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抑制力としての律法

編集者注:これはテーブルトーク誌の「摂理」というシリーズの第七章の記事です。

法定速度を超過して車を走らせている時に、少し先の路肩にパトカーが停まっているのに気が付いて、すぐに制限速度まで減速する。そしてすれ違う時に、パトカーに誰も乗っていなかったことに気が付く…。ほとんどの人が、このような経験をしたことがあるのではないでしょうか。一時的であっても、誰も乗っていなくても、パトカーという 「法(law)」を体現する存在が、私たちの無法な行為(lawlessness)を抑制したのです。

16世紀の宗教改革者たちは、神の律法(the law of God)に三つの「用法」があるのを認めました。司法的用法(私たちの堕落を抑制する「手綱」)、養育的用法(私たちの罪深さを明らかにし、罪人の唯一の救い主であるイエス・キリストを指し示す「鏡」)、そして規範的用法(私たちが神を喜ばせるための基準である「直っすぐな定規」)です。キリスト者は時として、律法の抑制的機能(the restraining function)は新生していない者に限定されていると考えがちです。律法は、「堕落した心の欲するままに悪事を働くことを、罰の脅しや恥の恐れによって抑制されなくてはいけない人たち」のための物である、と。しかし、神の律法は、新生した人の中に内在する罪を抑制するものでもあり、この律法の働きは、神が私たちを丘の上の町とするための方法の一つであることを認識することが大切です(訳注:マタ5:14参照)。

イエスを信じる者のために神が与えた戒めの、この忘れられがちな目的について、ウェストミンスター信仰告白19章6項は、直接的に語っています。まことのキリスト者が「わざの契約としての律法の下におらず、それによって義と認められたり罪に定められたりはしない」と認めた後、ウェストミンスター信仰告白は、聖人(つまり信者-the saint)の人生において、律法の規範的用法と、養育的用法は常に効力を持つと主張します。ウェストミンスターの神学者たちは、律法はダムのようなものだと主張しました。キリスト者の内から洪水のように不敬虔が溢れ出るのを、防ぐためのものだと。「律法はまた同様に、再生したものにとって、、、彼らの腐敗を制御するのに有用である。」神の律法は、信者をどのように抑制するのでしょうか。

第一に、律法は直接的に罪を禁じています。回心する前、私たちは神の律法が罪を禁じていることを気にも留めませんでした。しかし、神の御霊が私たちのうちに住んでおられる今、天の御父が何かをしてはならないと言われるだけで、私たちは無法状態から守られるのです。御父の心を痛める事をしたくないからです。不従順が父の意志に反することであることは、私たちに深い影響を及ぼします(ヤコ2:11)。私たちは、詩篇の作者とともに、私たちを悪から遠ざけてくれる神の律法に従いたいと切望しています。「私はいかなる悪の道にも足を踏み入れません。あなたのみことばを守るためです。」(詩119:101)。

第二に、私たちの罪はイエスの血と義によって覆われていますが、律法の警告は、その罪に値する罰(what our sins deserve)を、思い起こさせます。エズラの祈りに見られるように、私たちが受けるべき罰を、イエスが私たちの代わりに、引き受けてくださったことを改めて認識することで、私たちは罪を避けようとするのです。「私たちの悪い行いと大きな罪過のゆえに、様々なことが私たちの上に起こりましたが、私たちの神、あなたは、私たちの咎に値するよりも軽い罰を与えました。そのようなことの後で、私たちは再びあなたの命令を破るべきでしょうか。」(エズ9:13-14)同じように、私たちは罪のためにさばかれることはありませんが、それでも天の父に訓練されるのです。父なる神の手からくる、罪の結果に対する警告が、不義に対する強い抑止力となります(詩89:30-33, Ⅰコリ11:32, ヘブ12:5-11)。

最後に、ウェストミンスター信仰告白の言葉を借りるなら律法の約束は「服従に対する神の是認と、それを果たした場合、わざの契約としての律法によって彼らに当然のこととしてではないが、どのような祝福を期待できるか、を示す」(19章6項)のです。聖霊は神のおきてに従って歩むものに約束された大いなる報いを用いて、聖い者として生きるように励ますのです(詩19:11、詩34:12-16、エペ6:2、Ⅰペテ3:8-12)。パウロはこの動機をコリント人への手紙第二7:1に明示しています。「愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。」

救いに至る信仰は神の言葉の「命令には従い、威嚇にはおののき、この世の命と後の世の命への約束は信じ」ます。それゆえ、神の律法はキリスト者にある腐敗の残滓を効果的に抑制するのです。カルヴァンの言葉を借りるなら、律法は「(革の鞭であり)怠惰で遅純なロバが鞭で働かざるを得なくされるのと同じであり、いや、霊的人間も肉の煩労から免れていないのであるから、彼らが弱り衰えることを許さぬ絶え間なき刺として、これは役立つのである。」(綱要2.7.12 渡辺信夫訳)確かに、律法の抑制効果は、信者の生活において唯一の、あるいは最も重要な力ではありません。-全ての根底にあるのは、私たちを捕らえたキリストの愛です(Ⅱコリ5:14)-それでも尚、神の律法は、私たちを悪い道から遠ざけ、神の御名のために正しい道へと導いてくれるのです。

また律法は世のために、私たちを抑制します。まず律法は私たちの不敬虔を抑制し、私たちをより塩気の効いた塩、より光り輝く光にします。(マタ5:13-14)失われた人々の間に私たちが置かれていることは、彼らの堕落を強力に抑制します。第二に私たちの罪が律法によって抑制され、また抑制され続けなければならない、という現実は、私たちを謙遜にさせます。この謙遜は、失われた人々への関わり方を変えます。パリサイ人の精神で接するのではなく、取税人の心で接するようになるのです(ルカ18:9-14)。私たちの罪は(たとえ律法を通してであっても)神の恵みによってのみ抑制されることを知る時、私たちの証は優しさに溢れ、恵み深いものとなります。

今度、誰も乗っていないパトカーを見かけたら、あなたの人生のうちに働かれる神の律法の抑制力を思い出し、あなたが出会うすべての人に向けて、キリスト・イエスのへりくだった恵みを輝かせてください。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

カレブ・カンゲロシ
カレブ・カンゲロシ
カレブ・カンゲロシ牧師は、ミズーリ州リッジランドのピアオーチャード長老教会の主任牧師であり、ログカレッジプレス(Log College Press)の創立者。