を図られます。キリストはまた、「与え」られます。選民たちに「永遠のいのち」を与え(17:2. 6:40; 10:28も参照)、御父の「ことば」を与えられます(17:6. 1:1; 3:34参照)。そして、御父と聖霊と共に、選民が「あなた[御父]のみことばを守り」、「真理を知り」、「あなた[御父]が私[キリスト]を遣わされたと信じ」る(17:6, 8)ことを保証されるのです。選民のための具体的な祭司のお働きとしては、キリストは十字架の辱めを耐え(「時が来た」17:1)、彼らのために祈られました(6-9節)。キリストは人として選民を代表し、彼らのために死ななければならないので、受肉されたことも契約の一部なのです。最後に、より直接的に御父に関係することとして、キリストは御父から与えられた「わざを成し遂げ」、御父の「栄光を現わし」ました(4節. 9:4参照)。またキリストは選民に対して「あなた[御父]の御名を現しました」(17:6. 10:25参照)。
あなたが遣わされたイエス・キリスト
大祭司の祈りの中で、キリストはご自身のことを「あなたが遣わされたイエス・キリスト」と呼びます(17:3)。ヨハネの福音書において、「遣わす」という動詞は非常に多く使われています。実に58回も、です。(英語の “to send”[日本語の「遣わす」]の元には実は二つのギリシャ語の言葉があります。pemp[31回]とapostell[27回]です。ヨハネではほぼ同義語として使われています。)「遣わす」は三位一体の位格の間で何度も使われています。御父はキリスト(3:17; 5:36; 7:28. 一ヨハネ4:9参照)と聖霊(14:26; 15:26)を遣わします。遣わされた者であるキリストも、聖霊を遣わします(15:26. 16:7参照. 黙示5:6と比較)。さらに、信者もまたこの遣わされる営みの一部なのです。「父がわたし[キリスト]を遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(20:21. 13:20; 17:18参照)。
このことをさらに強調するために、キリストはしばしば御父を「わたしを遣わした方」という二つ名で呼んでおられます(例として、5:23-24; 6:38, 44; 8:16; 12:45; 14:24; 16:5)。同様に、キリストは四回、「父が遣わされた者」、という二つ名を自称しておられます(3:34; 5:38; 6:29; 17:3)。
「あなた[御父]が遣わされた者」(17:3)という自称から、キリストの人格について何を学ぶことができるでしょうか。第一に、キリストを理解することは三位一体の中の一つの位格としてキリストを理解することだと学べます。三位一体とは関係のないキリストは、キリストではありません。御父と聖霊との間に形だけのつながりしかないキリストは、形だけのキリストにすぎません。聖書のキリストは、御父と聖霊と完全に交わり、御父と聖霊との関係によって定義されるキリストなのです。
第二に、キリストの偉大な救いの使命は三位一体の働きの一部であり、今もそうであることを学びます。キリストは御父によって遣わされ、キリストは聖霊を遣わします。私たちの救いの計画と実行は三位一体的なのです。三位一体の各位格は同じ御業を行いますが、各位格はその固有性にふさわしく、他の二位格から切り離せない形で行われます。なぜなら、その御業を行う神は究極的にはただおひとりだからです。様々な「遣わし」はこのことを示しています。キリストとは誰でしょうか。御父が遣わされた方であり、聖霊を遣わした方です。御父とは誰でしょうか。キリストを遣わし、聖霊を遣わした方です。これらの「遣わし」の目的は何でしょうか。選民の救いです。
第三に、三位一体内の関係との関係を考察することで、キリストが遣わされることについてよりよく理解できるようになります。ここで、私たちはより謎めいた領域に足を踏み入れることになります。まず、キリストが遣わされる事に関する示唆を得る前に、幾らかの予備知識が参考になります。教会が長い間言ってきたように、三位一体の内的関係は創造と贖いにおける各位格の固有の外的働きの根拠となるものです。つまり三位一体の各位格の、創造と贖いにおける役割は、三位一体の中で父、子、聖霊の間に常に存在していた関係に類似しているのです。したがって、この関係が存在することを聖書が示している以上、内的関係から外的働きへの推測、あるいはその逆の推測を行うべきです。慎重に。しかし、いくつか注意すべき点が、特にキリストの贖罪における役割を考える時に、あります。ここには確かに内的関係と、外的働きとの間の関係が存在しますが、それは(一)贖いの契約、(二)キリストが神人として仲介者としての役割を果たすことによって「ろ過」される必要があるのです。
このような背景を踏まえて、「内的関係」と「外的働き」の関係は、「遣わされること」にどのように適用されるのでしょうか。ヨハネの福音書では、内的関係と外的派遣の間に強い相関関係があるように見えます。三位一体の中で、聖霊は御父と御子から永遠に出ずる(eternally proceeds from)存在です。このことは、外的には聖霊が御父と御子によって遣わされることと一致しています(15:26)。三位一体の中で、御子は御父によって永遠に生まれ(eternally generated/begotten)ます(5:26)。このことは、外的には御子が御父によって遣わされたことと一致しています(7:29, 8:42)。これらの相関関係から、キリストが遣わされたことについての誤解を正す一つの含意だけを見たいと思います。表面的には、神の位格(divine person)が遣わされるのは不可能だと思うかもしれません。しかし、御父による御子の永遠の発生は、キリストの神性に影響を与えないということを知れば、これに対応する、キリストが御父によって遣わされることは、キリストの神性に影響を与えない、という真理が裏付けられるのです。
より深くキリストを知る
ヨハネの福音書17章8節では、知ることと信じることが並行して語られています。キリストは御父に、「[彼らは]わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言います(強調筆者)。ここでもあるように、多くの場合聖書では知識とは、ただ知的な情報ではないのです。まことの信仰と信頼に結びついた「知る」ことなのです。クリスチャンにとって、キリストの諸相をより深く知ること(あるいは再認識すること、さらに確証すること)が、キリストをより深く知ること、信じることなのです。
ヨハネの福音書17章8節は息を呑む様な現実について述べています。私たちは三位一体内の現実について重要な真理を学びます。そこには相互栄現、贖いの契約、そして遣わす関係があります。そして私たちはキリストの人格について重要な真理を学びます。キリストは神人であり、御父から遣わされ(そして聖霊を遣わし)、私たちのために進んで死に、私たちのために祈ってくださるのです。
また、私たちの救いについての重要な真理を学びます。それはここでは「永遠のいのち」(3節)と呼ばれています。それは永遠の神と共にあるいのちです。それは、キリストによって、不相応な私たちに与えられたいのちです(2節)。三位一体の「ことば」を喜んで「守り」、「受け入れる」人生です(6, 8節. 16:12-15参照)。それは、ますますキリストを知り、信じ、栄光のキリストに会うのを待ち望む人生です。
キリストを知り、信じることの一つの側面は、キリストに倣うことです(13:15)。ヨハネの福音書17章1-8節は、キリストと御父(と聖霊)の交わりから、私たちが他のクリスチャンと交わる時の模範を、適切に条件付けされてあるものの、提供しています(11:41-42)。キリストは人と人格的関係を築かれ、他の者の栄光を現す事を喜ばれました。キリストは遣わされる事を喜び、遣わす者となられました。キリストは他の者のために困難な仕事を喜んで成し遂げられました。他の者のために喜んで祈られました。贈り物を贈られることも、贈ることも喜ばれたのです。キリストは他にも理由があるものの、父なる神への愛のゆえに、他の者を愛してくださいました
ヨハネの福音書17章1-8節が聖霊によって用いられ、私たちが御父の遣わした祭司である御子をより深く知り、信じることができますように。
この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。