キリストにあって
2022年10月11日(木)
三位一体の神との結合
2022年10月18日(木)
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苦難と神の栄光

編集者注:これはテーブルトーク誌の「キリストとの結合」というシリーズの第二章の記事です。

私は以前に一度、末期の子宮がんを患っている女性に会いに行ったことがあります。彼女は非常な苦しみの中にありましたが、それは必ずしも身体的苦痛によるものだけではないようでした。彼女は、若いときに中絶手術をしたことを私に打ち明け、この病はその過ちに対する報いにちがいないと考えていました。短く言えば、がんは、彼女に下された神のさばきだと信じていたのです。

死の淵にいる人がこのような悲痛な訴えを投げかけてきたとき、牧師としては、その苦しみは罪に対する神のさばきではない、と答えるのが普通でしょう。しかし、私は正直でなければなりません。そこで、ただ私は「わかりません」と言うほかありませんでした。その病が神のさばきであったかもしれないし、そうでなかったかもしれません。私は神の秘められたご計画を推し量ることはできませんし、目に見えない神の摂理の御手を読みとることもできません。ですから、彼女の苦しみの理由もわかりませんでした。しかし、わかっていたこともありました。それは、その理由が何であれ、彼女の罪に対する答えはあるということです。私たちはキリストとキリストの十字架の憐みについて語り合い、彼女は信仰のうちに息を引き取りました。

彼女の問いかけは、苦悩を抱える多くの人々が日々投げかけている疑問と同じです。この疑問は、新約聖書の中でも最も解釈が難しいとされている、ヨハネの福音書9章で取り上げられています。そこにはこう書かれています。「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。『先生、この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。』イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです』」(1-3節)。

なぜイエスの弟子たちは、この人が盲目である根本的な原因が、彼自身あるいは彼の両親の罪にあると考えたのでしょうか。このように決めてかかった根拠があるはずです。それは、聖書が、堕落以降、あらゆる苦しみや病い、そして死がこの世界に存在する理由は罪であるということを明確に示しているからです。この人の苦悩に、何らかのかたちで罪が関わっているはずだという弟子たちの考えは、あながち間違いではありませんでした。事実、聖書には具体的な罪のために神が苦悩を与えられた例がいくつかあります。古代イスラエルでは、モーセの姉ミリアムが、神のことばを伝えるというモーセの役割に対して苦言を呈したため、神はミリアムにツァラアトの苦しみを与えられました(民数12:1-10)。また同様に、神はダビデの罪の結果バテ・シェバに生まれた子のいのちを奪っておられます(二サム12:14-18)。その子が何かをしたからではなく、ダビデに対する神の直接的な報いとして、その子が罰せられたのです。

しかし、弟子たちは、罪と苦しみの基本的な関係を単純化するという間違いを犯しました。彼らは盲目の人の罪と、彼の苦悩との間には、直接的な繋がりがあるはずだと決めつけたのです。弟子たちはヨブ記を読んでいなかったのでしょうか。ヨブ記には、無実でありながら神によって激しい苦悩がもたらされるヨブの姿が描かれています。弟子たちは、もう一つの選択肢を見過ごし、二つしか選択肢を掲げなかったという失敗を犯しています。弟子たちがイエスに投げかけた質問は「AかBのどちらか」という質問でした。これは論理的に間違っています。その人の罪か、その人の両親の罪かが、彼の盲目の原因であると決めつけているからです。

また、弟子たちは、苦悩を抱える人は誰でも、彼らが犯した罪に比例して苦しんでいると考えました。これについてもまた、ヨブ記を読めばこの結論は打ち消されます。彼よりも罪の重い人々の苦しみや苦悩と比べて、ヨブが負わされた苦しみの度合いは、あまりに桁違いの苦しみであったからです。

私たちは決して、ある具体的な苦悩が、必ずその人の具体的な罪の結果、またはそれに直接関係しているものだという結論に即座に飛びついてはいけません。生まれつき盲目であった人の話は、この点を明確にしています。

主は、この人が盲目であるのが本人または両親の罪によるものだという弟子たちの考えを改められました。主は、この人が生まれつき盲目なのは、その人や彼の両親を神が罰しているからではないと断言されました。盲目には、別の理由があったのです。そしてこの別の理由があったからこそ、神が私たちに与えられる苦悩にも、常に別の理由があるのかもしれません。

イエスは弟子たちに答えて言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(3節)。これはどういう意味でしょうか? つまり、この人が盲目に生まれたのは、定められたときにイエスが彼を癒すためであり、その御業がイエスの力と神性を証するためである、ということです。私たちの主はこの癒しの御業を通して、救い主として、また神の子として、ご自身を現されたのです。

苦しみの中にあるとき、私たちは神がすべてをご存知でおられることを信頼しなければなりません。そして、神はご自身の栄光のために、また神の民の聖化のために、民の痛みや苦悩のうちに、またそれらを通して働かれることを信じなければなりません。長い苦しみに耐えることは容易ではありません。しかし、盲目の人に隠された奥義を解き明かしてくださる主の声を聞くとき、その重荷は何と軽くなることでしょうか。彼に与えられた長年の痛みは、イエスの栄光のために、神に用いられたのですから。


この記事はテーブルトーク誌に掲載されていたものです。

R・C・スプロール
R・C・スプロール
R・C・スプロール博士は、リゴニア・ミニストリーズの設立者であり、フロリダ州サンフォードにあるセント・アンドリューズ・チャペルの創立牧師、また改革聖書学校(Reformation Bible College)の初代校長を務めた。彼の著書は『The Holiness of God』など100冊を超える。